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100名山 兵頭朋子 (No.45、掲載年月日:2017年7月14日)

プロフィール:兵頭朋子(ひょうどうともこ)

愛媛県松山市在住。
T’s Labo 株式会社(経営のサポート業)代表。
いっせいグループ(松山で飲食業を展開中)のCFO(財務担当役員)。
ハラノすぽーつだんすカンパニーにて社交ダンスの教師を務める。
50代を目前にして独身。海外旅行を趣味として、上記三足の草鞋で仕事に邁進。人に恵まれ、チャンスに恵まれありがたい人生と考えている

「女性として生き抜く事」を誇り、貫き通している人生

兵頭 朋子

「家庭」へのあこがれから一転、ジェンダーに目覚め「人として」生きる、へ!

 幼少の頃は、家庭の事情で施設や親戚の家をたらい回しになっていた時代もありました。当時の体験はとても冷たく辛いものでした。また、家庭は温かいものではなく、小学生の頃からは自宅から逃げるように友人の大家族の一家団欒に加わっていました。このご家族とは半世紀近くのご縁が今も尚続いております。こういった環境の中で「家庭」というものに憧れを持っていましたので、地元の大学に入学した時には、「卒業式には婚約指輪をする!」と決めていました。ところが、大学1回生の時に失恋をし、1冊の本に出会い、人生を大きく変える事となります。「セックス神話解体新書」という女性学の小倉千加子先生の書籍です。
 「ジェンダーは文化的なものである」という概念は当時の私にとっては目から鱗でしたし、男性と交際する中で歪んでいっていた「女性はこうあるべき」という固定概念の違和感から解放され、「人」として生きる事に目覚めました。そうして、女性学を専攻しました。男性を敵視するかのような文献たちにも触れましたが、そこには違和感しか感じませんでした。日々男性学生たちとも議論を交わしあっていました。男性性も女性性も一つの個性として尊重した上で平等で平和な世の中であってほしい、という考えが大学生活の中で確立されていきました。

卒業後、天職との出会い、そして社交ダンスとの出会い、さらに起業へ

 卒業する頃には当然、「卒業式には婚約指輪をする!」という考えはなく、バブル全盛期だったこともあって、一部上場会社へ就職し、大阪で勤務しました。ソフトウェア開発のSEの仕事だったので、男女の差を感じた事は全くありませんでした。どんどん激務を任せていただいて、入社2年目にして残業代を入れて一ヶ月の給料が手取りで40万円を超える事が続きました。毎日仕事で午前様でした。そんな中、父が他界し実家に戻る必要があったため、会社を辞め松山に戻りました。当時交際をしていた関西の方と結婚を前提にしておりましたので、実家の整理ができれば関西に戻るつもりでした。そんな松山滞在中、税理士をしている叔父から、「アルバイトでいいので手伝ってほしい」と言われ、税理士事務所の事務のアルバイトを経験しました。それは、天職との出会いでした。日々の経営活動の中で動くお金の動きを整理し、表現し、経営の指南とする大切な資料を作成する。それは、カオスだったものをまとめあげ一つの結果にまで結びつけるとても遣り甲斐があり責任の重たい仕事。のめりこみました。全く知らない簿記を高校生に混じって学びました。交際相手とは自然消滅していました。20代は仕事と専門学校との往復となりました。
 30代になって、お付き合いで足を運んだ社交ダンスのパーティーでゲストのプロの方々の踊りに感激して習い始めた社交ダンス。先生にお引き立てをいただいて、習い始めて2年後にはプロとして競技会のフロアにたっていました。社交ダンスは二人で踊ります。一緒に踊る相手がいるから踊れる、という気持ちを大切にしていますので、男性は女性をとても大切な存在としてエスコートしてくださいます。社交ダンスのプロになったので、税理士事務所の勤務との両立は責任を果たせないと思い税理士事務所は退職をいたしました。
 退職しても担当していた企業様方から事務の委託をしてくれないかと声がかかり、そのニーズに応じて私にできる事をさせていただいていたら、「経営を財務の側面からサポートをするCFOの外注」というT’s Labo.㈱の事業が誕生しました。「コンサルタント」という立場とは全く異なる立ち位置で仕事をさせていただいています。私は女性が支える事が当たり前という環境で育ったので、そういった資質を持っています。その資質を存分に生かしてあくまで「サポート」という立場を貫いています。サポートさせていただきながらクライアント様のご成長のおかげで日々学びと新たな経験に溢れています。クライアント様の中で早くに急成長をしていった、いっせいグループの財務担当役員に就任させていただいたのもこの時期です。30代はこうして財務系の仕事、社交ダンスの仕事、どちらも学びと成長をいただける環境に恵まれ日々を懸命に駆け抜けている間に過ぎていきました。

「女性」であることゆえの躓き・・・壊れる経験

 そうして40代。私は、仕事で初めて、いえ、女性学を学んで以降初めて、女性であることを呪い苦しむ事象に遭いました。リーマンショックの影響は地方の中小企業をも蝕みました。苦しい時代でした。当時仕事で係っていた利害関係者と嫌なのに断れない女性ならではの事象に巻き込まれました。その事象から半年をかけて私は「壊れて」(当時の知人たちの言葉)いきました。
 ある日突然車の中で過呼吸になって動けなくなりました。涙が溢れ嗚咽を止める事ができなかった事だけを覚えています。当時の事はあまり思い出せません。お医者様からは「PTSD」だと診断されました。私は文字通り動けなくなりました。「顔がおかしかった」(当時の知人たちの言葉)そうで・・・身体のどこも弛緩したような感覚でした。そうして夜になると「死にたい」と叫ぶ毎日。私は一人身です。当時のお医者様の言葉「死なないように死ぬ気で耐えなさい」を支えに死なない事に懸命でした。そんな日々が1年以上続きます。

救ってくれたのは、周りの人々、社交ダンス

 当時のクライアント様方、事象を知らない方々がほとんどですが、どこか様子のおかしい私を、何も言わずに仕事をさせてくださいました。常駐の仕事ではない事が幸いしていました。事情を知ったCFOをさせていただいている会社の社長は「あなたはなくてはならない人。家で仕事したのでいいから。最低限の仕事だけしてくれたらいいから。」と言っていただきました。当時、最低限の仕事をしている数時間だけは生きている心地がしていました。
 それ以外の時間の私を救ってくれて、お医者様や認知療法を受けていたカウンセラーの方も驚く回復をみせていったのは社交ダンスのおかげでした。夜、社交ダンスのお教室の営業が終わって私がお教室に顔をだせていないと、オーナー先生とスタッフの方が家に来てくれて私を連れ出してくれました。ご飯を食べさせてくれて、泣いている私の手をとって踊ってくれました。一人でうずくまっていて嫌だと癇癪をおこしたように泣いている私の手をとって踊らせてくれるのです。美しい曲で踊っていると涙がとまり、心の中が美しいもので満たされていくのです。そんな事を1年以上、一人で暮らしている私を家族以上に支えてくれた社交ダンスとお教室。私の命を繋いでくれた社交ダンス。
 だから私は社交ダンスでどなたかが生きる希望を失くしていても一緒に踊ってあげたい。そうして生きる事って悪くないと思ってもらいたい。一人じゃない、一緒に踊ってくれる人がいると思ってもらいたい。そんな活動をしたいと思うようになりました。「死にたい」という感情から解放され、突発的なフラッシュバックによる発作以外は動けるようになった頃より、私を飛躍させてくださる師となる方々とどんどん出会っていくようになりました。師と仰ぐ方々との活動を通じて、温かくも厳しいご助言をいただきながら活動していく中でいつしか発作が起こることもなくなっていました。

支え合う社会の大切さ

 こういった経験を通じて、私は「支えあう社会」を強く意識するようになりました。経営サポート業、社交ダンス業、共に「支えあう」事がとても大切な仕事です。日々、降り注いでくる様々な経営事象、社交ダンスのレッスン、練習を通じて「真に支えあう事」を考えています。寄りかかりあっていては踊れません。一人一人がきちんとまず立ってからでないときちんとした踊りにはならないのです。一人一人がきちんと立ってそれぞれの役割を行っていると、一人では踊れないスピードが生み出され、一人では不可能なポーズが出来、素晴らしい一体感を生み出します。経営も同じだと思っています。人のせいにしている間は何も生まれません。自分をどう変化させていくかに集中したら結果は出ます。お若い社員さんたちには、在り方をまずお話する事から始めます。経営者の方で経営が上手くいかないのを「社員のせい」と言ったクライアント様にはとても厳しく言葉をぶつけた事もあります。
 また、女性性を否定したくなるような事象に遭った自身を立て直すために、私自身を肯定する必要があったため、女性である事を肯定する作業をしていきました。幸い、社交ダンスでは、どうしたらより女性らしく見えるかというのはとても大切な女性ダンサーの役割なので、女性である自身を肯定していく環境には恵まれていました。そうして得た女性性の肯定を、「会社」という場でも浸透させましょうと、クライアント様共々男女ともに個の活動や働き方を大切にした制度を生み出してきています。もっと働きたいという社員の方のニーズには労働基準法の壁でお応えできていませんが・・・。

世界中を旅して気づいた私のこれからの人生の課題

 ラオスの田舎町ルアンパバーンに滞在した時に、川下りのボートでご一緒して、「Hello」と声を掛け合ったことがきっかけで意気投合をした女性がいました。とても狭い町なので、夜、ご飯を食べるために歩いていると彼女に遭遇するのです。「あら、また会ったわね。」とそのままワインバーに入り、ワイン片手に何時間もディスカッションを滞在日の間ずっとしていました。彼女はスイスの方で、砂漠に生きる女性たちの虐待をなくすための活動をしていました。親日家でもある彼女からたくさんのヒントをいただきました。「日本の女性は砂漠の女性よりは自由だけれど、精神的にはとても砂漠の女性に近く縛られていて個性のない人が多いように思う。」母なる河メコン河を眺めながらワイン片手に聞いた衝撃的な言葉。私が漠然と思っていたことを見事に表現していた言葉でした。彼女とのお別れの時にいただいた言葉をずっと覚えています。「あなたのように自由で個性的で独立している女性が日本にも増えますように」。
 ヨルダンに行きました。男友達と同行です。効率的に国内中を周るためにヨルダン人のガイドと車をチャーターしました。ヨルダン人のガイドの男性が言いました。「君たちの国は一夫一婦制だろ?一人としか結婚できないなんて意味がわかんねえな。」文化が違えば是が非になる事を実感しました。
 ビジネスの師匠ご夫妻とラオスへ行きました。10歳にも満たない子が平日にボートの勧誘にきました。ビジネスの師匠は本気で子供と交渉していました。交渉の末、ちょっと師匠が譲ったような気がしました。「この子は大したもんだ。いいビジネスをする。なんで学校にいかないんだ。こういう素質も仕事へのやる気もある子が学べない環境なんだな・・・まだまだ・・・。いや~でも大したもんだ。」とつぶやいていました。
 クロアチアのドブロブニクに行きました。タクシーの運転手さんは当時70歳以上の方がとても多かったので聞いてみました。「ついこの前まで戦争してたんだよ。なのに今はこうやって観光客がやってくる。観光に来てくれることが平和の象徴だと感謝してる。それで、観光に携わる仕事をしてるんだ。」
 シリアに行きました。勿論、今の状況になる前です。パルミラ遺跡にも行きました。現地で調達した車とシリア人ガイド。一人旅でした。交渉して前金だと言われたときには疑いました。疑う私を見て「アッラーに誓う」と彼はいいました。結局、ルートに入っていない所に寄ってくれたり、現地の人が大好きなアイスクリームをご馳走してくれたりしました。平和なダマスカスは金曜日、街が一望できるカシオン山に家族で上ってピクニックをしている家族連れがたくさんいました。今は、そのような平和は失われています。心が痛いです。でも、それが現実です。
 生かされている大切な日々だと思っています。私には何の才能もありません。ただ、自身の経験した事を糧に、生きる喜びを感じてもらえる瞬間を、笑顔あふれる瞬間を生み出したいと思って進んでいます。
 愛と平和を切に祈っております。

 最期に、本稿執筆にあたりまして、私の自由な活動を認めて応援し支えてくださる皆様、こういった機会を与えてくださったJKSK様へ、感謝の気持を伝えさせていただきたいと思います。
 幾度も訪れる人生における大波を潜り抜ける時に、長年に渡って多大なるお力、ご助言を与えて支えてくださってきた方々、特に長年に渡って、私がどのような状態であっても支えてくださった寛大な方々のおかげで今、こういった機会に自身の事をさらけ出し、お伝えすることに躊躇しない私がいます。いただいた愛情のおかげで強く生きる事ができる事、恵みに感謝をしております。

 



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