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100名山 上山 良子(No.51 掲載年月日:2017年10月19日)

プロフィール:上山 良子(うえやま りょうこ)
ランドスケープ・アーキテクト/長岡造形大学名誉教授・前学長
東京生まれ。’62上智大学英語学科卒。’78カリフォルニア大学大学院環境デザイン学部ランドスケープアーキテクチャー学科修了(MLA)。CHNMB(旧ローレンス・ハルプリン事務所)にてデザイナーとして経験を積み帰国。’82 上山良子ランドスケープデザイン事務所設立。
’96「長岡平和の森公園」AACA賞(日本建築美術工芸協会賞)
’02「芝さつまの道」グッドデザイン賞
’04 「長崎水辺の森公園」グッドデザイン金賞(環長崎港アーバンデザイン会議)
’06「きたまちしましま公園」グッドデザイン賞,AACA賞入賞
’06「長崎水辺の森公園」土木学会デザイン賞優秀賞(環長崎港アーバンデザイン会議)他
著書:LANDSCAPE DESIGN;大地の声に耳を傾ける 美術出版社 ’07

いつでも Re-Born !
予期せぬ展開は人生の常(連載—9)

上山 良子

 これらの仕事をこなしながらの長岡造形大学で教鞭をとることは学生に直に最新の情報も伝えられ、臨場感のあるものでした。
学生には「歴史を勉強すること」と「旅をすること」を徹底しました。彼らはたくましく育っていったのです。10年間教え、退職した2005年。その後は天職に没頭していたある日、たまたま長岡造形大学に久し振りに寄った時、福田毅氏が急に「学長になれ!」と寝耳に水の話。
そういう役職が嫌いでず~と逃げてきた私に。福田氏はアートディレクターとしてカンヌの広告賞を受賞したようなグローバルな活躍の教授。ディレクターのあの強さと改革を望む若い人たちの説得により、考えられない方向へと話は進んでいったのでした。
それでも本人は半信半疑でしたが・・・

 数カ月後、決定との通知。退職から3年経っていました。人生とは本当に何が起こるかわかりません。この時、事務所はすでに縮小していたので、何とか出来ると思ったものの、母をどうするかが問題でした。すでに96歳を過ぎていた母を施設に預ける決意をしたのです。
母のために日本に帰国し、十分に親孝行はしたかなとも思っていましたが、毎日朝から夜まで事務所に通っていた我々姉妹、母は寂しい思いもしていたかもしれません。しかし、心配は自己中心的な強い意志の人が集団生活に溶け込めるかは未知数でした。
もともとアーティストの才のある彼女の強靭さは驚くべきものでした。明治の最後に生まれた母は関東大震災も東京大震災をもくぐり抜けてきています。最初に書きました大火を潜って一緒に逃げた時は妹がお腹にいたのでした。
しかもそれまでの考えられない程の優雅な生活が全く無となってしまった中を生き抜いてきた人です。しかし、それまでやってきていた、染め物も、革の工芸も、書道も全てを過去のものとして終えていたこともありました。
二世帯住宅で一緒に住んでいる妹に頼んで長岡へ発つことも出来なかったので、苦渋の決断でした。

 前年までは全国で女性の学長は2人だけだったそうです。地方の大学での女性でランドスケープ・アーキテクトの学長就任は想定外のことだったようです。
しかし、大学の改革が可能と思って嬉々として臨んだ学長という立場はなかなか難しいものでした。建学の理念にもとづき、新たな「越後ヴィジョン」をかかげ、地域の持つ豊かな資源を力としてここから世界に向けて発信していけると確信したのでした。
伸びしろの大きな若い学生たちは徹底したデザイン教育の成果を着々と示してくれていた建学から15年目でしたが、入試志願者は建学以降、ず~と降下し続けていたという状況の中での就任でした。
しかも、2008年はリーマン・ショックの起こった年。地方の私立大学は厳しい状況ながら、特徴あるこの大学、しかも教授陣は一流の実践家の大学が入学志望者の数字が上がらないのはどうしたか。実は理由は明快でした。
開学時点から少子化時代に入っていたのですから。大学経営という今までとは全く違う立場での苦労が始まりました。

 ジャズ・フェスティバルを大学でしようという市民とのコラボの企画を立てた時のこと、豊口理事長が反対されるのです。市民の有志の方々の熱意は反対の声を消し、それは就任早々の7月のある日に市民と大学とを結ぶ機会として、実施し、大いに盛り上がりました。
が、あとで呼ばれて一人説教されていたのです。三歩下がって師の影を踏まず。

 良かったことの一つは入学したばかりの学生に学長が講義する伝統でした。最初に無垢な学生にデザインとは何か?生きるとはどういうことか?を概論で考え方を教えることができる事は重要でした。
学長が直に社会へ巣立つ前の4年生に夫々の専門の先生と共に、「応援歌」の授業を出来たことも意味あることでした。デザインの分野ってこんなに広いのかということを知って、社会へと巣立っていかせることが出来たのです。

 人事関係の改革はカタチとなったこともあり、実力主義というレッテルもはられ、アメリカ的と批判されたこともありました。朝は8時から夜7時ぐらいまで、殆ど毎日大学へつめていました。
事務所は止めるようにと理事長のお達しでした。4年間はあっという間に過ぎて行きました。今考えると学生との接点があったことが、素晴らしいことだったと思います。あとは本当に何が出来たのかとマネージメントの持つ虚しさを感じますが、改革も少しは出来たと思います。
誠心誠意、出来ることはとことんしたつもりです。今年から長岡造形大学は市立大学に移行しました。大学存続にとって良いことです。

 忙しい間を縫って、もともと基本設計までまとめてあった、長崎の松が枝国際埠頭ターミナルが実現出来て、アドバイザーとしてではあってもかなり現場をコントロールできたことは幸いでした。
「場を創る」ことは結果が明快です。2011年にはこれもグッドデザイン賞、2013年には土木学会優秀賞と続き、今までのプロジェクトに追従してくれたことはこんな素晴らしい仕事を捨ててマネージメントの世界へ足を踏み入れたことはもったいなかったという気がしているのが本心です。

 長岡での10年の教職生活と4年の学長生活は思い出深いものになり、何処が第二の故郷かと問われれば迷わず長岡と答えます。
NIDとその周囲のランドスケープを満喫できる、隣接するアパートを2ユニット借り、南面に広く開いた窓からは常に遠方の山々が見渡せ、前景のキャンパスのランドスケープされた青々とした芝生は学生たちの癒しの場でした。
ベランダに南の日差しを遮断するために植えたゴーヤのみどりを丸く切り取ったカタチに育て、風景だけは楽しめるしつらえとしたことで、学生から童話の世界?と声援が時々送られてくるような近さ。長岡の熱い日差しでたわわに実ったゴーヤの大きかったこと。

 学生達はよく集まってパーティをしました。妹は東京から応援にきてくれ、料理は殆ど彼女におまかせ。大学に隣接した便利さが故に我が家は思い出の場所ともなっていたようでした。
 学生とのオープンな関係は多分にバークレーでの教授たちとの交流の伝統そのものでもありました。  (つづく)

いつでも Re-Born !
いつでも Re-Born !(連載―1)
デザイナーへの道(連載―2)
バークレーでの新たな挑戦(連載―3)
~ランドスケープ・アーキテクチャーに目覚めて(連載―4)
アメリカで働くvs日本での独立(連載―5)
コンペに賭ける!(連載―6)
ランドスケープの広い職域(連載―7)
「土地を穿つ」という大切な仕事(連載―8)
予期せぬ展開は人生の常(連載―9)

 



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