本田 美紀(ほんだ みき)

松山市男女共同参画推進センター運営委員長

本田 美紀
  • 1955年愛媛県松野町生まれ
  • 愛媛県立宇和島東高等学校卒業
  • 労働福祉事業団岡山労災病院付属看護学校卒業
  • 愛媛労災病院勤務後結婚退職(3年勤務)
  • 専業主婦15年後夫と伴に有限会社オルソ本田を平成10年に立ち上げる
  • 松山市男女共同参画推進センター運営委員長

子ども心に決心したことー自分の選択した道を生きよう!

私は愛媛県の南予(高知県との県境)の小さな田舎町で生まれ育ちました。
母は子供のいない母の叔母のところへ養女として貰われ、否応なしの結婚を父といたしました。私には一人の弟がいましたが、私たち兄弟は決して恵まれた環境で生きてきたわけではありません、むしろ困窮した生活で育ってきたと思っています。
しかし回りの従妹たちは公務員の家庭や、地元で商売をしながらの家庭だったので、困窮していたのは、私の家だけでした。ですから私は従妹の洋服のおさがりで真新しいものを身につけた覚えがありません。たぶんそのころは兄弟の多い家庭はみなそうだったのかもしれませんが。
そんな折、父の姿が家からいつの間にか消えておりました。そして前にもまして私の家庭は困窮していったのを覚えております。父は私たちを置き、夫のいる女性の元に走りました.その頃、母は母の実家の料亭の手伝いをしておりましたが、それは所詮手伝い程度であり、きちんとした収入にはつながってなかったと思います。(のちに父は戻ってまいりました)
母は、私と弟の手を引き実家に生活費の支援のお願いに通いました。義姉さんへの遠慮もあったのでしょうがこっそりと、私はそれがとても悲しく暗くみじめでした。言葉では表せないほど。
その時より、私は、「自分で生きていく・自分の選択で生きていく生き方をしたい!」と強く思うようになり、この経験・想いこそが今の自分の根っこになっていると感じております。
高校からは、労働福祉事業団の持つ高等看護学校へと進学をし、親に頼ることなく学生生活を送りましたが、基本全寮生のためアルバイトが禁止されており、ここでも仕送りのない自分の家庭環境の違いを寮内でも痛感しました。
その専門学生のころに今の夫と出会い、結婚に進みましたが、その頃すでに義母はパーキンソン氏病を発病しておりました。が若い私は情熱ですべて解決できる、結婚がすべて解決してくれる、そう信じ込んでいました。

嫁という立場――子育て・介護の日々

しかし、義父の兄弟は同じ地域に居を構え、古い仕来りの息づく中、高校生の妹のお弁当・義父のお弁当・夫のお弁当つくりから始まる朝はめまぐるしく、親類縁者の米の耕作もすべて本家といわれる家でまとめて作るという、想像すらできなかった結婚生活でした。大きなお腹を抱え、片道一時間半のバスで大学病院に義母をつれて受診させる役目もすべて嫁である私の仕事、私は自分の感情を押し殺し、ただただ「NO」と言えない生活を送りましたが、心の奥に眠る・自分らしく生きたいという思いはマグマのようにエネルギーをため込んでいきました。
子育ても実母の介護をしながら、総てをこなしていく、こんな生活で私はギリギリの表情だったと思われます。そんな折私を救ってくれたのは、ご近所の先輩でした、「もうすこし自分らしくいきなさいよ。」そう、自分を生きてもいいのだと思えた瞬間です。
そんな折、最愛の弟が癌を発病し34歳でこの世を去りました。「稼ぎのない男は男の価値がないのか」彼が病床で私に突き付けた十字架です。いまだに私はこの十字架を背負って答えを探しています。

夫の起業、そして自分の生き方を発見!

そのこともあり、夫が起業を切り出したとき私は「人生は一度悔いなく生きよう!!」の強い思いから反対はしませんでした。そうして、義足・義手・装具の会社「オルソ本田」は誕生しましたが、みな前職でその技術をつけていた社員さんばかり、素人の私はそこでも自分の立ち位置を探る日々です。
しかし、前向きに生きるということは、人生に沢山の示唆をあたえてくれます。そうだ、育児・介護・そんな経験を活かせばいい、突然目の前が開けたのです。

そう、お客様の半分は女性だ。
その現実を自分のものにしよう、そして女性達の力になろう!!今までためてきたエネルギーをだしていこう!!この瞬間から私は私であることに気づきました。すべての経験を糧にいきることは、自分の人生を否定するのではなく、肯定しながら生きていくものだと痛感しています。
ではなにができる、仕事以外でも?そうだ自分が悩んだ経済的な事情で進学ができない、可能性を秘めているのに、教育の機会が与えられないなんてことのないように。
私の思いは、木全さんのJKSKのWE基金(OneCoin募金*)のお声掛けにより、実をつけることができています。大きな金額ではないのです。
小さな毎日の想いがCOINという形に現れただけ・・私はたまった毎日の想いをそのままの形で送金させていただくことに決めました。それが私のやり方だから。

One Coin/Every Day募金運動

これまでの経験を全て自分の糧に

発病から15年癌を繰り返し、その間、遠距離介護をした母が弟の元に旅立ちました。最後の2時間、呼吸が荒くなり、脈が弱くなりゆく母と2時間ゆったりと二人きりで病室で過ごしました。
私は「苦しまないように迎えに来て頂戴」と天国の弟にいのり続けました。穏やかな最後でした。
父のDVに悩んだ母を、まだ動ける時に一度引き取りましたが、母は一週間で家にかえっていったこと、なぜかそんな母に無性に腹がたったこと、いろんなおもいが私を包み込んだことを思い出します。
今そんなに確執のある父を目の前にし、自分が試されている時期がまたきたようにおもいます。逃げることができない私は受けて立つしかありません。自分自身を見失うことなく、父の終末に時々寄り添いながら・・・介護は暗闇で手探りをしながら生きるものだとおもいます。
昨年旅立った実母の看取りを合わせると、私は実に30年以上常に誰かの介護に寄り添ってまいりました、介護は長男の嫁が担うものという世間の因襲は地方都市ではまだまだ根強く残っています。私の暮す地域でも、それで命を落としていった大切な友人がいます。
早くその呪縛から自分を解放し、自分らしく生きてほしいと願いながら、地域での活動を続けています。刷り込まれた意識は容易に払拭はできませんが、一日一日の積み重ねでしょう。
最後に多くの若き女性たちへ、自分の可能性に自分で蓋をしないで、思い切り羽ばたいてください。こうして日本の地方にも可能性にかけ続けている一人の女性がいることを勇気にして。
ONECOINは私の生きている証、そんな生き方もいいよね、自分を励ます毎日一枚のすてきな運動、これも小さなエールなのです。

* 「One Coin募金」は、正確には「One Coin/Every Day募金運動」。無垢の欅の木で作られた貯金箱に毎日1枚のコイン(500円でも100円でも50円でも自分の状況に応じた金額のCOIN)を入れ、それをWE基金に寄付する。