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100名山 阿部博美 (No.43、掲載年月日:2017年7月14日)

プロフィール 阿部博美(あべひろみ)
株式会社オフィスat 専務取締役/主婦力プロデューサー。産業カウンセラー、キャリアコンサルタント。
大卒後人材派遣業に携わり、マスコミ・イベント業界を中心にした派遣の営業・マネジメント・教育を経験。登録のために面接した女性の数は数千人を越え、様々な女性の生き方に触れる。社内異動によりマスコミの広告営業を経て、2003年女性視点に焦点を当てたマーケティング会社に転職。その後独立を経て2014年に仲間と2人で株式会社オフィスatを福岡市で起業(http://www.office-at.biz/)。マーケティングを切り口としながら、企業×女性×社会の三方よしをテーマに事業展開を行っている。2012年NPO法人ママワーク研究所設立メンバー。「女性と仕事」が一貫したテーマ

【行き当たりバッチリ】は誇れる私の生き方

阿部 博美

 私の人生のモットーは「行き当たりバッチリ」。「バッタリ」ではありません「バッチリです。目標を掲げてコツコツと努力する、というのが苦手な私がやっとたどり着いた境地です。日々向上するための努力は惜しまない私ですが、遠い先の目標に向かうのは苦手です。数年前、この考え方にはなんとちゃんとした学名がついていることを知り驚きました。それはスタンフォード大のクランボルツ先生が提唱した「計画的偶発性理論(PlannedHappenstance Theory)」です。

仕事人生の変遷と私の性格

 自分の仕事人生を思い返してみると、世代ごとに変化していることに気付きます。大学を卒業後3回転職しがむしゃらに働いた20代、28歳で転職した会社でひとつのことを掘り下げた30代、脱サラしフリーランスで広い世界に飛び出した40代、そしてこれまでの全てを凝縮した会社を起業した50代。一見着々と準備をして進んでいるような印象を受けるかもしれませんが、それは全く違います。実際は、目の前のことをひとつずつ積み上げて、そして人に導かれ、それらを結び付けていった結果こうなった、という感じです。何しろ「行き当たり・・・」な性格ですから。

 正直こんな生き方でいいのかと悩んだこともありました。自己啓発セミナーに参加したり本を読むと必ず、夢に日付を入れろ、5年後10年後の目標を立てて今を進めと言われます。もちろん私にも夢や将来像はあるのですが、計画的にというのが苦手。デキる先人たちの話を聞けば聞くほど、自己啓発どころか「できない自分」に益々落ち込んでいく始末。そんな私も、今はこの積み上げ方式も悪くはないと思えるようになりました。こんな私と同じような人にも勇気を与えられたらと、この文章を書いています。

 考えてみると、私はこだわりが少ない性格のようです。「絶対にこうしたい!」というような頑固さをあまり持ち合わせていないのは、親が転勤族だったことも影響しているのかもしれません。例えば子どもの頃は、家具を買うといってもそうそうこだわっていられませんでした。次の家に合うのか分からず、そもそも入らないかも知れず、いざとなったら捨てていく覚悟も必要です。2年ごとの引っ越しと転校は、物事に執着しないという意識を植え付けたのかも知れません。ただし逆に、あるもので何とかするとか、大抵のものは受け入れるという素養は身についたと思います。

 最初の就職は、出版や広告を希望し、あるベンチャー企業に入りました。ところがいざ入社してみると、配属された先は新設されたばかりの「イベント人材派遣」部門。派遣法ができたばかりの頃で、派遣のハの字も知らなかった私は面食らいました。希望していた部署ではなかったし、何をするのかもよく分かりませんでした。しかしここでも、執着しない私は取りあえず受け入れてみました。実は就活時に両親から「何の会社か分からん」と猛反対されていましたので、辞めるわけには行かなかったという理由もありました。目の前の仕事に全力投球で取り組むうちに、派遣という仕事の面白さに目覚め、徐々に遣り甲斐を感じるようになっていきました。その後の仕事人生もこの「派遣業」が中心になっていくのですから、人生分からないものです。

仕事の何たるかを実践で学ぶ

 学生時代にアルバイトもろくにせず、世の中の仕組みに全く疎かった私は、この最初の仕事で様々なことを叩きこまれました。組織や経済の仕組み、広告やイベントの裏側、様々な企業とその商品や売り方など、毎日が勉強することだらけでした。バブルの時代だったこともありイベントは花盛り、人を派遣する仕事はいくらでもありました。大規模なビジネスショウや展示会、新しい商業施設のオープンや博覧会など様々。しかもそこに関わる企業は基本的に資金力のある大企業でした。営業職だった私は、地方のベンチャー企業、ましてや新人では到底会うことのないような人たちと多く関わることができ、本当に得難い経験をたくさんさせてもらったと思っています。

 その後いくつかの仕事を経て28歳の時、最初の会社でクライアントだった企業からの誘いを受け、その会社に入社することになりました。それは地元放送局の関連会社が新しく作った派遣部門の責任者業務でした。当時の仕事ぶりが認められたようで嬉しくもあり、また、常にいつ誰に見られても恥ずかしくない仕事をしなければと気持ちが引き締まったことを覚えています。
 ちなみに、ここで私に白羽の矢が立ったのには、仕事ぶりだけでなく、私を想起してもらえたことも大きいと思っています。先の会社を辞めてから既に2年の月日が経っていましたが、私はそれまでのクライアントに時々顔を出していました。縁を切らないためです。元々が営業だったこともあり、ふらりと菓子折りを持って行くなどして情報交換をしていたのです。今のようにSNSやケイタイさえありませんから、会社を辞めれば全く連絡がとれなくなるような時代でした。人脈は宝です。最初の会社でお付き合いのあった企業の方や派遣スタフたちと、30年近く経った今でもご縁が続いているのは私の密かな自慢です。

 転職した会社では28歳から40歳まで12年間働きました。派遣の専任者として採用されましたが、ちょうど総務経理のスタッフが辞めて人手が足りないということで、私が兼任することになりました。話が違うじゃないかとも思いましたが、自分の要望を意見するには、まずは働いて信頼を得ることが先決だと思い、まずは流れに乗りました。いざやってみると、経理の仕事は私の知らないことだらけで、ビジネスの流れを深く理解するきっかけとなりました。起業した今、ここでの経理の知識が非常に役立っていますから、何がどう結びつくか分からないものです。結局は5年ほど兼任しましたが、派遣部門が忙しくなってきたことで、要望を出すまでもなく解放されました。
 私は放送局系の派遣会社なのにアナウンス部門がないことが気になっていました。他の派遣会社と差別化するためには、放送局にしかできないことをウリにするべきだと考えていました。そのためにもアナウンス部門が必要であり、そのための養成講座を立ち上げたいと社長に直訴しました。実は講座自体は、長年グループ内の別の会社が運営していたこともあり、当然OKは出ません。しかしその講座自体生徒数も伸びず、内容も魅力のないものだと感じていましたし、修了後に派遣の仕事に繋げられるうちの会社でやるのがベストだと思っていました。何度かの提案と却下を繰り返し、最初の直訴から2年ほどたったある日奇跡が起きました。なんと本社放送局からの異動で、元アナウンス部長が役員としてやってきたのです。私は小躍りしました。これぞ計画的偶発です。何事も諦めないことと、目の前に現れたにチャンスを逃さないことを学んだ体験です。もちろん講座は無事スタートしました。
 さらにここで、イベント派遣時代のノウハウも生きてきました。旧講座はNHKの話し方講座のような固いものでしたが、アナウンサーには見た目も大事と、カラーコーディネイトやメイク、姿勢や歩き方などの講座も取り入れました。そしてそれを教える講師陣も、以前のイベント派遣時代の人脈が生きてきたのです。受講生の数は倍増しました。これがアナウンサー派遣のPRにもなり、本社局への派遣のみならず他局や道路交通情報センターへの派遣など、新しい分野への派遣も開拓することに繋がっていき、売り上げを大きく伸ばすことができました。

 派遣の責任者として10年経った後、広告部門へ異動となりました。派遣に従事して約15年、そろそろ新しいことに踏み出したかった私にとって願ったりの異動でした。この時38歳。この先もこの会社で働き続けるべきかボンヤリ考えるようになった頃です。ふと窓際にいる定年間近のおじ様を見た時、あと20年以上かけてあの席にたどり着く自分がイメージできませんでした。とてもいい会社でしたし、好きなように仕事もさせてもらえ大きな不満はなかったのですが、ひとつ不満だったとすればそれはぬるま湯のような社風です。親会社から次々と天下ってくるサラリーマン経営者と、あまり変化を好まない同僚たちとの仕事は、私にとって少し物足りないものでした。

本屋で出会った1冊の本が転機をもたらす

 39歳のある日運命の出会いをします。それはマーケティングの知識を深めようと行った本屋でのことです。たまたま手に取った本に大きな衝撃を受けました。当時の私は、男性上司との意見の食い違いに悩み、消費者不在で作られていくマス広告に違和感を持っていました。その違和感の原因が分かったのです。この本には、男女では大きく意識や行動の違いがあること、これからはマス広告よりもクチコミが重要になるとあり、目からウロコが落ちる心持ちでした。私は何かに突き動かされるように著者に手紙を書き広島まで会いに行きました。こんなに衝動的な行動をしたのは生まれて初めてで自分でも驚きです。結局著者である社長と意気投合しその場で入社を決意、4ヶ月後には12年勤めた会社を退職していました。今回も偶発的な出会いではありましたが、不思議なことに準備は全て整っていました。長年担当していた派遣部門は2年かけて社内で引き継いでいましたし、広告部門ではまだ大した責任を持たされてはいませんでした。いつかは飛び出すことを考えていた時でしたから、チャンスの波にまたもや乗ったのです。

 広島の会社への転職は正社員ではなくフリーランス契約でした。この時40歳。「正社員の立場を捨ててまで?」と心配してくれる友人もいましたが、私は意に介しませんでした。そしてそれは、一人福岡で離れて仕事をするテレワーク社員第1号でもありました。福岡に拠点はありませんでしたが、広島に行く気はなかったため、長年の営業実績と人脈をウリに交渉し、福岡で仕事ができる条件を引き出したのです。そして友人の心配をよそに契約社員として数年働いた後、テレワークのまま正社員に登用されました。

 入社した2003年は、世の中にネットがやっと浸透した頃で、テレワークもノマドもまだまだ珍しい時代でした。この会社では、私の働き方だけでなく仕事の進め方もユニークで、プロジェクトごとに組むチームのメンバーはネットで繋がった全国の主婦でした。例えば、「取材記事をHPに掲載する業務」に名古屋の企業から問い合わせがあると、福岡の私が営業対応し、名古屋のライターが現地取材し、千葉のWebデザイナーがサイトを作成するといった具合です。私はこのような働き方をもっともっと広めたいと考えるようになりました。なぜなら、派遣時代に関わった多くの優秀な女性たちが、その後結婚し出産し、そしてまた働きたいと思った時、仕事がないという現実をたくさん見てきていたのです。

 この会社には、途中で東京支社単身赴任なども挟みながら5年間在籍しました。福岡の地にいながら、全国の企業やスタッフと仕事ができた経験は何物にも代えがたいもので、今でも本当に感謝しています。その後一時期経営が厳しくなり、会社がリストラに踏み切ることになったとき、私は一番に手を挙げました。元々がフリー契約だったわけですから何の躊躇もありませんでした。これを機に、地元福岡でこれまで以上に頑張っていこうと心に決めました。

フリーランスから起業へ

 2008年45歳でフリーランスになったものの順風満帆とは行きませんでした。「女性視点のマーケティング」という新しい概念のため、それを取り入れようという企業が九州にはまだ少なかったことと、リーマンショックというシュリンクする時代だったこともあります。後ろ盾のあったこれまでのフリーとは違い、全くの一人きりでの営業開拓は心折れることも多々ありましたが、それでも止めようと思ったことは一度もありませんでした。それは、「主婦の力」は世の中に絶対に必要とされていて、顧客ニーズは必ずあると信じていたからです。そうは言っても収入が減ってもチャレンジし続けられたのは、経済的に支えてくれた夫の存在があったからこそだと本当に感謝しています。なんとか小さな実績と信頼をひとつずつ積み上げながら5年が経った50歳のとき、その頃のプロジェクトのほとんどを一緒に実施していた仲間と2人で起業へと踏み切り今に至ります。
 ところでここで少し、私の大きな転機となったプライベートの出来事についてお話しします。

「自分で決めること」を促してくれた両親
   ~これがその後の私の人生の基盤となった

 16歳の時、私の人生で最初の大きなターニングポイントがありました。それは高校の転校です。
 父親は転勤族で、私は生まれた時からほぼ2年ごとに引っ越しを繰り返していました。当然学校は転校、小学校は3つの学校に通いました。高校1年の冬、またもや父親の転勤が決まりました。当時、亭主関白の父と専業主婦の母の中に「単身赴任」という考えはありません。当然家族全員で引っ越しだと思っていた私に、両親から思いがけない言葉をかけられたのです。「あなたはどうする?転校するかしないか自分で決めなさい」と。「えっ?」私は耳を疑いました。転校しないという選択肢があるのかと。「せっかく希望の高校に入ったんだし、転校したくなかったら残ってもいいのよ」と。16歳の娘に一人暮らしを選択してもいいと言う両親に驚いたのと同時に、私を一人の個人として尊重してくれていることがとても嬉しかったのを覚えています。ずい分悩みましたが、結局私は自分で転校することを決めました。なぜなら、親と暮らせるのもあとわずか数年、大学進学で親元を離れれば、これが家族で暮らす最後になるんじゃないかと考えたのです。
 けれども、いざ転校した私はすぐに後悔します。慣れない土地、慣れない言葉、思春期の自意識が邪魔して小学生の頃のように無邪気にクラスに溶け込めず、具合が悪いふりをしては学校をズル休みする始末。でも休んだところで物事は何も解決しません。しかも転校すると決めたのは自分です。誰のせいでもなく誰に文句を言うこともできません。ついに私は観念して学校に通い出しました。そうやって前を向いて進んでみると、結局はそれなりに楽しい高校生活を送ることができたなと、今になって思います。
 この体験は、その後の私にとても大きく影響しています。人生の選択は常に自分の意志で決めること、そして決めた以上は後悔せず前に進むことを心に刻んだことで、その後の様々なシーンを乗り越える力となりました。

 28歳独身の時に母親が突然死でなくなりました。青天の霹靂でした。その頃両親は自分たちの出身地の大分に家を建て住んでいましたが、私は福岡で働いていました。親戚の多くが父の一人暮らしを心配し、私に仕事を辞めて大分に移り住むよう進言してきました。冗談じゃありません。転校生活をしてきた私は大分に住んだこともなく友人もいません。しかも兄ではなく女の私にだけ仕事を辞めろということに憤りを感じていました。父の世話をするのが娘の役割なのだろうかとずいぶん逡巡しましたが、結局移住はしないと決めたのです。自分を犠牲にすればいつか父を恨むかも知れず、また父自身もそれを望んではいませんでした。その代わり、できることは精一杯やろうと考えた私は、毎週末実家に帰ることにしました。金曜日の夜仕事が終わると即大分へ、土日は1週間分の食事を作って冷凍、月曜日の朝イチの電車に乗るとギリギリ始業に間に合いました。そんな生活を続けていると、親戚は誰も何も言わなくなり、それどころか今度は「できた娘だ」と言い出したのです。その時、人は案外いい加減なものだと思い知りました。人の言うことに流されず、自分の意志で自分の生き方を選び取ること、これもいい経験となりました。
 もうひとつ、不妊治療も大きな選択がありました。自分がまさかという深い絶望の中、3年ほど治療をしましたが途中で止める決断をしたのです。30歳で結婚した私は、母親の生きた証のために何が何でも自分が遺伝子を残さねば、という考えにとりつかれていました。皮肉なことに、そう真剣に考えれば考えるほど、妊娠は遠ざかっていくようでした。仕事をしながらの治療のストレスは大きく、次のステップへ進むかどうかという時、私は立ち止まってしまいました。本当にそこまでする必要があるのか?いったい子どものいない人生は不幸なのだろうか?子どもがいれば幸せなのか?深く考え夫とも話し合った結果、私たちは子どものいない人生を選びました。そこからは、子どものいる人を羨ましがるのではなく、子どもがいないからこその人生を楽しもうと決めたのです。

好奇心、持続性、柔軟性、楽観性、冒険性で人生謳歌!

 この「自分で決める」ということを常に意識し出してから、自分が楽に生き易くなったと感じています。しかも、大きな決断の時だけでなく日々の生活の中でも意識しています。「なんで私ばかり!」と腹を立てながら家事をすることをやめ、やりたくない時はやらないことにしました。そしていざやる時は「誰かのためではなく自分がやると決めた」と常に自分を真ん中に考えます。自分の人生の主役は自分。いつでも自分で選び取るクセをつけると、誰のせいにすることもなく楽に生きられる気がします。
 そして「行き当たりバッチリ」な計画的偶発を手に入れるために、以下の要素を常に意識するようにしています。それは、好奇心、持続性、柔軟性、楽観性、冒険性の5つです。キャリアの8割は予期せぬ偶然の出来事によってできているそうですから、計画的でない自分を責めるのをやめて、これからも積極的に偶然を創り出し、人生を謳歌したいと思っています。

 



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