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100名山 上田 眞理(No.49 掲載年月日:2017年10月19日)

プロフィール
上田 眞理(うえだまり)

東京生まれ
慶應義塾大学文学部仏文科卒業。ルーバン大学(ベルギー)大学院留学
駐日ベルギー国大使館勤務 (対ベルギー投資促進部門)
ペトロフィナ(ベルギーの石油会社)駐日代表
ガーディアン社(米国板ガラスメーカー)商業用ガラスの営業統括。 ほか主に外資系の企業で勤務。
現在、財団法人世界こども財団理事、(株)イースクエア監査役、NPO法人JKSK理事

偶然の出会いは必然の出会い

上田 眞理

1986年に施行された男女雇用機会均等法の遥か以前に大学を卒業。女子大生、特に文科系四年制大学の卒業生にはほとんど就職口は無い時代でした。
卒業後しばらく経ってから、縁あって始めた仕事でした。
その後も、さまざまな人のご縁に導かれて、今日まで40年以上、ほぼ途切れることなく社会と繋がり、いろいろな分野で仕事をしてきました。

大学卒後の初仕事はショウビジネス

 初めての仕事は、大学時代の恩師からの紹介でした。ジェネラル・アーツという、劇団四季の創設者である浅利慶太氏が運営していた会社でした。
当時、この会社はロイヤル・シェークスピア劇団を招聘したり、越路吹雪ロング・リサイタルなどをプロデュースしていました。
華やかな演劇やショウビジネスの世界の裏側は大学を卒業したばかりの私には、なかなか刺激に満ちた華やかな世界でした。

 その後、ベルギー人の友人から誘われてベルギー大使館で働くことになりました。ベルギーはヨーロッパの小国ですが、首都のブリュッセルにはEC(当時)やNATOの本部がある国際都市でした。公用語がフランス語、オランダ語、ドイツ語という多言語国家です。
1970年代、ベルギービール、ベルギーファッションなどは日本のバイヤーからは見向きもされない時代でした。
現在は、ベルギービールの専門店が東京にも複数あり、ベルギービールの愛好家もかなり増えているようです。ファッションの世界でもドリス・バン・ノッテン、マルセル・マルジェラなど多数のベルギー人デザイナーが活躍して、日本にもショップをもつようになりました。
時代はおおきく変わりましたね。

ベルギーの大学院へ留学

 1980年代の半ば、大使館での仕事に行き詰まりを感じ、大学院への進学を考えるようになりました。当初は日本の大学に行くことを考えていたのですが、結局縁のあるベルギーの大学に留学することになりました。
私がルーバン大学の大学院で学んだのは、ECの政治、経済、法律に関するヨーロッパ・スタディという講座でした。当時のブリュッセルはEC本部の所在地として、加盟12か国の間で欧州単一市場の議論が活発に行われていました。
講師陣には現職のECの局長、ベルギー政府の閣僚などが多数参加し、EC本部で開催される様々な委員会を傍聴することができ、ECの最新の動きに直に接することができたのは素晴らしい体験でした。
あの当時、加盟国28か国、共通通貨ユーロなどの今日のEUの姿を想像できた人はほとんどいなかったと思います。

 大学で一番苦労したのは、ラテン語です。ベルギー人の学生は高校時代にラテン語を履修しているようで、講義に頻繁に出てくるラテン語も問題なく理解しているようでした。
また、試験はほぼすべて口頭試問で行われました。日本の大学ではほとんど行われていないので、これにも慣れるまでかなりの緊張を強いられました。

 1980年代後半、日本に対する欧米の関心は非常に高く、Japan as No. 1と言われた時代です。ヨーロッパでは、様々な分野で日本とのかかわりを持ちたいという雰囲気が溢れていました。
ベルギーに進出する日本企業も飛躍的に増加し、大使館で日本企業のベルギーへの投資促進を仕事にしていた時代には考えられなかった現象でした。

帰国後ベルギー・米国の企業で働く

 帰国後、1年前に日本に駐在員事務所を開設したベルギーの石油会社ペトロフィナで仕事を始めました。バブル景気の真っ只中です。事務所には日本の銀行、証券会社が引きも切らずやって来て、東京証券取引所への上場を勧誘されました。
当時はかなりの数の外国企業が相次いで東証に上場していました。本社から社長、役員が来日し、大掛かりな会社説明会を開催したこともありました。今振り返ってみると、異様な熱気に包まれた時代でした。

 1989年、昭和から平成に年号が改まった年は半分近くを病院で過ごす結果となりました。
2か月の間に3度の手術という厳しい状況がありましたが、退院して1か月ほどしてリハビリを兼ねて、ベルギー人の知人が日本代表をしていたイギリスのコンサルティング企業や友人の会社などで少しずつ仕事を再開しました。

 数年後、友人の依頼でガーディアン社という板ガラス製造メーカーの日本支社で営業を担当することになりました。初めてのアメリカ企業での仕事。
建設業という非常に閉鎖的な男社会での営業は、設計事務所、ゼネコン、施主、ガラス工事店などに日参する毎日でした。全くの素人が日本を代表する設計事務所、ゼネコンを営業して歩くというのは、なかなか骨の折れることでした。
ゼネコンでのミーティングでは、「なんでここに女がいるんだ」というあからさまな態度を取られることもしばしばでした。さらに、外資系の会社なので業界の暗黙の了解とか、談合などについてアメリカ人は全く無知でしたので、某ゼネコンから出入り禁止になったりしたこともありました。

 日本のガラスメーカーには当時女性の営業担当はいなかったようです。外資系のガラスメーカーが東京国際フォーラム、NTT新宿本社ビル、堂島アバンザ(大阪)、ナディアパーク(名古屋)などの大型物件を獲得できたのは本当に幸運でした。
以後、日本のメーカーも女性営業職をおくようになったと聞いています。風穴が一つ開きました。

欧米企業と日本企業の違いに気づく

 ガーディアン社で仕事をする中で、日本企業との著しい差を感じたのは、ホワイトカラーの数が少ないということです。
特に役員は極端に少なく10人に満たない数でした。デトロイト近郊の丘陵地帯にある本社には100人弱の人しか働いていません。
勿論、板ガラスを製造している工場では24時間休みなしにガラスが製造ラインから流れ出してきます。北米、ヨーロッパ、中東、アジアに製造拠点を持つグローバル企業としての社員総数は当時5万人を超えていたと思います。
ただ、各工場は独立採算制を取っていて、製品の発注、価格、納期などは工場の担当者と直接やり取りをするので、本社は一切かかわってきません。

 日本の同業企業のホワイトカラーの人数、本社組織の規模に比べると雲泥の差です。この違いはどこから来るのでしょうか。外国企業の参入を阻むさまざまな商習慣についても驚きの連続でした。
建設省(当時)からは、JISに適合しているという認証がない建築資材は公共工事で使用できないと言われ、JIS適合の認証を取るために官房営繕の指導を仰ぎながら、時間をかけて認証を取得しました。
その後で判明したことですが、日本メーカーも特にJIS認証など取得しておらず、後日認証を受けたという事実です。このことも、外国企業の参入を阻む口実としてJISが使われていた例です。
談合などの弊害も相変わらず続いているようです。利権体質は簡単には変わらないのです。

医療分野・教育分野にかかわり、社会課題に取り組む

 21世紀に入って、ある大蔵官僚との出会いから、医療分野のNPO法人の設立をお手伝いすることになりました。そこで日本の医療現場の抱える問題の大きさ、根深さに始めて気が付きました。
10年間の活動を経て、状況も少しは改善されてきた部分もありますが、全般的には相変わらず不透明な縦割り行政の中で非効率な研究体制が継続しているようです。
研究体制の縦割り体質の弊害などは、日本の基礎研究の分野のみならず、行政も含めたすべての分野に共通する課題だと思います。

 最後に、教育界でとてもユニークな存在である星槎グループの宮澤保夫会長との出会いにも触れておきたいと思います。
宮澤会長は40年以上前、まだ発達障害という言葉もない時代に、コミュニケーションに問題がある子供達の存在に気づき、彼らの居場所を作ることを目的に学校を作りました。
現在では日本全国に保育園、幼稚園、中学・高校、大学、大学院など学生数2万人を超える学校グループとなりました。
10年ほど前に宮澤会長にお会いする機会があり、会長のお仕事を少しお手伝いすることになりました。
その後、宮澤会長が個人で続けてこられた発展途上国でのさまざまな支援事業を継続させるため2010年に公益財団法人世界こども財団が設立され、その理事をお引き受けいたしました。
ブータン、バングラデシュ、ミャンマー、カンボジアなどでの活動に加えて、2011年に発生した東日本大震災では福島に発達障害の子供たちの支援をするために拠点を設け、現在でも活動を続けています。
最近は2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、発展途上国のアスリートのオリンピック・パラリンピックへの参加の支援、エリトリア、ブータン、ミャンマーなどでの青少年のスポーツ環境整備の支援などにも取り組んでいます。

 大学を卒業してからほぼ50年。様々な方々のご縁に導かれて多様な分野で仕事をしてきました。専門を持たずに、その時その時に与えられた分野で勉強し、数々の仕事を楽しんできました。
一つの専門を極めることも大切ですが、世の中は多様性に満ちています。自分には向かないと思っていることも、実際に始めてみると興味が湧いてくることも多々あります。
あまり早くから自分の活動分野を限定して狭めることなく広い世界に目を向けながら、楽しい仕事人生を送ることも、また一つの生き方かなと思っています。この50年の間にご縁をいただいた様々の出会い、偶然に思えるものもすべては必然ではなかったかと、今では思っています。

多様な組織での仕事経験から得たもの

 概ね外国の政府機関、外資系企業での仕事がメインであったこともあり、日本の女性が職場で感じる男女格差、差別などは幸運にも全く経験して来ませんでした。
女性であっても、考えていることを主張することが当たり前の職場環境であり、自分の意見をはっきり言わないことは、何も考えていないと見なされるのが普通でした。
相変わらず多くの日本企業では女性を補助的な仕事のみに起用するということが未だに続いているのは残念なことです。これからの若い人たちには既成観念に囚われずに、自由に意見を述べ、男性と対等な立場で仕事ができるようになることを願っています。

 古希を目の前にして、今振り返ってみると、それなりに充実した楽しい仕事人生であったと思い、ご縁をいただいた多くの方々に心から感謝しております。
「結果が最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして、最後に意味をもつのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である」 星野道夫「ワスレナグサ」(旅をする木)

 



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