玉岡 純(たまおか じゅん) 

株式会社Recage(リサージュ)代表取締役
お直し専門店 L’aiguille d’or(レギュイドール)オーナー兼デザイナー

(プロフィール) 
株式会社 資生堂にて6年半の勤務。資生堂退社後、独立。 
渋谷区神南にインポートセレクトショップ「PRAIMARY~プライマリー」OPEN 
取り扱いブランド(HERMES、PRADA、GUCCI、MIUMIU、CHANEL、他日本未入荷ブランド) 
株式会社アールイズムにてコスメショップ店舗プロデュース 
株式会社 エッセンシア(現在業務変更) 取締役。美容サプリメント販売、運営など行う。 
2009年、 E-remuer設立。内面の状態は外見の美しさにも影響してくるもの。外見と内面の両方のケアができたらという思いから、それぞれの個性を活かした持続可能な美・ファッションを提案するスペシャルサポートを開始。流行に流されることなく自分を一番美しく見せるコーディネートを提案する。長年のセレクトショップの経験を活かして、その方が自由に楽しくお洒落を楽しめるようにサポート&アドバイス、「おしゃれブランディング」を行う。 
2012年、 L’aiguille d’orをOPENし現在に至る。 


皆様、初めまして。 
この度お声掛けをいただきまして有難うございます。 

改めて自分自身の人生を振り返りその過程をお話する事となり様々なシーンを思い出し、さてどこからお話をさせていただこうかとなかなか纏められずにおりました。 

皆様の素敵な人生を拝見しては、私の人生が皆様のどんな風なお役に立てるものなのか? と 
緊張感が増してしまい 少々破天荒な私の人生で大丈夫なのか?などと思い出すと、わ~書けない! と思ったりして、しばらくぐるぐるとしていました。 
そんなこあとをしているうちにふと、あれ? 私はこんな事を、人生の間に幾度か経験してきているなと思いました。 
これは、結果もわからないし怖いけれど「こうなりたい!」という自分の理想に向かって、今できることから何とかやってみるというようなことです。 

始まりは高校生

私は東北の会津で生まれ育ちました。
父方の祖母と姉妹と一緒に父方に暮らしておりました。幼い時から美しいものが大好きで、特に装いへのこだわりが妙に強く、幼い時から色も柄も気にいらないものを身につけさせられることが非常に嫌でした。
こういう人ならばこういうものが似合う、こんなドレスや靴もよいとか想像しては、塗り絵のページに自分がデザインした洋服や靴を描いて付け足したりするような拘りの強い子供でした。とはいっても好き放題に選べるわけではないので、雑誌や映像などで好きな世界を見てはより一層憧れを強めていたように思います。心はそのような美しいものと向き合い関わるような人生を望んでおりました。
とはいえ東北の田舎で安定した職業といえば、公務員や教員になること。安心できる道を願う家族の思いとは異なり、自分はどこに向かっているのか? 既に進学コースにおり、担任の先生からも1㎜も疑われずに進学への道をひた走っていると思われていた矢先に私は勇気を出して父親にスタイリストになりたい! という爆弾発言をしました。 

驚かれるのも当然ですが、父には「そんな仕事で生活できるのはドラマの世界だけだ!」と一蹴されました。さらに、上京したいという希望も加わり、「どうやって、その仕事で生活していくつもりなのか。絶対にダメだ!」と強く反対されてしまったのです。祖母に相談してみたものの、何の根拠も計画もない私の話を応援してくれるはずもなく、「よく考えなさい」と諭されるだけでした。結果的に、誰からも賛同を得られない状態になってしまったのです。 

それでも、このまま諦めて、全く望んでいない道を進むのは本当に良いのか? と自問してみました。答えは「絶対に嫌だ」というものでした。では、どうすればその道を実現できるんだろう? 
当時は、今のようにGoogle検索が当たり前で、スマートフォンを誰もが持ち歩いている時代ではありませんでした。PCも使わず仕事をしている人も多かったように思います。そんな中で、私は数か月間、冷静に考えました。 
すぐにファッション業界で働くのは難しいかもしれない。それでも、まずは上京したい。そして、将来につながる会社や仕事に就き、独立を目指したい! と思いました。となると、誰もが知るような会社に入社し、家族に納得してもらうしかないと思ったのです。 
ちょうどその頃、叔母が資生堂に勤めており、毎月、古くなった『花椿』という雑誌を譲ってくれていました。その中のファッションページ(「ファッション通信」)などの記事をよく見ていました。 

資生堂へ入社 

あるとき、『花椿』を眺めていると、本社の住所が記載されているのに気づきました。そこで「東京の資生堂に入るのはどうだろう?」と思いついたのです。今思えば大胆すぎる行動ですが、当時の私には他に選択肢がなく、思いつきの不思議な行動でもありました。それでも、「これしかない!」と強く思ったのです。誰もが納得してくれる会社に行かなければ、私の上京計画は頓挫してしまう。「ダメ元でやってみよう。それでダメなら、それが上京するなということかもしれない」と決意しました。怒られるかもしれないけれど、行動しないわけにはいかない――そう思い立ち、当時の資生堂社長(故・福原義春氏)宛に手紙を書いたのでした。 

田舎の学生が書いた手紙を読んでもらえるのかどうか、そんなことはわかりません。それでも、その時の私にはそれしか手段がなかったのです。手紙には、「人が好きで、色が好きで、女性をきれいにしたい」という自分の想いと、「自分を成長させるために歴史ある会社で学びたい」という気持ちを書いたように思います。すべての内容は忘れてしまいましたが、何度も書き直しながら数枚の手紙を書きました。 

数週間が過ぎても何の反応もなく、「やっぱり無謀なことをしてしまった」と反省する日々を過ごしていました。 
それからさらに4週間ほど経ったある夕方、実家の電話が鳴りました。祖母が受話器を取り、「資生堂の本社から電話だよ。純さんを出してほしいって言ってるよ」と言いました。その瞬間、急に現実的なことを考えました。 
学校にも家族にも誰にも言わずに行動していたため、「このことが学校に知られたら怒られるかもしれない」と怖くなり、電話に出るのをやめようかとも思いました。しかし、相手の方はすべてを察してくれていて、次のような内容を伝えてくれました。 
「明日、資生堂から学校に説明をしに行きます。その場であなたが面接を受けること、ついでに数名の募集も行うことが決まっています。だから何も心配しなくて大丈夫です」 
これまで資生堂の募集はあったものの、東京支社からの採用はなかったため、学校側も喜んで受け入れてくれました。結果的にお咎めもなく、私は無事に面接試験を受け、資生堂への入社が決定したのです。 
私が離れてしまうこともあり、なかなか納得してくれない父とは3か月位話し合いました。 
祖母の「この子の人生だから、好きなことを思う存分やらせてあげなさい」とのことばで、父もとうとう納得します。とにかく、まずは未来の扉を開くことができたのです。 

上京してからの2年ほどは、私は「花椿寮」という寮で生活をしました。この寮生活のおかげで、家族も安心できる新しいスタートができました。 
あれほど「家を出て暮らしたい!」と思っていた私でしたが、最近、その当時に祖母にあてた手紙が見つかりました。そこには、上京したての頃の私の気持ちが綴られていました。 
ホームシック気味になっていること、研修で疲れていること、寮のメンバーがどんな人たちで、どんな間取りの部屋で生活しているのか――そして、こんなことをしているよ、おばあちゃんのごはんが食べたい、とも書いてありました。 

当時の手紙

このような経緯で入社した会社だったこともあり、私は資生堂に対してずっと感謝の気持ちを持ち続けていました。そして、国内トップメーカーであることにも誇りを感じながら、仕事に励むことができました。内心では「5年で辞めて独立したい!」という思いも抱いていましたが、計画通りにはいかず、結果的に6年半ほど勤務しました。その間、私は多くのことを学びました。 
特に、人とのコミュニケーションの仕方や立ち居振る舞い、接客というサービス業の基礎をしっかりと身につけることができました。また、店舗プロデュースや美しさを作る基礎から応用、さらにはトータルバランスを整える技術、そしてお客様一人ひとりに合わせた提案方法なども、資生堂での経験を通じて磨くことができました。 
これらのスキルは、資生堂での積み重ねがあったからこそ培われたものだと思います。今でも資生堂に対して愛社精神に似た思いを持っており、その経験が私の人生において洗練された部分を形成していると感じています。 

いざ独立!

当時、周囲には起業している女性などほとんどいませんでした。そのため、会社を退社する際、「独立したい」という理由を上司に伝えても、学生時代に父からの反応と似た言葉が返ってきました。 
「起業ってどんなことかわかっているのか?」 
「毎月きちんと給料がもらえるわけじゃないんだから、無謀な考えはやめなさい」 
上司は毎週のように心配して声をかけてくれました。その姿を見るたびに、自分の決断に自信が持てなくなる瞬間もありましたが、それでも私は一人で考え続ける必要がありました。 
「怖くないのか?」と聞かれれば、怖くないはずがありません。今度は、自分が全くやったことのないことに挑戦しようとしているのですから、怖すぎる位の気持ちもありました。しかし、そちら側に立ったらすべてをあきらめてしまいそうでした。 
当時、コツコツと貯めていた資金は十分とは言えませんでしたが、それでも「自分の店を作ってみたい」「ファッションの仕事がしたい」という強い思いがありました。その頃の私にとっての見本は、背伸びをして通っていたヨーロッパのセレクトショップを営む10歳年上の女性オーナーでした。 
その方は、自分が学びたいと思通っていたセレクトショップのオーナーであり、イタリアに買い付けに行くときに「一緒に来る?」と声をかけてくれました。その誘いに応じてついて行ったのが、23歳の頃だったと思います。 

初めてのイタリアにて

イメージを持ちながらも、実際に自分のお店を作れたのはその3~4年後だったと思います。私の起業のスタートは、ブランドのセレクトショップの立ち上げでした。主にハイブランドのバッグを扱いながら、洋服や小物も少し取り入れたセレクトショップでした。 
しかし、当初は日本の業者さんから仕入れるしかなく、自分のセンスに合わない商品ばかりが……。イタリアやフランスに買い付けに行きたい気持ちはあったものの、経費がかさむ上、扱う商品が高価なものばかりだったため、女性一人では危険だと感じました。そのため、現地コーディネーターを含むほぼ男性のチームを組み、2か月に1度の頻度で本国への買い付けを行うスタイルにしました。 

独立後の買い付けにて

この当時はまだ直営店が少なく、日本に未上陸のブランドが数多く存在していました。デパートのバイヤーさんが選ぶ商品だけではなく、現地のショップを実際に回り、イタリア人やフランス人の着こなしを見て、話を聞くことで多くの気づきを得ることができました。ポイントだけにこだわらずトータルバランスを意識すること、TPOに合わせた装い、そして程よく力の抜けた洗練された着こなしなどヒントになることが沢山ありました。現地に行くたびに、目に飛び込んでくる発見があり、大人の女性が素敵に着こなす雰囲気や、こなれ感。日本で雑誌で見るものとは全く違う、はっとさせられるような瞬間も数え切れずありました。 
当時は、これらの経験が後に自分の仕事に繋がるとは全く思っていませんでした。しかし、この経験が、今の私の基盤を作ったことは間違いありません。 (後編へ続く) 

当時のブランド雑誌に掲載されたお店の記事。
現在とは価格が異なる。