三浦 裕子(みうら ひろこ)

個人教授

1963年 日本女子大学英文科卒
優れた卒後論文に授与される「島田賞」受賞
高校の教員として仕事をしたかったけれども、結婚、出産、子育て、夫の転勤、子どもの教育等のため思うようにいかない中で、自宅で、個人教授というやり方で、生涯を通して、丁寧に、1人1人の受験勉強の相手に徹し、教えた全ての生徒さんたちを合格に導いてきた。


結婚に至る形態は様々だがわたしは典型的な見合い結婚で今日に至っている。学生時代、君が好きだと言われ数年付き合った人がいたが、どう考えても好きと思うのは相手であって自分ではないとの思いから絶縁状を書き、別れてしまった。
以後自分には結婚の可能性はないと思ったが、一生独身で過ごす勇気もなく偶然知人に紹介された人に会い、「あっ、この人いい」と直感的に感じたのである。「この人いい」でなかったのは内緒だが、迷わず結婚し、74歳の今でも「この人よかった」の思いは変わらない。相手は「惚れられた」と独身寮の仲間に話していたそうだが。

大学卒業後、子供のころからの夢であった教師になれたのに結婚を機に夫の勤務地の四日市で新婚生活、子育てを始めた。
せっかく得た高校英語教師の職を親元の東京で続けるのも一つの生き方であったが、将来子供が大きくなったら復帰できると安易に考えていた。
しかし、見知らぬ土地で二人の子供を預ける場所も方法もわからない。また何歳までが子育ての期間かも決められず、夫の東京本社への転勤後は下の子供が中学生になるまで、家で旺文社の全国大学入試模擬テストの採点、Z会と進研ゼミの大学入試問題の添削をして過ごした。
そんなある日、夫が「本当は何をしたい?」と尋ねてくれると、わたしは、「高校生に英語を教えたい」と即答した。英会話は無理でも、日本の大学入試に必要な長文読解、文法を基礎から教えながら、重要単語と熟語を徹底的に復習させて、大学合格に導く英語教室を家でやるのがわたしの願いだった。
結婚当初から、勤めに出るという発想はない。夫はその申し出を快く受けてくれ、我々家族の新しい生活が始まった。

部活などを終えて来てくれる高校生相手であるから、教室の時間は夜8時から10時に設定した。能力、学年の違いに対応するには、一対一でないと無理なため、月・木組と、火・金組のそれぞれ一人ずつとした。個人教授のため、生徒の悩みや進路の希望を聞き、相談に乗ることができる。月謝も「ボランティアですか」と言われるほど一般の塾に比べて低く抑えた。
幸運なことに生徒のほぼ全員が希望大学に入ったからか、卒業後も訪ねてくれる生徒が多く、その母親ともずっと親しくしている。こうして、英語教室は夫の転勤にもついて回らぬまま、30年以上続いた。その間わが子は他の塾に通い、夫が再び東京に転勤になると、仕事から疲れて帰ってきても、作りおきした夕食をレンジで温めて食べてくれた。
世の中の趨勢として、結婚し、子供をもった女性が家庭の外で働くために保育所や学童保育の増設の必要性が叫ばれている。その環境整備はますます必要となろう。
一方わたしのように自分の希望をかなえながら家で人の役に立ち、収入を得て人生の生きがいとする生き方もありではないだろうか。それには家族の協力と家計を補う必要のないことが条件だが。