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100名山 矢動丸 純子(No.48 掲載年月日:2017年10月19日)

プロフィール
矢動丸 純子(やどうまる じゅんこ)

山口県防府市生まれ。幼少期を山口、福岡、佐賀県で過ごす。
東京でイベント企画会社勤務・フリーのコピーライター等を経験した後、 現代アート団体の運営、美術展の企画運営業務に携わる。
その後NYへ移住。現地のコンテンポラリーアート団体にてマネジメントや資金調達を学び、 展覧会活動を行いながら、不動産会社で営業/投資コンサルタントとしてのキャリアを積む。

人生は選択、自分へのベストを自分で選ぶ

矢動丸 純子

私は現在、フリーランスとして、故郷・福岡県筑後地区を中心とした観光マネジメントや街づくり、 そして中小企業の事業計画などに携わっています。
「絶対ここには戻らない」と18歳で家を出て、 東京、ニューヨークと移り住んだ私が九州の小さな町へ戻り、仕事を始めました。

幼少の頃から

 「純子ちゃんはお勉強ができるから、大きくなったら国立大学に入って、学校の先生になるのがいいね」「純子ちゃんは一人娘だから、お婿さんもらわないとね」
 幼い頃から、周りの人が私の未来を勝手に話して決めていっているのを、とても不思議に聞いていました。
なぜ、誰も私の意見を聞いてくれないのだろう?私は他にやりたいことあるのに。
私の育った九州の小さな田舎町ではそれはごく自然な事で、40歳近い両親の元に産まれた一人っ子の私は、周りの皆がずーっと親元にいるものだと決めていました。親類達も、ほとんど近くの役所や工場勤めで、遠くても隣県内に住んでいるような環境です。でも私は、小さな頃から「ここを出たい。絶対東京に行きたい。」と、心の中で夢見ていました。

高校時代に出会ったフェミニズム

 高校に入学した時、中学時代に出来なかった吹奏楽部への参加を希望していましたが、私が入学した高校に吹奏楽部はありませんでした。
残念に思っていた矢先、直ぐ後ろの席の女子が中学時代に吹奏楽部でホルンを吹いていたと知り、 彼女と同じ中学校から来た吹奏楽仲間と共に「ブラスバンド同好会を結成しよう!」と意気投合しました。
しかし、前途は多難でした。35年前の田舎の高校。新入生のしかも女子が何か始めたと、学年主任教師からは悪い事でもしようとしているかのように呼び出され、 他の先生方からも真面目に取り合ってもらえず、誰も会の顧問になってくれない。活動に使う部屋一つ見つけられませんでした。

 泣いて悔しがる私を見る度に母は、町で役員をしている叔父に頼もうか?と言ってくれました。 私はずっと断っていましたが、ついに手がなくなり、母を通じで叔父に頼み、叔父が校長と話をして、同好会は発足しました。 自分の力では何も出来なくて、悔しくて悔しくて仕方がありませんでした。最終的に会の顧問になったのは、私たちを散々に言っていた学年主任教師でした。
楽器を集め、近くにある陸上自衛隊に指導を依頼し、会員募集をし、着々と準備を進めました。しかし、会の代表は上級生のしかも男子でなくては、とのお達し。吹奏楽の経験のある上級生の男子の元に出向き、頭を下げて会の代表をお願いしました。

 自分達で行動したのにも関わらず、女子だというだけで相手にしてもらえなかったと感じた私は、 その後の高校生活や将来に向けて大きな疑問を持つようになりました。
これからの生き方に不安を感じる中で、私の話を受け止めて指導してくれたのが国語の先生。
自ら小説を書き、仲間と同人誌を発行する先生が教えてくれた平塚らいてう、青鞜、近代から現代に向けての女性達の活動。
私は男性の先生からフェミニズムを教えて頂きました。

 右のものを左にも動かさず、「お茶」といえばどこからかお茶が飛んで来るかのように振る舞う父、フルタイムで働きながら家事も育児も全部一人でやり続けていた母。
口答えをすると殴られる、九州の片田舎では当たり前の男尊女卑の家庭の中で、「何で女性は男性に意見を言っちゃいけないんだろう?」「何で周りの人が私の人生を決めようとするんだろう?」と感じていた私は、これだ!とばかりにフェミニズムを学んで行きました。
上野千鶴子さんを始めフェミニスト達の発する論議は、10代の私が感じていたモヤモヤを見事に明文化し、胸をかき立てるような力がありました。
私は自然と、自分が「フェミニスト」である事を自覚しました。

私たちが作ったブラスバンド同好会は正式に吹奏楽部となり、35年以上経った今も続いています。
全国大会に出場した事もあります。でも、15歳の一年生女子生徒たちが泣きながら最初の一歩を築いたことなど、誰も知らないでしょう。

社会人として打ち当たった壁

 時代はバブルの終盤期の20数年前。東京のある大企業の子会社、いわゆる「業界」と呼ばれる世界の片隅で、企業イベントの企画やプロモーションに携わっていた私は、大きな壁に打ち当たっていました。
九州の短大卒で何のコネもなく、やっと大企業の子会社に入った私は、毎日朝から夜中まで忙しく働きながらも、いつまでもアシスタント止まり。
大卒の男性の後輩にどんどん追い越されていくのが悔しくて、直属の上司にアシスタント以上の仕事をやらせて欲しいと訴えました。
また、子どもが欲しいと思っていた私は、育児休暇等の取得の状況も併せて聞いてみました。
施行後数年経っていたものの、親会社を含め同じ部署内で育児休暇を取得した人は誰もいないので分からない、との回答。
そして数日後、別の上司に呼ばれました。「女はいろいろ言いながらも、結婚して子どもが出来ればすぐ辞めてしまう。今みたいには働けないだろう。女は要らない」。
私の思いも夢も崩れ去りました。求められていない場所にいても仕方がない。ここにいても自分には未来がない、という事がはっきりとわかったのです。
私は会社を辞めて独立する決心をしました。

新たな分野への挑戦

 独立したと言えば聞こえはいいですが、実際はいつも綱渡り状態。
お付き合いのあった制作会社等を頼りに、イベント企画や運営だけでなく、広告の下請け、コピーライター、お声がかかる仕事は出来る限り受けていました。
某大手出版社が出す雑誌の広告ライターとして、忙しいながらも安定した仕事が2年以上続いていましたが、FAX一枚で次号での休刊が決定。
収入の半分をその雑誌に頼っていた私は、さて困った、と新たに仕事を探し始めていました。
そんな中、友人を通じて紹介されたのがある彫刻家。彼は現代美術の作家で、アーティスト団体を結成し、国際展やアートイベント、レジデンシャルプログラム(作家を一定期間滞在させて作品を制作してもらう)などを企画・運営していました。
しかしアーティストや有志だけでは仕事が回らず、誰か専任で運営出来る人を探していたのです。
初対面から意気投合し、仕事にとても興味を感じた私は、そのままその団体の事務局長に就任する事となりました。
私の費用は、寄付金と、駅や公園、公共建築物などに設置されるパブリックアートとして作品を販売する事で捻出しました。
日本、韓国、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカと展覧会を開催し、日本に海外のアーティストを呼ぶ。世界中に知り合いが出来る、胸がワクワクするような経験を重ねていきました。
しかしながら時代はバブルが弾け、暗黒の20年へと突き進んでいった頃。次第に資金不足に陥り、事務所家賃も私の人件費も立ち行かなくなった為、一旦事務所を閉鎖し、私は理事という肩書きで、「ボランティア」として協力する立場へと体制を変えざるを得ませんでした。

その後私は、各国のアーティストから聞いていた「世界のアートの現場」を見たい、と海外への移住を検討し始めました。
知り合いを頼って、ボストンで英語の勉強をしながらヨーロッパやアフリカを訪れました。
最初は、歴史と文化にあふれるパリやイタリア、イギリスなどを考えていましたが、ニューヨークに遊びに行って気づいたのがそのダイナミックさ。
何より世界中の一流のものが、お金が集まっている場所だと感じ、まさにここが世界の中心地、今の私に必要なのはこの街だと、ニューヨークへの移住を決めました。
現地のコンテンポラリーアート団体でのインターンシップが1年間決まり、主に組織運営、ファンドレイジング、マネジメントを学びました。
その間に本当の仕事を探そうと、求人を出しているありとあらゆるアート関係の職場に履歴書を送りました。その数は200枚は下らないと思います。しかし、いくつ面接に呼ばれても、どうやっても、何ヶ月経っても仕事が決まらない。
このままでは仕事が決まらず、日本に帰るか不法滞在するしかなくなってしまう。切羽詰まった私は自問しました。
私は何を一番したいのか?何をすべきなのか?答えは「ニューヨークに滞在する」こと。

それならば方向転換、とその後はアートにはこだわらず、日本人を探している、日本と取引のある企業、日系企業の求人にも応募しました。
結果、日系3世の人が経営する現地の不動産会社への就職が決まりました。
最初の面接時は「不動産業務なんて自分に出来るだろうか」と心配でしたが、2回目の面接時にお会いした直属の上司となる副社長が「あなた位の年齢の方がいいんですよ。マンハッタンの不動産は億単位を扱います。人生経験もあって信頼出来そうな人が、お客様も安心できます」と言いました。
35歳過ぎたら女に仕事がないのが常識、の国から来た私は驚きました。同じ日本人でも、国が変わればこうも変わるのかと。
その会社への就職を決めた後、経済と不動産の勉強をし、資格を取り、マンハッタンでの投資物件をメインで扱う不動産営業を始めました。

日本へ戻る決意

 ニューヨークでの約9年間の生活は、辛い苦しい出来事も沢山あったものの、充実し、自由にのびのびと生きて、とても有意義でした。
そんな私に帰国を決めさせたのは父。81歳の誕生日に電話をした私に言った言葉「お前はいつ戻って来るんだ。寂しいじゃないか」。
いつもは電話をしてもほとんど話しをせず、直ぐ母に代わる父が放った言葉は、胸に突き刺さりました。それからは、しばらく悩みました。
今日本に帰ったらグリーンカード(永住権)は取れない、日本に戻っても40代の自分にどんな仕事が出来るのか?でもこのままでは親の死に目にも会えないかもしれない。
一人っ子の私が親の葬儀も出せなかったらどうする?悶々とした中で、再度自問。私が一番したいことは何か?どうしたらこの不安が解消できるか?答えが出ないまま一時帰国した3月、地元、筑後川の川岸に咲きほこる菜の花畑を見た時、心が決まりました。
日本に戻ろう、と。決意はしたものの、仕事や住む場所の当てがあるわけでもなく、まぁ、ニューヨークでもサバイバル出来たし、いざとなったら何でもやれる、まず長年住んだ東京に居を構えようとアパートを探していた時、知り合いから米国在住の音楽家が東京の事務所で人を探しているとの話しを頂き、ご紹介を得て東京での職が決まりました。

約10年ぶりの東京は、あまり居心地が良くありませんでした。逆カルチャーショックもあったのでしょう。
東京に戻って数ヶ月後、あまりの人の多さ、街の大きさにうんざりしていた頃、東日本大震災に遭遇しました。

地震の直後から、半蔵門のオフィスでテレビから流れる関東や東北の画像を食い入るように見続けました。夜になっても電車が動かず3時間程歩いてマンションに戻り、電気が通っていた事にとても安心しました。
オール電化の私の部屋では、電気がなければお湯ひとつ沸かせなかったのです。何時間も連絡が取れなかった私とやっと繋がった母は、電話口で泣いていました。

多くの人がそうであったように、この地震は私の人生を変えるものでした。今の私には、家族と呼べるのは両親だけ。いざとなった時には、歩いていける距離でないと家族も助けられない。
近くに居なくては。「もうここには住みたくない」と出て行った九州に、四半世紀以上ぶりに戻る事を決めました。

地元へのUターン

学生時代を過ごしたとはいえ、あまりの時の流れに、知り合いもほとんどいない福岡市。JKSK理事長の木全さんから紹介された阿部博美さん、そしてニューヨークのジャーナリストの友人に紹介された西日本新聞の方々をきっかけに、少しずつ友人の輪が広がりました。
福岡で仕事を探し、フルタイムで働きながら、夜や週末は、勉強会や交流会に参加し、知識と人脈を培いました。

そして昨年、地元戻り、私は再度独立しました。筑後地区は一級河川「筑後川」と耳納連山に囲まれた、自然と文化にあふれる地域で、久留米絣を始め、大川家具、八女和紙など、素晴らしい伝統工芸品が数多く生産されています。
この土地の魅力を多くの方に伝え、遊びに来て頂き、ここの産業を途絶えさせないようにしたいと思っています。今やライフワークとなった女性エンパワーメントと東日本大震災福島復興支援のイベントや執筆、講演活動も続けて行っています。

そして、18歳で実家を離れて以来、30年以上ぶりに両親と同居を始めました。始める迄は不安がいっぱいでしたが、一緒に住んでからは想像以上に快適な毎日です。
私が大人になったと同時に、両親も齢を取りました。お互い“何だ?” と思う事や、いろんな行き違いがありますが、上手にかわし合って生活しています。まず何より、体力や記憶が衰えた二人に、毎日目が届いて安心しています。

これまでの人生、半年後に何か起こっているかまったく想像も出来なかった事が何度もあり、半年前には考えてもみなかった決断を下した事も何度もあります。
でもそのひとつひとつが、その都度その都度自分が何をしたいか、自分に何が必要かを考えて下した決断。私は、人生は選択だと思っています。何もかもは出来ないし、決断する事で切り捨てなければいけないこともある。
でもその場その場で、自分へのベストを考えて、自分で選ぶ。これからも、自分の心や判断信じ、自分の人生の為に選んでいきたいと思っています。

 



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