認定NPO法人JKSK女性の活力を社会の活力に
  English Site  
 


100名山 長谷川 峰子(掲載年月日:2018年3月12日)
プロフィール:
長谷川 峰子(はせがわ みねこ)
東京大学経済学部卒業後、日本興業銀行調査部入行するも2年弱で結婚退職。
2女1男の子育てに専念。
40才にて外資系投資顧問会社のパートに再就職。 その後、アメリカ産リンゴのプロモーションの仕事を経て、翻訳会社にフルタイム就職。
50歳でインド関連のベンチャー企業に転職。
2004年のGlobal Summit of Womenという国際会議でインド人女性と運命的な出会いをし、 高級インドストールの直輸入販売を開始、表参道のストール専門店インドリームのオーナーとなる。 子供は3人とも結婚し、すでに孫7人に恵まれる。30代までは子育てに集中、40代で社会復帰、52歳で起業というのも人生100年時代の新しい生き方。

夢はかなう -インドリームに出会うまで-

長谷川 峰子

大学への道

<両親>
 私の父は戦後まもなく東京大学に入学しました。大変食糧事情が悪かった時代で、母は当時西片町に住んでいて、友人に頼まれて父の世話をしました。 2人は父が大学3年生の時に学生結婚をしました。卒業後、父の故郷の名古屋に戻りました。そして、東京大学が取り持つご縁で私は生まれました。

<中学時代>
 子供のころから親が特別に教育熱心だったわけではありませんでした。 ただ、母が中学に上がる時に自分がつまずいた経験から、近所の塾に入れてくれました。 私も中学に入り、勉強の仕方が変わって、戸惑っていたので、ちょうど良かったと思いました。 その塾の先生は、ただものではありませんでした。本当に幸運だったとしか言えません。 本来なら大学教授になっても良いような先生のユニークなスパルタ授業についていくことができたのは一部の生徒のみでしたが、私の学力はぐんぐん伸びました。

<高校時代>
 そして、めでたく愛知県立旭丘高校に進学しました。高校合格が決まった日、塾に報告に行きましたら、先生はおっしゃいました。 「高校に合格して喜んでいる場合ではない、これからが勉強の始まりだ!」私は本当に驚きました。 続けて先生は、チャート式の数学の参考書を下さり、「学校が始まるまでにこの数学の問題を100題解きなさい。」と。 私は高校入学の喜びもあり、素直に頑張り、高校の入学式までに数学の問題を100題解きました。 初めて、同じレベルの生徒が集まる学校ということでとても緊張していたので、最初の定期試験まで一生懸命勉強しました。 そして、定期試験の後の初めての個人面談で、私がトップクラスの成績だったと聞いて、母も私も驚きました。 旭丘高校からは当時毎年50人前後が東大に入学していたので、突然、東京大学というゴールが現れたのです。まだ女の子は女子大にという時代でしたが、結局、昭和46年4月に東京大学文科II類(経済学部)に入学しました。

就職、結婚、再就職

<就職>
 私は、東大に入ったものの、まだ職業意識は高くありませんでした。父も教養はアクセサリーの一つだと言っていました。 そのため、卒業後入行した日本興業銀行を2年弱で結婚退職してしまいました。今ではもったいないことをしたと後悔しています。 私の入った興銀は優秀な男性行員がたくさんいたため、女性の活躍の場は限られていました。 そういう意味では、就職活動をするとき、優秀な男性が行かない職場を選んだ方がよかったのかもしれません。
 その当時は、まだ総合職以前の時代で、銀行の部内ミーティングは女人禁制。大卒女子といえども参加できませんでした。女性行員は制服着用が義務付けられ、外出しても制服を着ているだけで男性より低くみられました。 外部の講演会に代理で出席した時には、制服を着用していたため、入場を門前払いされてしまいました。 また、当時の銀行では、女性の既婚者はごく少数、子供がいる人はほとんどいないという状況でしたので、私も将来を期待できず、あっさり結婚退職してしまいました。 難しい英語の専門職の入行試験を受けたにもかかわらず、33人の興銀同期の大卒女性は、3年後にはわずか3名になっていました。

<さつき会との出会い>
 専業主婦だったおかげで、3人の子供にも恵まれ、育児をゆったりとこなせました。しかし、インターネットもなかった時代、社会の進歩から完全に閉ざされた暮らしでしたし、友人たちは大活躍をしていたので、 もう一度社会に出たいという思いが募っていきました。 唯一の社会の窓として、東大の女子卒業生同窓会のさつき会のお手伝いをして、代表理事まで務めさせていただきました。 何とか社会の動きについて行けたのも、パワフルで親切なさつき会の先輩後輩のご指導のおかげです。

<再就職>
 さつき会のおかげで、あきらめていた再就職もできました。当時は35歳以上の女性の再就職は絶望的な状況でした。しかし、40歳の時、後輩から突然声がかかりました。外資系の金融機関の庶務の仕事でした。
米国式の最新のオフィスで、ボイスメールやテレビ会議などもすでに実用化されていて、目を見張りました。
ちょうどその頃、世間ではMACが導入され、パソコンの時代が始まりました。私もぎりぎりでIT革命の流れの中に身を投じることができました。

 最初の職場は、1年で終わり、次にアメリカ産リンゴのプロモーションの仕事につきました。そこでは英語とパソコンをオンザジョブでマスターしました。
そのおかげで、3年後には翻訳会社に転職できました。ちょうど末の男の子が中学に入学したので、フルタイムを選び、ようやく責任ある仕事に就くことができました。
官公庁の文書中心の翻訳会社で、経済白書の翻訳も手掛け、初めて大学での勉強が役に立ちました。翻訳会社には7年半勤め、翻訳のコーディネートや最終チェックの仕事をしました。

<仕事と家庭の両立>
 フルタイムになった時点で、家族も変わる必要がありました。
子供たちも家事を少しずつ分担してくれるようになりました。食事の最終仕上げや片付けの部分を子供たちがしてくれるようになり、それは子供たちにとっても、将来共働きをするときの練習になったようです。

 夫は、私の帰りが遅いのをとても嫌がり、私が帰るまで、子供たちにご飯を食べさせないようにして、無理矢理早く帰って来させました。その時は反発もしましたが、家族全員でいつもご飯を食べたのはかけがえのない幸せだったことに気付き、今では夫に感謝しています。また、私が働き始めたことで、子供べったりの生活から抜け出せ、思春期の子供たちと逆にうまく過ごせたように思います。大学受験も子供同士で助け合って知らないうちに乗り切ってくれました。

50歳を過ぎての転職、起業

<転職>
 普通なら翻訳会社で終わるはずだったのですが、突然転機が訪れました。
50歳を過ぎて、興銀時代の元上司が設立したベンチャー企業に誘われました。
ちょうど受動的な翻訳の仕事にも飽きてきたところだったので、思い切って転職しました。そこでは、インドと日本のビジネスの種を探していました。 そして、初めてインドに出張しました。翻訳会社では英語のチェックをしていただけで、生きた英語を使うことはありませんでした。
しかし、ベンチャーでは、必要に迫られて何とか英語が実務で使えるようになりました。初めて世界とつながる仕事につき、仕事の面白さと大変さを知りました。

<決死の海外出張>
 海外出張は、夫が壁になりました。しかし、その当時すでに子供は成人し、海外出張を阻む理由は見つかりませんでした。このタイミングで外に飛び出さない限り、二度と飛躍できないと思い、夫の反対を押し切り、海外出張を断行しました。
専業主婦時代にためこんでいたエネルギーが一気に爆発し、なんと初めてのインド出張の2週間後には、ロサンジェルスのセミナーに参加するために出かけました。英語力の不足から、セミナーの内容はあまり理解できませんでしたが、一緒にセミナーを受けた人達が素晴らしい方ばかりで、大いに触発されました。いきなり始めた海外出張のせいで、夫とは冷たい関係になっていましたが、もう私の勢いは止まりませんでした。その翌年の5月にソウルで開かれたグローバルサミットオヴウィメン(Global Summit of Women) という女性が千人近く集まる大きな国際会議にも参加しました。そして、そこでインド人女性、ファーラさんに出会ったのです。

<運命的な出会いから起業へ>
ベンチャーでは、インドビジネスの次なる候補として、ストールの販売を考えていましたが、生産者と直接つながることができず、半ばあきらめていました。 しかし、ファーラさんに出会って、いきなりすごいルートが出来ました。会議中、ファーラさんのブースを訪れる女性たちがストールの美しさに驚き、笑顔になるのを見て、私もストールの世界にすっかり魅了されてしまいました。実はその時、ファーラさんも日本人のパートナーを探していたそうで、私たちの出会いは運命的なものでした。お互いに家庭も大切にしていて、共通点も多く、あっという間に意気投合しました。 そして、周囲の人からは心配されましたが、すぐに一緒にビジネスを始める決意をしました。
 帰国後、早速起業の準備に入りました。
しかし、待てど暮らせどストールのサンプルが届きません。写真だけ届いたのですが、価格も素材も何もわかりません。 すでにショッピングモールと契約して、開店準備に入っていましたが、商品がなければどうしようもありません。結局インドに1人で行くことになりました。
 海外に1人で出かけるのは初めてでしたし、10数年前のインドは、まだ空港も未整備で、タクシーにも危なくて乗れない状況でした。 しかし、幸運なことに、その時、さつき会の先輩が駐在員の妻として、ニューデリーに滞在していました。 先輩は、空港の送り迎えから、市内の移動、さらにはストールの仕入れまですべて付き合ってくださり、心細かったインド出張は無事終わりました。 しかも、現地では、期待以上の素晴らしい商品が用意されており、とても良い価格で手に入れることができました。こうして何とか10月に開店することができました。 ファーラさんと出会ってわずか4か月後のことです。最初はベンチャー企業の一部門として開店したのですが、自分でサプライヤーを見つけてきたこともあり、独立を勧められました。目に見えない力で起業へのレールが引かれていたのです。
 会社名は、「私の夢とファーラさんの夢がかなった会社」という意味で、インドとドリームをつなげ、「インドリーム」としました。もちろん、「夢の中のように幸せ」というもう一つの意味もあります。

全ての人に支えられて

 インドリームを起業して10数年の月日が経ちました。インドリームはまだ一人前ではありませんが、何とかやってこられたのも、今まで知り合った皆様の応援のおかげです。この間に数千枚の美しいストールと素晴らしいお客様に出会いました。ファーラさんとの運命的な出会いの後、私たちはGSW(Global Summit of Women)に毎年参加しています。10か国以上を一緒に旅して、インドへも何回も行き、今では姉妹以上の関係になりました。私たちは生まれも育ちも性格も全く違いますが、とても相性が良く、もはや彼女なしの人生は考えられません。インドリームを一人前にし、社会に貢献できるようになることが私の目標です。

 ようやく最近では夫の理解も得られました。その間に子供たちは無事成長し、早々と結婚し、すでに孫が7人も生まれました。これも専業主婦時代があったからこそで、その時その時を一生懸命生きてきた証です。
人生はいろいろな選択肢が用意されていて、時には不本意なこともありますが、一生懸命生きていくことさえできれば、自然と結果は生まれてきます。
私の場合は、子育てと仕事を分離して楽しむことができました。一度にすべてをやろうとしなくても、健康と思いさえあれば夢はかなうものだと実感する毎日です。
人生100年時代の今、インドリームは私の楽しいライフワークです。

 



 
▲このページのトップへ 
2014-2015©JKSK All Rights Reserved.