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100名山 黒田由貴子 (No.40、掲載年月日:2017年2月20日)

プロフィール:黒田由貴子(くろだ ゆきこ)

(株)ピープルフォーカス・コンサルティング取締役・ファウンダー
1994年、株式会社ピープルフォーカス・コンサルティングを創業。2012年まで代表取締役社長を務める。
グローバルな変革と成長を実現できる人材育成と組織開発のコンサルティングを主業務とする。
現在、 本社;東京渋谷区、その他拠点;大阪、ニュージーランド、上海

特定非営利活動法人ジェン(JEN) 共同代表理事、ほか企業社外取締役就任 多数

黒田由貴子の半生

黒田由貴子

 ある人から「あなたは糸の切れた凧のようだ」と言われたことがあります。敷かれたレールの上を走るのが好きではなく、自分の想いのままに生きてきたので、はたから見るとそんな風に見えるのでしょう。ただ、その想いとは、小学生のときの経験を皮切りに培われた価値観に紐づいており、自分としては、糸は決して切れていないと思っております。(笑)

1.世界とのつながりを感じた子供時代

 ごく普通のサラリーマン家庭に生まれた自分ですが、父親の転勤で小学1年生になると同時に香港に移り住みました。自分を取り巻く社会環境にかなりの衝撃を受けました。当時の香港は、まだイギリスの植民地であり、今の香港からは想像もできないような貧しい国でした。私たち家族は日本では狭い団地住まいでしたが、香港では広いマンションでメイドさんや運転手が付いている。ところが、町に出れば、自分と同じくらいの子供が靴磨きや車の窓ふきなどで生活費稼ぎをしていたのです。最も印象に残っているのは、観光地として有名な船上レストランに行ったときのことです。ネオンが眩い大型船に行くには小さい手漕ぎボートに乗る(ボートを漕いで生計を立てている人たちです)のですが、そのボートの中の暗い片隅で小さい子供たちがご飯を食べていた姿は胸に焼き付いて離れませんでした。小学生ながらに格差問題を思い知ったのです。
 でも、経済がテイクオフする寸前の香港には、活気、エネルギーが満ち溢れていました。香港を去る日の前の晩には、百万ドルの夜景と称される光景を見ながら、寂しさで涙がポロポロとこぼれてきました。
 香港の次にはドイツ(当時は西ドイツ)に赴任となりました。今度は、いきなり最先進国です。引っ越したのが11月だったのがよくなかったのですが、最初のドイツの印象は寒くて暗くて老人ばかりというものでした。香港が恋しくて仕方なく、国の魅力は貧富とは関係ないと思ったものでした。(やがてドイツも好きになりました。)
 ドイツでは、インターナショナル・スクールに通いました。最初は英語がわからず、文字通り右も左もわからなくて大変でしたが、この経験のおかげで、どんな状態でも「なんとかなる」という楽観主義が培われました。学校には、40か国の子供たちがいて、さながらミニ国連のようでした。これだけの多様な人たちに囲まれ、多様な価値観に触れ、「世の中なんでもありなのだ」と理解しました。それが、のちに日本に戻ったときに、日本の価値観や物差しを押し付けられることへの抵抗と、自分の中にある価値観・軸を大事にすることのきっかけにつながったと思います。

2.高校・大学から就職活動へ

 日本に戻ったのは中学3年の12月。1学期だけ東京の公立中学校に通うことになりましたが、私にとっては窮屈で仕方がない苦痛の3か月間でした。「普通の日本的な環境」にはとても馴染めないと思っていましたが、慶應女子高校を訪問して、その独特の校風に魅かれました。運よく合格もできました。慶應女子は福沢諭吉の教えである「独立自尊」の考えを貫き、さらには、そのまま慶応大学に上がれるので受験勉強も必要ないとあって、信じられないほど生徒を自由にしてくれます。帰国子女の自分にはとても居心地のよい場所でした。
 大学は経済学部に進学しましたが、クラブ活動、アルバイト、遊びの3つばかりに精を出していた高校から大学までの7年間でした。
 さて就職活動を迎えたとき、国際社会に貢献したいという思いがあり、国際機関や外務省の外郭団体などへの就職を当初は真剣に考えました。しかし、如何せん、規則に従うのが苦手なものですから、官僚組織は自分には耐えられそうにないと思い直し、次にはNGOへの就職を考えました。が、当時の日本には、有力なNGOがなく、大きなインパクトを社会に与えることも、自分が成長することもあまりできそうにないと感じ、これも諦めました。そして、とりあえず一旦は民間企業に就職してみようと決心したのです。
 そのころ、雇用機会均等法が制定されました。なので、表向きは、女性に採用の門戸が開かれたのですが、各企業の実態はもちろん全く違います。そこで実態を把握すべく、相当な数のOB・OG訪問をしました。とても良い社会勉強になったので、楽しかったですね。就活のためといえば、皆が会ってくれる。就活する学生の特権だと思いましたね。
 紆余曲折ありましたが、最終的には、日本企業の中で最も国際的と見えたソニーを選びました。就活が終わり、自分の足で集めた何十社もの生情報を捨てるのはあまりに惜しいと感じました。自分だけでなく、自分の友人たちも同じようにたくさんの情報収集をしています。そこで、卒業記念も兼ねて、友人たちと、それをデータブックのように編集して、1冊の本として出版しました。「女子大生のためのマル秘就職ガイド」というタイトルの本です。自費出版ではなく、スポンサーしてくれる出版社を探し出し、印税をいただきました。このときに、自分たちの手で作ったものを世に送り出し、それがお金になることのやりがいを猛烈に感じました。起業家としての小さな実体験です。

3.不良社員がHBSへ

 そこまで一生懸命に活動して選んだソニーでしたが、入社後程なく、壁にぶち当たります。配属先は、念願どおりの海外事業部で、CDプレーヤーを販売促進する部署でした。ソニーのCDプレーヤーは商品競争力があり、ソニーのブランド力もあり、売上は絶好調でした。つまり、私が何もしなくても、売れていたのです。売れ過ぎて、ついには在庫切れ。私は、時間をもてあまし、アフターファイブの遊びの計画ばかりしていて、会社の電話で私用電話をかけまくり(携帯電話がない時代ですから)。今になって思うと、酷い社員でした。あまりに時間をもてあましていたので、会社に内緒で、また本を書いて出版してしまいました。「現代OLレポート」というタイトルです。企業に生息するOLの実態をあばくという軽いノリの本でしたが、そういうOLをどう管理したらよいのかの男性上司のための指南書でもありました。
 しかし、そんなことばかりをやっているうちに段々と焦りが出てきました。他の部署や他の会社の同期の友人は皆、大変な苦労をしながらがんばっている。自分だけが取り残されているような気がしてきました。そこで、転機を求め、ビジネススクールへの留学を決意しました。ソニー内の留学派遣制度にも応募しましたが、落ちました。不良社員でしたから文句は言えません。運よくフルブライト財団の奨学金制度には合格できたので、それを元手に、ソニーを休職して、ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)に留学しました。

4.人生の転機となった留学

 HBSはモーレツにきついと聞いていましたが、期待は裏切られませんでした。それどころか、尻尾を巻いて日本に逃げ戻りたいと思ったことは一度や二度ではありません。  HBSはケーススタディ方式といって、ケース(企業事例)を事前に読み込み、教室では、自分がその企業の経営陣だったらどうするかを議論するという独自の教授法を採択しています。帰国子女といっても英語を読むのは日本語の倍くらい時間がかかるし、全く縁のない業界の企業の例なぞいくら読んでもぴんと来ないし、経営陣の考え方なぞ想像も及ばないしと、毎晩がケースとの戦いです。教科書を読んだり、教授の講義を聞いたりすることはほとんどありません。ビジネスに正解はないのだから、自分で状況を分析し、判断し、周りを説得するという訓練をひたすら続けよということなのです。この訓練は、後々のビジネス人生に本当に役立ちました。
 HBSでは一定の成績をクリアできないと退学になってしまいます。クラスメートを蹴落とそうするような意地悪な人はいませんが、成績が相対評価なので、皆が頑張れば頑張るほど、ハードルが高くなっていきます。アメリカ人学生のほとんどが、自己投資として何百万円もの学生ローンを組んで来ているので、学びの貪欲さが半端ではありません。教える方も教えられる方もいつも真剣勝負。日本でのあの生ぬるい学校生活は何だったのだろうと思ってしまいました。
 鍛えてもらっただけでなく、自分の人生が変わるほどのインパクトが3つありました。1つは、自分自身の中に潜在的にあった起業願望を呼び覚まされたことです。2年間を通して1000近くのケースを読むのですが、スタートアップの会社の事例のときに最もエキサイトしている自分に気づきました。お金もない、大したオフィスもない、雇える社員もいない中で知恵と工夫と情熱で乗り切ろうとする起業家のケースを読み、「私もこれをやってみたい!」と思ってしまったのです。
 2つ目は、企業の社会的責任についてです。よくHBSは金儲け主義の権化と揶揄されますが、実のところは、企業の倫理や社会的責任について深く考える機会をたくさん与えてくれました。たとえば、1990年に南アフリカのマンデラさんが釈放されたときには、急きょ授業の予定を変更して、アパルトヘイト問題に対して企業や自分たちは何ができるかを論じ合うことに丸一日費やしました。国際社会に貢献したいという元々の自分の想いは、ビジネスを通じてでもできるかもしれないと思い始めました。
 3つ目は、学生が主体となる学習方法の素晴らしさに感動し、これを日本にも広めたいと想いが沸いてきたことです。勉強は辛くもありましたが、自分で考え、周囲の人と議論をする中で、計り知れないほどの気づきや感動を得ました。当時の日本では、大学の授業はもちろん、企業の研修でも一方通行の講義が普通だったので、とても新鮮でした。
 HBSの卒業を目前にし、ソニーを辞めることを決意しました。自分がいてもいなくても、ソニーのCDプレーヤーは売れていく。でも、起業家として事業を起こしたら、全ては自分にかかってくる、それに挑戦したいと思ったのです。アメリカ人の友人は私の決断に対し「おめでとう!」と称賛してくれました。日本人の友人の多くは、「どうしちゃったの?大丈夫?」という感じの反応です。「留学する前は、有名企業に勤めるのが良いことだと、自分も思っていたなあ」と、自分の了見の狭さに気づかされました。

5.起業から今へ

 HBSを卒業したときは28歳。起業するにはまだ力不足で、もう数年どこかに勤めて自分を鍛えねばと考え、外資系の経営コンサルティング会社に転職しました。コンサルタントは、人が商品ですから、優秀な人とそうでない人の成績の差は歴然とします。さらに、その会社は日本に進出して間もなかったので、事業や組織の立ち上げのプロセスを経験できるというのも魅力でした。遊ぶことばかりを考えていたソニーの時代とはうって代わり、終電がなくなっても尚残業していたものでした。
 そこで3年間勤めたのち、起業しました。自分の他には、手伝ってくれると言う友人がもう一人。つてで、原宿の一等地にある古いビルの一室を借りることができました。2名には広すぎる部屋だったので、起業家仲間数人とオフィスシェアをしました。当時は、オフィスシェアが珍しかったので、日本経済新聞やらNHKやらが取材に来たものです。家具は道端に捨ててあった椅子を拾ったりしていました。打合せコーナーを作るために、板、釘、金づちを買ってきて、お手製のパーティションを作ったりもしました。外資系コンサル会社は給料がかなり高かったこともあり、起業したら年収が5分の1になりました。傍から見ていると、憐れみたくなったでしょうか、当の本人としては、毎日がワクワク・ドキドキで、実に楽しかったです。
 肝心の事業内容ですが、HBSにいたときに温めていた構想が、外国人向けに日本的経営を教えるというものでした。HBSにいたときは、日本経済の絶頂期、いわゆるバブル期で、多くの外国人が日本的経営を学びたがっていたのです。国際社会への貢献にもなるし、HBSで自分が得た感動を再現したいという想いにもつながります。しかし、HBSを卒業し起業するまでの3年間でバブルははじけ、世界の日本的経営に対する関心も萎んでいきました。そのため、私の会社は鳴かず飛ばずの状況がしばらく続きました。
 それで、想いだけでは不十分であり、時代の潮流を読むことも大切だということに気づきました。では、当時の時代の潮流といえば、日本人や日本企業が海外から学ばねばという機運がありました。そこで、HBSや外資系コンサル会社での経験を活かし、グローバルに通用するスキルを教える事業に方針転換しました。とはいっても、日本企業は、名も実績もない小さな会社なぞ相手にしてくれません。相手にしてくれたのは外資系企業でした。株価暴落で割安となった日本企業を買収した外資には、買収後に日本人社員を再教育するというニーズがあったのです。世界でも名だたる外資系企業との取引実績ができてくると、ようやく日本企業からも引き合いが来るようになりました。私は日本も日本人も大好きで、だからこそ日本にずっと住んでいるのですが、よそ者やベンチャー企業に冷たいという日本の側面だけはとても嘆かわしく感じています。
 そうやって会社は何とか軌道にのり、やがて企業向け研修から領域を少し広げ、「組織開発の国内リーディングカンパニーになる」というビジョンを掲げました。(このビジョンは実現できたので、その後ビジョンは何度かバージョンアップされています。)明確なビジョンを掲げると、それに共鳴する人がどんどん仲間入りしてくれるようになりました。海外に支社やパートナーを設け、海外でビジネスを展開するにも至りました。我が社が「黒田由貴子の会社」で終わらぬよう、起業後18年目には、社長の座を後輩にバトンタッチし、自分はその社長を支える側にまわりました。
 事業を通じて国際社会へ貢献しているという実感はあったものの、世界で生じている紛争や貧困問題を見逃せませんでした。そこで、社員たちと相談して、2004年に「売上の1%を世界平和のために捧げる」という方針を立てました。利益の何%かを捧げる企業は多くありますが、売上に比例してという企業は極めて少ないと思います。これは赤字でも社会貢献活動を止めないというコミットメントです。稼ぐことにあまり興味がない自分なのですが、この方針が、自社を拡大させたいというインセンティブになるので、ビジネスにもプラスです。
 その1%は主にNGOへの寄付やプロボノに使っています。最近では、カンボジアの女性の職業支援や在日難民の日本語教育など、直接的な支援活動にも乗り出しています。そんなことをしているうちに、世界各地の被災地や紛争地で緊急支援活動を行っているNPO法人ジェンの代表理事への就任を要請されました。その関係で、ハイチの大地震の被災者支援活動の現場や、ヨルダンにあるシリア難民キャンプ等々を訪れる機会がありました。
 また、アベノミクスのあおりで、今は数社の大手企業の社外取締役にも就任しています。社外取締役の役割は、ステークホルダーの代理として企業を監督するということですが、株主目線だけではなく、社会の目線でも監督することを自分の使命としています。
 最後に、蛇足ですが、プライベート面では、35歳で結婚し、子供はおらず、飼い犬が子供の代わり。家事が苦手で、特に料理はからっきしダメ。幸いにも夫は料理が得意で、家で食べるときは夫が作ります。掃除は外注。親の介護にもまだ直面しておらず、仕事とプライベートの両立で悩んだことはありません。そんなわけで、女性の生き方としては何の参考にもならず申し訳ないですが、子育てしながら働く女性は最大限の応援をしていきたいと考えています。(完)

 



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