English Site  
 


復刻 死者の夢 ~理想は受け継がれる~
1886年、澁澤栄一、伊藤博文、大隈重信など、時の指導者179人によって設立されたのが、女子教育奨励会のはじまり。創設者一人ひとりの志と夢を追い、一緒に時の扉を開いてみませんか。21世紀版・女子教育奨励会の源流を辿る。
澁澤雅英
MRA代表。澁澤資料館長.....[詳しいプロフィール]
 

渋沢栄一の世界 第2回 企業人・民間人として

渋沢栄一
渋沢栄一

企業人としての栄一の人生が始まりましたが、それは容易な道ではありませんでした。 肝心の第一国立銀行が、間もなく創業パートナーの一社の破綻で存立の危機に見舞われ、栄一の必死の努力で、 かろうじて生き残りました。また日本最初の本格的製造業である王子製紙 は何年も欠損を続け、自前の技術を確立し、日本を代表する会社に成長するまで10年近くの間、栄一は出資者達への説明と、 追加投資の要請に日夜奔走しなければなりませんでした。

東洋紡績、日本郵船など数多くの企業で、同じような苦しみを経験しながらも、栄一は常に前向きで、新しい事業を興そうとする人々に対し、銀行からのローンの組み方や、正確な財務諸表の作り方を指導するなど積極的に支援しました。多くの場合発起人名簿に名を連ね、開業資金の一部を自ら投資しました。そして会社が無事設立され、経営が順調に進み始めると、持ち株を売却し、その資金を次の新しい企業の支援に充当しました。

仕事を私物化しないというのは栄一の行動原理の一つでした。あれほど苦しんだ王子製紙ですら、三井が株式取得の希望を示すと、相手が驚くほど、あっさりと自分の持ち株を提供したと云われています。栄一にとって企業の経営は日本の近代化の手段でしかなく、自分の資産より、国が必要とする多くの企業を立ち上げる事を優先したのでしょう。

事実当時栄一が設立経営に参画した470あまりの企業は製紙から紡績、鉱山から製造業、鐵道から海運、公共事業から生命保険、ホテルから劇場、更にレゾート開発に至るまで、生まれたばかりの日本の近代産業のすべての分野を網羅していました。

その一方で栄一は、企業人たちに、政府の指図を待たず、現在の言葉で言えば、「民にできることは民の手で」実現するという気概を持たせることに情熱を燃やしていました。しかし江戸時代以来の差別意識を色濃く引きずっている当時の経営者達は、共通の問題には共同で取組み、必要に応じて集団で政府に働きかけようという栄一の提案を、なかなか理解しようとしませんでした。当時の栄一の活動の記録からは、連日連夜行われる各種の会合のなかで、ほとんど無限と思われる時間とエネルギーを費やして、懇切丁寧に説得を重ねる、印象的な姿が見られます。

こうしたねばり強い説得の効果が、やがて銀行協会、商工会議所、株式取引所等という業界ネットワークの立ち上げとなって花を開きました。そしてその過程で培われてきた人間的信頼により、栄一はこれらの団体のすべてで、初代の理事長や会長に推薦されました。

企業人達自身の意識も、時とともに変わりました。新しく創立された早稲田や慶応など大学出の若い世代の間には、政府の省庁に就職するよりも、民間経営者としてのキャリアを選択する傾向が見られるようになりました。そして「財界」という名のエリート企業人の集団が育ち始めました。それはこの国に、幕府や政府とは違う新しいパワーセンターの誕生を告げるものでした。

栄一自身、明治37年(1904)のある朝、やがて日露戦争で陸軍参謀総長として活躍することになる児玉源太郎大将の突然の訪問を受けたときのことを語っています。児玉大将はロシアとの差し迫った対決について説明し、栄一に対し、経済界が政府の決断を支持するよう意見を纏めてほしいと丁重に要請しました。それは、経済界の存在を、現在の言葉でいえばステークホールダーとして認めたという事で、明治以前の状況では考えられないことでした。そしてその流れは、その後も継続発展し、今では経団連、経済同友会、商工会議所ほかの業界団体が、国の政策に与える影響力の大きさに反映されています。

20世紀に入った頃から栄一は日本の対外関係、特に中国並びにアメリカとの関係をたいへん心配するようになりました。高齢化の進行にも拘わらず大正2年(1913)には袁世凱政権の招きで中国を訪問し、また明治35年(1902)以降、アメリカには4回旅行し、ルーズベルトからハーディングまで4人の歴代大統領と会談すると共に、各地で多数の人々と交友を深め、いわゆる民間外交の推進に努力しました。

1920年にはアメリカの東海岸を中心として多数の企業経営者、ジャーナリスト、政治家などを東京に招き、「日米関係委員会」という国際会議を主催しました。当時は米国西海岸への日本人移民の問題が両国の関係を難しくしていて、栄一も個人的にそれに深く関わっていました。しかしこの会議では参加者達に、敢えてこの局部的な問題に深入りすることを避け、もっと大きな課題、例えば中国の経済発展のための日米両国の協力の可能性や、西太平洋の国々の繁栄を目指す国際的枠組みの構築などを論議することを主張しました。これは第二次大戦後の世界で、「民間知的交流」と呼ばれるようになる国際交流の新しいパターンで、栄一は1920年の時点で、すでにそうした方式の意味と効果を意識していたものと思われます。

大蔵省を退任後間もなく、栄一は徳川幕府が残した貧民救済の仕組みを復活させる計画を自ら主張し、推進しました。それは後に東京養育院として、東京府の貧困救済事業の一翼を担うこととなり、栄一は60年間その院長を務め、毎月のように各地の分院を訪れ、ホームレスや障害児達との対話に努めました。国内国外を問わず、栄一は常に公益的な事業に積極的に取り組みました。多くの病院や学校、孤児院や養老院など600以上といわれる各種団体に役員として参加していました。

教育については、当初は官尊民卑打破を実現する手段として実業教育に情熱を傾けました。当初商法講習所といわれていた組織を、商業学校、さらには商科大学に昇格拡大する事は信じがたいほどの難事業でした。当時は商人には教育よりも実務が必要、それもなるべく若い、小僧のうちから経験を積ませる方がよいという考え方が一般的で、商業教育の大学昇格には根強い反対がありました。栄一は40年にわたって各方面に説得を重ね、ついに大正9年、東京商科大学、現在の一橋大学が成立しました。

女子教育については始めは余り乗り気でありませんでした。「女子と小人は養いがたし」という江戸時代の常識に毒されていたと自分でも告白しています。しかし東京女学館の設立に関係し、JKSKの前身である女子教育奨励会の組織運営に参画したり、ついで成瀬仁蔵先生の信念に共鳴し、日本女子大学の設立運営に努力しました。それも単なる支援ではなく、大正13年には女学館の館長、昭和6年には女子大の校長に就任しています。

2006年10月18日に行われたJKSKサロンでのスピーチ原稿を元にしています

写真はすべて渋沢史料館所蔵

バックナンバーリスト

2006年11月 渋沢栄一の世界 第1回 日本近代と渋沢栄一
2002年10月 87才の願い
2002年4月 死者の夢

 

 

 
▲このページのトップへ 
2008©JKSK All Rights Reserved.