永田 潤子(ながた じゅんこ)

大阪市立大学大学院都市経営研究科教授

永田 潤子
  • 大阪市立大学大学院都市経営研究科教授
  • 高校卒業後、海上保安大学校に初のただ一人の女子学生として入学・卒業。
  • 26歳で巡視艇船長、その後も幹部職員としてのキャリアを積みつつ、大学院進学を契機に教育研究の道へ。
  • 専門は公共経営・ソーシャルマーケティングであり、暮らし目線での社会変革プロジェクトを企業等と実践中。また、リーダーシップや女性の活躍、企業の働き方改革に向け個人と組織の本領発揮をテーマとした講演・研修依頼も多数。
  • 近著は「女子の働き方」(2017年文響社) http://junko-nagata.com/

1.父の勧めで海上保安大学校を受験

高校3年の春、「来春から海上保安大学校が女性に門戸を開放する」という新聞記事を父が見つけたことから、私の仕事のキャリアはスタートしました。
父は「お前受けてみないか」と私に薦めます。
海上保安大学校?今でこそ「海猿」という漫画や映画がヒットし、海上保安庁は認知度のあるお役所になりましたが、その当時は私自身も全く知らず、その幹部職員を養成する大学校は更にイメージできませんでした。
「そんな訳の分からない大学には行かない」と即答で断ったものの、海が大好きな父は、その後も熱心に受験を促します。その様子を見かねた母親の「親孝行だと思って、受験するだけでもしてくれない。」との一言で、結局、受験することにしました。
進学する気など全くなく受験科目も私の専攻とは違っていたので、「受けて落ちれば父も納得するだろう」と思ったのです。 ところが、予想に反して1次の筆記試験に合格。発表を見に行った父は、「合格者名簿には、ひでみさんもまさみさんもいた。女性はお前1人ではない」と言います。
1次試験合格し、ほかにも女子の合格者がいると知ったことで、これまで考えたことのなかった海上保安大学校へ進学という選択肢が目の前に来た感じがしました。海上保安庁や海上保安大学校のこと、その後の仕事のこともまったく想像もできないけれど、「人生1度しかないんだったら、海上保安大学校に行くのは面白そう」という思いがふつふつと湧いてきました。日を追うごとに、「海上保安大学校へ進学したい」という思いが強くなり、2次試験の体力検査と面接に向け、体力づくりをしている自分がいました。

2.初のただ一人の女子学生として入学

ところが、2次試験の受験直後に1次試験の女性合格者は私一人だけだったという事実を知りました。 驚きはしましたが、その頃には入学したいという気持ちがありましたから、最終の合格発表を経て、「初のただ一人の女子学生」として海上保安大学校に入学しました。 「もし、一次試験での女性の合格者が私一人だということを、事前に知ったとしたら、2次試験を受験しただろうか?」…今でも考えることがあります。受験したかもしれないし、しなかったかもしれない、その答えは分かりません。ただ、知らないから飛び込めた、そして人生で行くべき時、行くべき道は偶然に見える出来事やタイミングで開かれるものかもしれない、と感じています。
さて、海上保安庁は海上における人命や財産の保護、法令の遵守、秩序の維持を任務とする国土交通省の外局です。海難事故等の救助はもちろん、船舶の航行安全、領海の警備など、海に関わる全般業務を担当します。 この幹部職員を養成するのが海上保安大学校(広島県呉市)であり、本科4年間、専攻科半年の教育課程です。巡視船に乗船するので海技免状の取得が前提にあるため、船舶関係の科目、また、海上保安官は司法警察職員なので法律関係の科目も多く、憲法、刑法、刑事訴訟法、民法、国際法等幅広く学びます。 更には、訓練科目としてカッター、柔剣道や逮捕術、遠泳訓練や武器関係の科目に加え、体を作るためにもクラブ活動は必修です。 朝6時半の起床から夜10時半の就寝まで、みっちり鍛えられ、おまけに土・祝前日以外は外泊禁止の全寮制での教育課程です。寮生活では人間関係、上級生になればリーダーシップ涵養(かんよう)など、 とにかくハードな大学生活です。
加えて、なにしろ初めての女子学生ですから、「私がうまくいかないと、“女子は駄目だな”って思われてしまう、後に続く後輩のためにも頑張らなければならない。」と、自分自身で勝手にプレッシャーを感じていました。必要以上に肩に力が入り、自分を鼓舞する思いが強く、 それが適度に抜けて自然に過ごせるようになったのは、3年生に進学した頃だったと思います。
また、頑張っても男性と女性では体力や筋力が違います。張り合ってもしょうがない部分があるわけですから、男性に負けまいとしゃかりきに努力するよりも、むしろ「男性と女性に違いがあるのは当然だから、自分のポジションをどう作るのかを考えれば良い」ということも、時間を重ねる中で徐々に分かってきました。 男性は男性で、「オトコだから」という縛りの中で、きつい思いをしているわけです。女性と男性の違い、自分はどうあるべきかを常に考える大学生活を過ごし、23歳で現場に赴任しました。

3.巡視艇の船長への打診

最初の赴任地は、ヘリコプター搭載型大型巡視船「うらが」(横浜)でした。 大型巡視船ですから担任海域も広い上に、業務も海難救助、領海警備、環境保全という多岐に渡っていました。 とにかくやる気だけを軸に若手士官として勉強しながら、また、周りに育ててもらいながら1年半ほど務めた後、霞が関にあるヘッドオフィス(本庁)へ異動、陸上勤務になりました。 本庁では政策立案や予算編成など行政官としての経験を積んでいましたが、ある日、人事課長に呼ばれ、「次の4月から巡視船の船長をやってもらおうと思っているが、どうか」との打診がありました。
異動を本人に打診することなど通常はありえません。しかし、女性が乗船するとなると、居室やトイレ等の船の改造工事が必要になります。それなりの予算がかかりますから、事前に本人の意向を確認するという、異例の打診になったわけです。 予想外の話に、私はその場で返事ができませんでした。その夜、自分の気持ちを整理するために、仲の良かった同期生に電話をし、「迷っているの。船長をやってみたい気もするけれど、女性船長誕生の話題作りが目的なら嫌なんだよね。」と相談しました 。彼は「そういうことに関係なく、お前はやりたいのか、やりたくないのか、どっちなんだ。」と訊ねてきます。確かに迷いも不安もある、しかし巡視艇船長というポジションへの挑戦、なんだかワクワクする。 自分の答えは「やりたい」でした。そこで次の日に「喜んでやらせていただきます」と、お返事をしました。26歳で女性初、最年少での巡視船船長の誕生となりました。

4.男性部下ばかりの船長として

船長を務めた巡視艇「まつなみ」は乗組員定員10名の小型巡視船で、東京湾を日帰りもしくは1泊2日でパトロールします。東京湾は非常に船舶の往来が激しいので航行安全の啓発や取締まりが中心でしたが、 フェリーからの飛び込みの救助や法令違反を検挙する警備案件もありました。
私以外は全員男性、私より若い乗組員は2人だけで、あとはみな年上でした。それでも、船長は船長です。経験豊かな部下に囲まれながら、毎日決断し、船を運営していくことが求められます。やってみたいという思いから船長になりましたが、経験が少なく解らない部分、出来ていない部分があることが自分でも分かります。朝起きると、船に行きたくない自分がいます。一日が終わると、無事に仕事が終わったことに、ほっとする、最初の半年はそんな毎日でした。自分に十分な経験がないことを言い訳にしたくはないけれど事実なので、「みなさんよりも経験が少ないのは事実です。私の判断がおかしいと思ったことは、何でも言ってください」と乗組員に伝えていました。
また、仕事以外では船長ではないのですから、船を離れた飲み会等では、乗組員の皆さんの方が人生の先輩という見方、接し方をしました。 乗組員は、気を使って「船長」として扱ってくれましたが、私自身は船長であることを脇に置くように心がけました。
年上の男性部下に対してリーダーとしてどうふるまうべきか、とても悩みました。
そんな私に、幹部の大先輩が「船長というのは、水戸黄門の役をやるようなもの。船長と言っても、あなたが偉いわけでもすごいわけでもない。 水戸黄門が、“助さん格さん、懲らしめてやりなさい”って言わないとドラマにならないのと同じ」というアドバイスをくれました。 その言葉に、部下が年上だろうがベテランだろうが役割として割り切ってやることが大事であり、 躊躇しない、遠慮しない、自分を信じその瞬間に腹をくくるしかないな、と思いました。しかし、気持ちの整理がついても、水戸黄門のように上手くできるわけではありません。悩んだり頭をぶつけたり、試行錯誤しながら前に進みました。
多分、誰でも仕事をする上で逃げてはならない瞬間はあるわけで、その回数が「経験」になるのだと感じます。経験豊かな人は腹をくくった数も多いので、自己信頼も厚い。 自分に何ができて、何ができないかを解かっている。だから謙虚でいられのかもしれない、と思います。
また、常に自分を客観視することを、心がけるようにしました。例えば、「こんなこと言ったら、部下からどう思われるだろう」と思っている自分の気持ちを客観視し、その気持ちと行動にどう折り合いをつけるかを考える、 そんな繰り返しの中で、自分なりのリーダー論を体得していったような気がします。

5.母校で後輩の育成へ

「まつなみ」船長を3年間務めた後は、人事院の研修制度を利用して大学院の修士課程を受験、埼玉大学大学院政策科学研究科(現:政策大学院大学)に進学しました。
海上保安大学校に入学した時から「まつなみ」船長まで、とにかく全力で走り抜けてきたような日々でしたので、一旦、外の世界から自分や海上保安庁を見る時間を作りたいと思ったのです。政策分析のコースを選択し、行政学、政治学、経済学、意思決定など幅広く学びました。一般の大学の雰囲気や学生生活も、初めてであり新鮮でした。
大学院に進んだことがきっかけで、しばらくして母校である海上保安大学校で教育職に就くという道が、新たに提示されました。 母校での教育に興味はありましたが、大学校に戻るということは、その後は現場から離れるキャリアを意味します。 どちらが良いのだろうかと迷いました。
私自身は船に弱いので、より自分を活かせるのは陸でのキャリアの方かもしれないなと考えました。
加えて当時、後輩の女子保安官から、「周りの男性から、“女性は早く結婚し、仕事を辞めて家庭に入る方が幸せだよ”と言われるのですが、そうなのでしょうか」という相談の電話が、ちょくちょくありました。 そんなことで、若い子たちが悩むのは勿体ないと思う気持ちも強くありましたので、 母校に戻って講義に加え、女子学生の身近な疑問や不安に応えてあげることが大事だと思ったのです。 更に、仮にこのまま現場でのキャリアを積む道を選び、私が組織の上までいったとしても、その後に女性保安官が続かない状況は悲しい。 初の女子学生だった私だからできること、自分を活かすという意味からも母校で教鞭を取る道を選びました。

6.海上保安庁の枠を飛び出して

海上保安大学校では女子学生の育成にも注力しながら、専門分野である公共政策の面白さと奥深さを追求し始めました。 最初は、海上保安庁でのより良い政策やマネジメントの研究がテーマでしたが、いつしか自分の関心ごとや範囲が海上保安庁から外へと拡がっていき、「より良い社会を作るにはどうしたらいいか、何が必要か」を考えるようになっていきました。
大阪市立大学大学院創造都市研究科(現在は都市経営研究科)が創設されるにあたり、公共政策の専門家として声をかけてもらったのは、そんな時でした。海上保安大学校での仕事も私しか出来ない仕事、しかし、大阪市大の方がより社会に近いことができるのではないかと思い、海上保安庁を辞め大阪市大に移りました。 海上保安大学校を去る時に、尊敬している先輩の先生に「海上保安庁は君が泳ぐには狭すぎたんだね」と言ってもらえ、その言葉は今でも励みになっています。
現在は、人の意識や行動を変える「行動公共政策」、個人を活かす「組織・マネジメント」を研究しています。
社会を変えるには行政や政治も大事ですが、私達一人一人の行動も重要です。
例えば、「お買い物革命プロジェクト」という、日々の買い物を通じて環境問題を解決するという国の研究プロジェクトの代表をやりました。野菜の買い物を例にすると、ハウス栽培(加温・加冷)されていない野菜を買うことが、環境負荷の少ない買い物です。 しかし、「冬のトマトはやめましょう。なぜなら地球環境に良くないからです」という情報表示はスーパーではできませんし、また、買う側も楽しくない。でも、冬が旬のおいしいダイコンのレシピがあって、ダイコンの効能などが書かれてあったら、 「今日はトマトではなくダイコン買ってみようかしら」となるかもしれません。そんな実証実験を、 名古屋市内の流通業者や消費者たちと一緒に行いながら、人が行動変容を起こすコミュニケーションや情報表示や仕掛けの研究を、企業と共に実施しました。
パイオニアとして歩んできた時間があるからか、何かを変えることも好きだし、別な環境に自分を置くことも、あまり苦痛に感じません 新しいものに触れることは楽しいことでもあります。自分の見方や考え方の枠を広げるには、知識に触れ、経験を積みながら選択肢を増やしていくことが必要です。 その楽しさやこれまで得た知識や経験を周囲に伝えていくことを、そして最近は、女性たちの力をより社会に使うために、自分の出来ることは何かを考えています。