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復刻 死者の夢 ~理想は受け継がれる~
1886年、澁澤栄一、伊藤博文、大隈重信など、時の指導者179人によって設立されたのが、女子教育奨励会のはじまり。創設者一人ひとりの志と夢を追い、一緒に時の扉を開いてみませんか。21世紀版・女子教育奨励会の源流を辿る。
澁澤雅英
MRA代表。澁澤資料館長.....[詳しいプロフィール]
 

渋沢栄一 - 87才の願い

渋沢栄一が有能な経営者であったことは間違いない。第一銀行を始め、王子製紙、東洋紡績、日本郵船など、当時の日本を代表する多くの会社の設立に関わり、絶え間ない努力の結果その運営を軌道に乗せた。しかし、企業の運営が栄一の人生の最終の目的だったとは思えない。60年を越える財界での活動を通して、自分で所有しようとした会社が一つもなかったこともその現れだったかも知れない。

栄一の人生は、日本のために必要なことは何でもやろうという決意に貫かれていたように見える。国の近代化のために企業の発展に全力を尽くす反面で、成長の背後に積み残された福祉問題の重大さに気づくと、生涯をかけてこれと取り組んだ。明治19年(1876)東京養育院を設立し、昭和6年(1931)に亡くなるまで院長を務め続けた。養育院付属の老人病研究所は、今では一流の高齢者施設として国際的にも高く評価されている。

教育への思い入れも大きかった。既に明治8年(1866年)には、森有礼文部大臣の依頼で商法講習所の開校に努力した。後に東京高等商業、戦後は一橋大学となるこの学校は、大学への昇格に大変苦労した。商人には高等教育は要らない、気位ばかり高くなっては困るという、江戸時代以来の偏見が根強く残っていた。これに対して栄一は「官僚は凡人でも務まるが、商業には一流の人材が必要だ」と、当時としては革命的な反論を投げかけ、長い努力の末ついに大学昇格を勝ち取った。

大隈重信との関係で早稲田大学の建学・運営にも肩入れし、伊藤博文との交友から明治21年(1888)には女子教育奨励会、ならびに東京女学館の創立にも参画した。日本の女子教育の第一人者、成瀬仁蔵に説得されて、日本女子大学の設立運営にも貢献した。商人の場合と同様、当時は女性についても高等教育不要論が大勢を占めていた。商人のためには敢然と闘った栄一も、女子教育については、とかく歯切れが悪かった。後に自ら告白しているように「女子と小人は養い難し」という古い考えが身に付いていて、女性が高すぎる教養を持つことは、社会の不安定要因になるのではないかなどと考えていた。

しかし明治から大正、昭和と時代が進むに連れて、栄一の考え方は大きく変わる。理由の一つには「女子を国民として教育する」と高らかに歌い上げた成瀬氏の影響があった。しかしもっと本質的な背景は、日本の社会そのものの変化であった。昭和2年(1927)4月20日、日本女子大学の創立26周年記念式典での栄一の講演は、たいへん興味深い。

「(今の)政界、官界、経済界は何のざまでありましょうか、しかもそれら(の仕事)に携わる人々は皆学問をした人々であります。その人々の行い(の醜さ)は何でございましょう。あなた方にかような鬱憤を漏らしては相済みませんが、私のような年寄りでさえ、「実に嫌になりました」と申したいくらいであります。女子大学に(向かって)世の中の鬱憤を申すのはお門違い、失礼千万ではありますが、あなた方も日本国民の一人としては、お互い御同様に心配し、責任を分かたれねばならぬと思います・・・世の中を憂うるの余り、皆さまを婦人方だからとは思わず、むしろ皆さまを尊敬し、もっとも有力なお方と思うて、かくのごとくお願い申し上げる次第であります。」(影山礼子「成瀬仁蔵と渋沢栄一」渋沢研究第2号1990年、渋沢史料館発行)

昭和2年と言えば、3月に片岡蔵相の議会での発言をきっかけとして、金融大恐慌が始まった年である。4月5日には鈴木商店が破綻、18日には台湾銀行が休業、この日4月20日には田中義一内閣が成立、2日後の22日には3週間のモラトリアムを実施、日本は明治以来最大の経済危機に突入しようとしていたのである。従って栄一のこの話は、現在の日本と本質的には極めて近い状況の中で行われたわけである。

この発言のなかで、栄一が女性を国や社会を形成する責任ある主体と見なしていることは明らかである。昔とは様変わりで、男性への失望をあらわにし、国の苦境を女性に救って貰いたいと懇願している。時代の変化に敏感に反応し、古い考え方をどんどん改めて行く87才の栄一の、柔軟な精神と思考が印象的である。そして現在の日本の苦境を見るにつけ、栄一の思いの切実さは人ごとではない。殆ど全面的に男性の手で運営されてきた戦後の日本は、今や当時に勝るとも劣らない深刻な破綻を経験している。

それにしても昭和2年の段階で、もし栄一が望んだように、女性の本格的な社会参画が実現していたとすれば、世界全体を敵に回して無謀な戦争を仕掛けるという、その後の悲劇を避けられただろうか?歴史に「もし」を考えることは生産的でないかも知れない。しかし昭和2年の栄一の言葉は70年後の今日、この国の未来との関わりの中で、いっそう切実な響きをもって心に迫って来るのである。

2002年10月

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