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100名山 堀 芳枝(掲載年月日:2018年3月12日)
プロフィール:
堀芳枝(ほりよしえ)
埼玉県生まれ
恵泉女学園大学 人間社会学部 准教授を経て
現在獨協大学 外国語学部 交流文化学科 教授 

専門は 国際関係論、東南アジア地域研究(フィリピン)

女性の自立、途上国の自立を考えてきた50年

堀 芳枝

幼少時代-多様な子どもたちとともに

 私はアメリカでキング牧師が凶弾に倒れ、日本では3億円強盗事件が世間をにぎわせた1968年4月に生まれ、埼玉県の関東平野の「田んぼ」に囲まれた家で、3世代同居と家の敷地に大学生の寮がある、にぎやかな環境で育った。当時の母親たちはみんな専業主婦、そして田舎だからこそ残っている、家父長制的な空気を感じていた。自由でありたい、そのために自立しなくちゃ、ということ無意識に考えていた(と思う)。当時は精神的にも経済的にも自立している女性のロールモデルが周りになかったので、 何の勉強がしたいとか、どういう職業に就きたいということは考えることができなかった。
 小・中学校は近くにある公立の学校で9年間ずっと80名で2クラスという、濃密な人間関係の中で過ごした。私の学年はみんな元気で、自己主張が強かっただけでなく、今でいう多動な子どもや生まれつき障がいのある子も一緒なので、いろんな事件が起き、 そのたびにみんなで話し合ったり、泣いたり騒いだりした。事件の背景には、子どもたちの言い分がそれぞれあって、それぞれの立場が尊重されないと、また同じ問題が起こる。実際には、その繰り返しで疲れることもあったが、良く言うと私たちは小さな「デモス」だった。勉強もできる子もできない子も、運動ができる子もできない子も、男子でも女子でもみんな平等、屁理屈でもなんでも言いたいことを堂々と言い合った。私も彼らにずいぶんと鍛えられたと思う。
 ところが、中学2年生になると、小さな「デモス」が崩壊して衆愚政治どころか校内暴力が始まった。
授業もまともにできない状態で、国際政治ならば無政府状態といったところだ。男子たちは荒れ狂い、暴走した。でも、彼らは小学校の時から一緒に遊んだ子たちだから、暴力は良くないが、 反抗する理由があることもわからなくはないので、突き放すこともできない。そして次第に、彼らを止めることができない先生や大人達に対して、私たちも不信感を募らせていった。また今日も荒れるのかな、と思うと学校に行きたくない日もたくさんあった。それでも、あの体験からもまた学ぶことはあった。
とはいえ、県立の女子高に進学し、ようやく静かな日々を取り戻した時、ほっとしたのも事実である。

大学時代―フィリピンと出会う

 大学への進路を考えた時、特にやりたいことはなかったが、家の敷地に近くの大学の寮があって、 毎日大学生が自由に楽しそうに暮らしていたのを目にして、自分も一人暮らしをしたいと思った。 また、親が英語の教師だったので、英語をやると言えば外に出してくれるのではないかと思い、英語ということにした。 そして、女性の自立を考えてくれそうな大学はどこだろうと思って探したら、女性の自立を掲げる津田梅子の大学があった。 でも、でも、私は英語よりも世界史や政治経済が好きだったので、国際関係学科に進むことにした。
 というわけで、大した志も持たずに大学に入ったので、それほど熱心に勉強するわけでもなく、ブラブラと独り暮らしをエンジョイした。しかし、そのうちに2つのことにハマることとなった。ひとつは、フィリピンである。 きっかけは、友人に誘われてなんとなく参加したフィリピンのワークキャンプであった。ミンダナオ島の田舎町に1か月、ホームスティをしながら、バスケットボールのコートを作るのだが、それがとても楽しかった。 フィリピンの人はいい人だ、とフィリピンが大好きになり、南北問題やフィリピンにとっての自立・発展とは何なのだろうか、という疑問がムクムクと入道雲のように立ち上がり、 帰国してからは、まじめに授業を受けるようになった。途上国の開発にかかわる職業につけるようになったらいいな、と漠然と考えたりもした。 当時の国際関係学科はアジア・アフリカ研究が強かったことも幸いであった。 大学3年生の時にフィリピン国立大学と留学協定を結ぶ(かも)という話を聞きつけ、フィリピンに長く滞在して、フィリピンについて学びたいと思い、手を挙げた。 フィリピンに行きたいという学生はそうはいなかったので、推薦をもらえて1年間留学することができた。 アジア中の留学生と交流できたり、タガログ語を学んだり、英語で政治学の授業を受けることができたのは大きな財産となった。
 もうひとつは「十大学合同セミナー」である。これはインカレの勉強会サークルで、週に2回、安全保障や環境、開発、移民、国際経済など様々な問題について勉強して議論するのだが、これが楽しかった。 自分よりもデキる連中、しかも自分とは異なる価値や意見を持った学生と議論するのが楽しくて、運営にも積極的にかかわった。 ここで得た友人たちとは今でも時々集まる。私の人生の宝物である。 また、このセミナーで、成蹊大学の宇野重昭先生からアジアの内発的発展論について教えていただき、フィリピンの内発的発展が私の研究テーマとなった。

大学院時代―指導教授との対話を通して学ぶ

 この2つの体験が、私の進路を決定づけ、いろいろとあったけれど、やっぱり大学院に進学することにした。私の研究テーマができそうな上智大学を希望した。 外部受験だったので、指導をお願いしたい先生に事前に会いに行った方がいいよ、と言われて、おそるおそるインドネシアの開発やODAについて本を執筆している村井吉敬先生に手紙を書いた。 返事がなかったので、2回書いた。連絡が取れたのは試験の2か月前、村井先生はちょうどサバティカルでインドネシアに滞在中だったのだ。 先生から「試験の面接の時には、ボクはいないけど、筆記試験に受かったら来ていいです」と言われ、教えていただいた開発経済論の本を必死で勉強して、試験にのぞんだ。 ところが、試験問題はEUが出た。問題を見た時にびっくりして、何とか書いたけれども、絶対に落ちると思った。 しかし、他の科目で救われたのか、なんとか合格することができた。首の皮一枚でつながるとはこういうことだと思った。
 村井先生は細かいことは指導してくださらなかったが、自由にやらせてくれた。それが私には合っていた。 村井先生と話すのが好きで、勉強に関係ないこともふくめて、たくさん話してもらった。 博士論文については、いろいろと悩んだが、フィリピンの農村で、農地を自分たちのものにするためにNGOの協力を受けながら、粘り強く官僚と交渉したり、地主と闘う人々の姿に心を打たれた。
フィリピンの貧困問題の根幹は、こうした大土地所有の問題があると考えて、地域研究者として、彼らのことを書こうと考えた。 フィリピンの農民の自立のための土地闘争を、内発的発展論とラディカルデモクラシーを組み合わせ、内発的な民主主義というテーマで書いた。 村井先生の下でなければ書けない論文だよ、と宇野先生に言われたことがあった。 この二人の恩師への感謝は尽きることがない。

恵泉女学園大学―フィールドスタディと出会う

 2001年に運よく、恵泉女学園大学に就職することができた。 恵泉はリベラルアーツで園芸、国際、キリスト教の3本柱に沿ったカリキュラムで、1年生は園芸必修で、 校舎の後ろにある有機農場を耕して野菜をつくるというのがとてもユニークだった。 個性的な先生たちが熱心に学生を指導していて、素晴らしい大学だと思った。 私は学生を海外に連れてゆくフィールドスタディをすぐに担当した。 ワークキャンプでアジアに目覚めた自分の体験を学生たちに追体験させるようで、フィールドスタディは自分の天職だと確信した。 フィリピンのゴミ山やスラム、フェアトレードをやっている農村やNGOなど、学生たちと歩いて回った。 タイの長期フィールドスタディも担当をまかされたが、こちらは同僚の押山正紀先生とすぐに意気投合して、 タイでも楽しく学生たちと歩き回った。フィールドスタディをやった16年間の経験もまた、私の宝物である。 長期フィールドスタディを終了した学生たちが、タイに戻ったり、大学院に進学したり、 NGOやJICAの青年海外協力隊で働いている姿を見ると、押山先生とフィールドスタディやってよかったと心から思う。
 恵泉に勤めてから妊娠・出産、育児休暇も半セメスター取らせていただいて、仕事と育児・家事(再生産労働)を体験した。恵泉は子どもを育てながら働いている女性教員がすでにたくさんいたので、何の不安もなく働くことができた。周囲も温かく見守ってくれていた。恵泉の職場環境には、今でもとても感謝している。育児の大変さというのは、仕事の大変さとちがって、自分の時間を自律的にやりくりできないことなのだと体験学習した。 それでも、学会の事務局長を2年間やりながら、授業と保育園の送り迎えに、子どもが3歳になってからは、フィリピンのフィールドスタディもやった。 育児には夫や母親、義母、保育園、ベビーシッターもファミリーサポートさんと、あらゆる人を巻き込んだ。 こどもはおかげさまで、いろんな人に囲まれて、いろいろな愛情や安心感を与えられて、元気な子どもである。
 一方で、私は仕事に関して、子どもを産んだからできない、と言い訳したり、そう思われるのが嫌だった。 育児を他の人にお願いしても、子どもより先に私が風邪をひいたり、ぎっくり腰になったりした。 これをよく頑張ったと評価する人もいるかもしれない。あるいは、それぐらいのことは当たり前、 女はみんなそれを乗り越えてきたんだから、という人生の先輩たちもいるかもしれない。 しかし私は、もし日本社会が、女性が子どもを産んで仕事に復帰して、 小学校にあがるくらいまでは、母親(父親)が育児のために休むことは当然のこと、 という社会であれば(子どもの成長とともに仕事量は増やせるのだから)、私のように思いながら仕事をしなくても良かったのではないかと思う。 恵まれた職場であるにもかかわらず、こう思うのだから、ましてや他の職場では・・・と思わずにはいられない。 次の世代には、私のような思いをしながら子育てや仕事をさせたくない。 男性も女性も「希望すれば」家庭や子どもを持ち、それができるような社会の規範や職場の制度を変えてゆくべきだと思う。

人生の後半戦―先達の知の継承を・・・ 

 40歳になって残りの人生を後悔しないために、資本論とジェンダーを勉強したいと思った。東大名誉教授の伊藤誠先生の資本論の研究会にださせていただき、お茶の水女子大学の足立眞理子先生にも出会うことができた。フィリピンの村で気づかなかった女性―農地を取るために奮闘していた主婦、 家族のために輸出加工区の工場で働いた娘、台湾やシンガポールに出稼ぎに行った娘―について グローバル経済との関係で分析することが次の目標となった。これから10年以内にアジア経済の再編成とそこに組み込まれる女性の労働について、1冊本を上梓することが私の研究目標である。
 そして、2017年からは、これもご縁があって獨協大学の外国語学部の交流文化学科で働かせていただくことになった。どんなご縁なのかと自分でも考えてみたが、 私は埼玉県出身だから、これまでの経験を埼玉県ほか北関東の学生さんに還元しなさい、ということなのかもしれない。 学生たちの出身校を聞くと、昔から知っている高校の子たちが多いのだ。
 こう書いてみると、これまで私の人生は自分の意志とか努力とかだけでなく、いろいろな人と出会い、 触発され、助けられ、時に「見えざる手」によって、あっち、こっちと神様に配置されているような気がする。 人には天命というものがあって、置かれたところで一生懸命やって、そこで自分の課題をやりきると、 次に動かされると考えるような年頃になった。 自立は孤立ではない。自分の境界線をしっかりもって、他者と交流したり助け合ったりしながら、自分の境界線を再確認したり、形を変えてゆくことだと思うようになった。
 おかげさまで、この年になってようやく精神的に、経済的に自立するという私のテーマは達成できたと思う。 これからは村井先生や宇野先生、その他いろいろと教え導いてくださった先達の知を継承してゆくことが、 私の仕事であると考え、研究と教育にもうひと山、とは言わず、ふた山くらいは越えていきたい。 その山の向こうには、またどんな世界が広がっているのだろうか。 私は今年でちょうど50歳。この原稿のおかげで自分の50年間を振り返ることができた。 ちょうどよいタイミングで、原稿のお声がけをくださった木全ミツさんに感謝申し上げたい。

 



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