上條 茉莉子(かみじょう まりこ)

NPO法人コペルNPO代表理事、NPO法人JKSK 監事
NPO法人 情報セキュリティフォーラム理事
社)かながわ若ものサポートステーション理事長
公益財団法人俱進会評議員 ・社会福祉法人たすけあいゆい評議員

上條茉莉子(かみじょうまりこ)
  • 1962年 東京大学理学部数学科卒、米国ノースイースタン大学数学科大学院修士課程卒
  • 1962~1993年 日本IBMにてSE(システムズエンジニア),SE管理者として勤務。
  • 1994~2002年 有)ライフ・デザイン・コンサルタンツ 代表取締役  
  • 2002年~ NPO法人コペルNPO 代表理事
  • 2008~2014年 かながわ女性会議代表、NPO法人化後理事長
  • そのほか
    • 女性技術者フォーラム設立委員&代表歴任
    • 神奈川県男女共同参画審議会会長、神奈川県総合計画審議会副会長等歴任
    • 産能短大講師、東京大学工学部講師(社会・経済構造の変化と基盤整備のあり方)歴任
    • NHK関東甲信越番組審議委員会委員&委員長 歴任
    • 神奈川県ボランタリー活動推進基金審査会 審査委員&会長代行歴任 
    • 新聞・雑誌に寄稿多数 また、自ら情報誌(LDIC NEWS)を発行も
    • 著作:公人社 NPO 解体新書 編・著、機械学会:人間と機械の共生 共著

さて人生後半は、NPO活動しようと日本IBMを退職することに決めていた私は、退職の数年前から、仕事に並行しつついくつかのNPO的活動を経験することになりました。
いずれもIBM 在職中から、退職後数年にわたりかかわった活動ですが、自分自身のその後の活動に大きな影響を与えることになりました。
ちょうど日本のジェンダー問題および「非営利セクターの活動」が浮かび上がってくる時期に当たり、自分自身も無我夢中で、あっちで学び、こっちでぶつかり・・・と、失われた10年と言われる経済状態の中での日本社会とともに模索しつづけた感がある1990年代を振り返ってみたいと思います。

土木学会学会誌編集委員活動

土木工事の多くは公共工事で、官公庁と密接なつながりがあります。この分野で、多くの仕事をしてきた私は、関係者の会合にたびたび出席していました。「女」はトンネル工事には絶対入らせないなど迷信の色濃く残る分野です。その中で土木学会誌の編集委員長からぜひ委員に、と依頼され、何事も経験とお引き受けしました。
女性の視点を期待されたようでしたが、私はユーザーの視点――特に、使い勝手や、景観、環境に対する影響、作られたものの安定的な機能提供(つまり保全や維持管理)の重要性、社会に対する影響など――から意見を言うようにしました。というのは、土木建設に限らず製造業の男性は、「いかにすぐれたモノを作り出すか」、その技術力の高さを競い合っていましたし、保全や維持管理などは一段と低い位置づけにしか見ていないように思えたからです。日本は世界の中で、高度成長を遂げ、モノづくり王国となっていた時代です。
しかしモノを作ると同時に、保全すること、やがては朽ちていく定めのものの後始末も、作る際に考えるのが,スジってものだろう、というのが私の考えでした。
のちに誰かの「男は動脈系のことばかり考えるが、女は静脈系を考える」という説を聞き、なるほどそうか、と思ったものです。
ともあれ、私の専門外の分野で、新しい技術や、世の中の動向も勉強させていただき、日本の古代土木技術の素晴らしい遺産についてなどもたくさん勉強しました。
例えば、武田信玄の作った霞堤――洪水の力をうまく逃がして、甚大な被害から人を守るという知恵、など、近年の大洪水での被害から昔の人の知恵として見直されて、今では広く知られるようになったもの――などにもいち早く親しむことができたのでした。
その時のアウトプットの1つが、学会誌特集号「構造デザイン」です。私の対談記事は、世界的建築家の伊東豊雄氏と土木学会の重鎮中村良夫先生の対談記事のすぐ次に掲載という栄誉をいただきました。

パイロットクラブの活動

パイロットクラブというのは、米国西海岸エリアに本部を持つ女性の世界組織です。「障がい者に完全な市民権を!」という統一スローガンのもと、20~50名くらいの小グループが集まる女性のチャリティ団体で、それぞれのグループが独自にそれぞれの障がい者支援の事業を展開する――あるグループは盲導犬を育てる、あるグループは、知的障がい者を支援するための寄付や、バザーを手伝う――など様々でした。私の入会したグループは、東京で設立されたばかりの、若い(はねっかえりの)グループでした。メンバー資格は、女性経営者&同等、あるいは地方名士、ということでした。要は自ら寄付ができる、あるいは寄付者を紹介できる力のある人、ということと思います。
活動は様々でしたが、共通するのはどうやって活動資金を集めるか、です。ほとんどのグループが、年に1、2回パーティを開催し、価値ある品物をあつめて、オークションで売り上げるなどで資金調達を行っていました。一流ホテルでのパーティですから、パーティ券も高額ですし、オークションの売り上げが1晩で100万円をこすなど、かなり大きな金額が動きます。
オークションの品物は、メンバーが寄付したり、メンバーの人脈を頼って企業から品物(ブランド品のシーズン終わったものなど)を寄付してもらったりなかなか豪華なものでした。それを楽しみに来られる常連客もおられました。
日本では年に1度すべてのグループの代表と任意参加者を集めて、コンベンション(一種のお祭り)が開催されます。そこでは成果を報告し、上位グループを表彰し、互いの健闘を称えあい親睦を深めるのです。また世界組織なので、年1回世界大会が開かれ、そこでも華々しく成果を称えあうというイベントが行われるのでした。日本ではこのような、大義名分(社会に貢献している!)の立つ楽しいイベントはまだ珍しかったので、メンバーも魅了されていました。
しかし、これらの活動で動くお金は巨額でも、実際の障がい者に使われるお金よりも、自分たちで、消化してしまう方が多いのです。何より、最も貴重な資源である「自分の時間」をパーティやコンベンションにつぎ込んでしまうのは、何か大きな違和感がありました。
3年活動して、会長職を最後に退会しました。アメリカのラスベガスで、世界大会が開かれ、IBM 退職の翌日ベガスに飛びました。その会議に出席中、通訳の間違いを走って行って訂正した際、椅子にひっかけて、転倒・骨折し、車イズで帰国したのはなんとも笑える結末でした。
会の運営には、その当時は賛成できなかったけれど、この団体運営から学んだことは大きかったです。たかがボランティア活動とはいえ、アメリカ流の目標管理、女性にも大いにアピールする「自尊心をくすぐる表彰」や、小グループ間で競わせる仕掛け、大掛かりなイベント舞台の演出、運営を自分たちだけで成功させる成功体験、またこのイベント自体が、人心を引き付けるためのエンターテインメントの仕掛け(これはローマ帝国時代以来の典型的な人心掌握術)になっているなど、さまざまです。 
どんな小さなことでも、きっちり、こういうコンセプトを立て、皆に共感を得られるよう周知し、実行する。さすがだなぁ・・・と思わせるものがありました。

日本女性技術者フォーラム( JWEF:Japanese Woman Engineers Forum)と大規模調査

一方、日本で技術系の仕事をしている、女性の研究者、技術者の団体を作ろうという動きがあり、相談を受けていました。言い出したのは、千葉大学・物理学の数野美つ子教授です。国際女性科学者・技術者会議(iCwes)に出席され、日本で開催するためのホスト組織を作りたいとの意向でした。社)日本工業技術振興協会が協力してくれることになりました。

設立記念セミナー:参議院議員 円より子氏と
設立記念セミナー:参議院議員 円より子氏と

ついでに日本のまだ少数である女性科学者・技術者の地位向上、働く環境改善を目的とする団体設立としてはどうか、と提案し、数名のメンバーで、団体設立に動き始めました。
とにかく身体と土日の時間を目いっぱい費やして、賛同者を集め、1992年の6月に設立することができました。
この間に、「いったい日本には女性科学者・技術者は何人いるのだろうか? 今どういう環境で、どういう思いで仕事をしているのだろうか? 仕事をするうえで、障碍になっていることは何だろうか?」という疑問が芽生え、様々資料をあたりましたが、きちんとした統計情報はなかったのです。
そこで、まずはこの会で最初の事業として、きっちりした調査を行いたい。賛同したメンバー5、6名と調査部会を形成し、細部を練り、アンケート項目をまとめました。朝日新聞に大きく取り上げていただきました。
特徴的なのは、数値データだけでなく、記述式回答を求め、質的な側面を浮き彫りにしようとしたことです。なかでも、「あなたは今どういうお仕事をしていますか?」という問いで、職務の内容を1行で表現してもらいました。また「働く上で感じていること、とくに障碍や、困難、どう乗り越えたか」、と具体的なことを自由記述で、1ページ内で書いてもらうようにしました。
全部で2000通配布し、800通にもなる回答だったので、この種のアンケートにしては、40%の高回収率です。70問にも及ぶ膨大な質問に、「なんでこんなに質問項目が多いの?!」など文句を書きながら、ほとんどがまじめに答えてくれました。

IBM退職日が迫っていました。私は独立起業するつもりで、子育てと両立のため20年前に購入した中野区にあるマンションの1室をオフィスに改造し備えていました。そこがこの調査部の活動拠点になりました。
自由記述の回答は139通にも及び、びっしり細かい字で、書きこんだ回答を前にして、調査部員一同興奮して回し読みしたものです。
私自身が感じていた仕事上の悩みや障碍は多くの人がもっているにちがいない!という直観はまさに的中していました。結果は、予想をはるかに超え、日本企業で働く女性たちの受けている、過酷なハラスメントや処遇の実態が見えてきました。にもかかわらず、果敢に障碍を突破して、仕事にまい進する女性たちの姿も伺えました。「俺は絶対女なんか認めない!」と宣言した課長のもとで、2年間頑張って「俺が間違っていた」と言わしめた、という人もいれば、いまだに認めないという上司と戦い続けている人などさまざまでした。
また「貴女のお仕事を1行で説明してください」、という問いの回答は、想像をはるかに超えた、見ていてワクワクするような研究テーマや仕事の中身が満載でした。

WEF調査部:調査報告書
WEF調査部:調査報告書
仕事一覧(部分)
仕事一覧(部分)

資金のあてもなしに始めた事業でした。私の起業直前の試行事業として、オフィスや事務用品、通信料、また私自身のスキルと時間を無償で提供するつもりで何とかなると思っていました。私の手に余る費用としては、アンケート結果の入力と統計処理がありましたが、調査項目に希望の質問項目を入れることを条件に、ある企業がコンピュータ処理を分担してくれました。途中で、メンバーの1人が、新聞に“東京女性財団が、研究助成を行っているが、まだ応募が少ない”という小さな囲み記事を見つけてきました。
これだ!と、直ちに提案書を書いて締め切りギリギリに提出。書類審査後のヒアリングでは、いかにこの事業がユニークで、まさに今やるべき男女共同参画推進事業であるか熱弁をふるい、180万円の助成金を勝ち取った、というよりもぎとってきました。

それにしても、永年勤めた企業を退職し次の本格的事業を始める準備期間で、失業保険を貰いながらこの調査事業に専念したのですが、この事業がその後の仕事人生に大きな影響を与えたのでした。
助成金を得たおかげで、1993年の11月には「女性技術者◆就労環境とライフスタイル」と題した充実した内容の報告書を作成することができ、調査に協力していただいた大学・企業関係者や男女共同参画に関係する各界の知名人に報告書を送ることができました。
その後東京女性財団からの助成金をいただき、3年ごとにフォローアップの調査を行って、2回目は、実際の事例――主に、企業内の状況――を深堀した調査、3回目は、1回目と同様の項目で、就労環境が改善しているか否かを問う調査を実施することができました。

初回の調査と同時に通産省、労働省、文部省などからパネリストを招き 大々的なシンポジウムを企画・実施しました。結果、新聞に取り上げてもいただき、雑誌などから原稿依頼もくるようになりました。
中でも、お茶大の原ひろ子先生から、APECの人材部会が開かれる予定で、テーマが“科学技術人材の動向”なので、論文を出さないか、とのお誘いがあり、急遽、論文をまとめ、APEC に送りました。結果、発表が決まり、マレーシアのランカウイ島での足掛け5日のAPEC人材部会に出席し、調査結果を報告することができました。1994年4月のことです。
続いて同年9月、北京理工大学と英国ランカシャー大学の共催で、北京で開かれた「The Development & Role of Women in Technology」に論文を送って発表する機会を得ました。

APEC人材部会(マレーシア)
APEC人材部会(マレーシア)
北京理工大学でのシンポジウム
北京理工大学でのシンポジウム

LDIC(ライフ・デザイン・コンサルタンツ)設立

‘93年は、JWEFの調査の仕事に大かたの時間を費やしながら、自らの会社設立の準備を進めていました。男女の別なくキャリアもライフも楽しんで追求できるような社会にしたいと、企業に女性活躍を広めるコンサルタンティングを行うこと、および女性の人材育成を業としようと決めていました。業務内容はきわめてNPO的ではあったものの、きちんとしたビジネスを行えるように有限会社を立てようとしていました。まだNPOに法人格が付与されるずーっと以前のことです。
JWEFの調査が一段落し、APECの人材部会ガ開かれるのが‘94年4月という日程で、その前3月1日に、有限会社ライフ・デザイン・コンサルタンツ――通称LDIC を設立しました。

私はまず、大手企業の取締役クラスの管理職につてを求めて面会し、熱心に女性活躍の必要性を説いて回りました。結果、自分の考えがなんと甘かったか、を心底悟るのに長くはかかりませんでした。
「わが社では女性の管理職なんか絶対に作りませんよ、これからだって」、とはっきり口にする人もいれば、「コンサルタントだって??? なんでわが社の内情を外部に相談なんかするんだ?そんなことありえない!」という人もいました。
雇用機会均等法が制定される10年にもなろうというのに、まだまだ道ははるかに遠い。社会的風潮が高まって、わが社でもなんとかせねば、世間から非難される・・・というような切羽詰まった状況が起こらない限り、女性の登用やそのための教育など全く望めないのです。時間がかかる問題だ、とあらためて噛みしめるのでした。

情報誌 LDIC NEWSの発刊

会社設立とAPEC会議に出席とあわただしく準備に駆け回る中で、LDIC NEWS 発刊を決めました。
大手企業から変えていけば、社会の変革は早く進む、と考えていたけれど、こちらはもっと動きが遅いと踏んだ私は、それならいろいろな事例を提示して、ジェンダー問題、社会問題を、誰もが考えるようになるには? じわじわと議論を広げる方法は? と考え、それには「情報誌」だ!と思ったのです。
前述したように、日本では働く場での女性の地位が非常に低い。有能な女性も、結婚・出産でやめていきます。この急激に訪れた経済不況の中で、真っ先に女子従業員がリストラされるという事態になっていました。
こういう社会の変動期にあって、また直面している高齢化・少子化時代をどう迎えるかは、女性のみならず一人一人の問題であり、社会を動かして皆で立ち向かっていかねばならない課題です。
それにしては、私たちが手にしている情報は非常に限られていて、画一的なマスコミ情報、あとは読み解くには少々困難な専門書になってしまう。もっと気軽に、もっと深く、今、必要な情報を、皆が議論できるような情報をコンパクトにまとめて提供したい。
そこで、LDIC NEWS のコンセプトを「社会・経済・政治に参画するための基礎情報誌」とすることにしました。
まだPCが普及していませんでした。IBMを退職するにあたり、当時発売されたばかりのラップトップコンピュータで簡単な印刷機能付きのPCを手に入れ、これで仕事ができる!と思ったものです。OS はIBM由来のDOSV、簡単なワープロと表計算のアプリのみです。メモリーもわずかなもので、フロッピー・ディスクという小さなレコード盤が外部記憶のメディアでした。
‘95年のMicrosoft Windows95によって、PC機能は飛躍的に伸び、利用者数も伸びたものの、PCはまだ高価で、インターネットが普及するのはまだまだ先のことでした。現在の様に GoogleやYahoo! で検索すれば、大方の情報が手に入る時代とは異なります。代わりにせっせと図書館に通って本を読み、新聞記事をあさって必要な情報を入手しました。

それでも時代は間違いなく変わってきている。いろんな機器やシステムを動員すれば、たった1人でもビジネスはできるのだ!という確信のようなものが生まれました。

LDIC NEWSは、当時の時代を色濃く反映した著作をされているいわば“旬の作家”に、ダメモトでお願いして、執筆をお引き受けいただいたり、インタビューに応じていただいたりしました。今から考えると、どうしてあんな勇気が出たのか不思議ですが、大企業のえらいさんと違って、1人で飛び込んできた女性のライター兼起業家は珍しかったので応じてみよう、という気になったのかもしれません。
厚生省(当時)の医官で、「お役所の掟」でベストセラー作家になった宮本政於氏とか、「高齢社会は待ったなし」を書かれた東京大学の宮島洋教授とか、日本国憲法の中に男女平等の項を書き入れたベアテ・シロタ・ゴードン氏などなどです。ベアテ氏の記事(戦後50年の守秘義務から解放されて初めて真実を明かしたばかりだった)を読んだ日経WOMANの副編集長から、「こういうのが、ほんとの情報というものだ!」とお褒めの言葉をいただいたのも、ひそかな誇りです。
そんなことで、LDIC NEWSは、評判も上々でした。隔月刊で、(年6回発行)その後7年間続けました。企画から、面談アポ取り・執筆依頼、インタビュー/写真撮影/録音とり、記事執筆から紙面構成、版下づくりまで一人でこなしていましたが、自慢は、企画に困ったことは一度もない、ということです。言いたいこと、伝えたいこと、多くの人に紹介したい人にあふれていたのです。

自治体の男女共同参画推進ほかの施策に関与

当初考えていた、企業への女性活躍推進コンサルティングは、おいそれとは事業として成り立たない、と悟った私は、方向を転換しました。
世界のジェンダー問題は、1975年メキシコでの国際婦人年世界大会(「世界行動計画)採択)、1985年のナイロビ宣言(「婦人の地位向上のためのナイロビ将来戦略」採択)を経て、1995年北京の世界大会(「平等・開発・平和のための行動――北京宣言及び行動綱領」の採択)に向けて、大変に盛り上がっていた時期でした。日本でも、県や基礎自治体のレベルで、女性プランにかかわる部署が「北京へ行こう!」とばかりに、様々ワークショップを開いて、意識向上を図っていました。
そんな空気の中で、LDICも自治体と協業することができないかと考えました。
おりしも、JWEF の調査報告書や、APEC での人材部会での報告記事などを見て、神奈川県が声をかけてきてくれました。科学技術系の仕事をしている女性たちの座談会を開き、男女平等推進の一助としたい、と。新たな方向を模索していました。
当時、男女平等施策で最も進んでいたのが神奈川県で、1982年には、「女性政策」、女性政策を進める拠点としての「かながわ女性センター」、それを支える人的ネットワークとして、任意団体「かながわ女性会議」という3本柱をすでに持っていて、全国のモデル的位置づけでもありました。
‘90年代は、それぞれ独自の女性センターを持つ県が増え、雇用均等法以来、関連して育児介護休業法等が施行され、少しずつ変容していった時期です。

これをきっかけに、神奈川県の女性問題協議会(のちの男女共同参画推進委員会)の委員に委嘱され、次期は会長に就任し、県下のいくつかの自治体の男女共同参画に関する委員会委員、委員長、専門委員などを務めることになりました。また講演依頼も増えていきました。
続いて神奈川県の総合計画審議会の委員や副委員長、自然環境保護委員会委員、など 県、および県下の自治体での委員活動が増えてきました。私の様に、多様な仕事や視点を持つ者は、格好の委員候補だったのでしょう。
もともと、女性活躍はこれからの社会では必須であること、それを実現するには、高齢社会への対応(高齢者医療保険や施設整備)、保育園問題の抜本的改善、税制のみなおしなどが必要であると私は思っていたし、長期的・世界的に見れば、環境問題、食料・水の問題の解決は欠かせないと思っていたので、女性学を専門とする研究者とは一線を画していたように思います。むしろ一般住民として、自治体や国の施策全般に関心があったといえるでしょうか。

社会のことをあまり知らない自分が社会を変えようと大それたことを考えての起業なので、‘90年代は、1から勉強の日々でした。そもそもフェミニズムとは何なのかすらよく知らず、多くの男性が、フェミニストやウーマンリブというと「権利ばかり主張して、煩わしい存在」としか捉えていないのに対して反論もできないようなありさまで、改めてベティ・フリーダンの「フェミニン・ミスティーク(女らしさの神秘)」から読み始め、多くの女性学の研究家の著書や、講演会にも出かけました。
また世界各国でのジェンダー問題への対処の歴史と施策を学びながら、先進国の効果的施策――ポジティブ・アクションが、法の下の平等に決して反するものでないこと、数値目標設定が非常に効果的であることをしっかり理解しました。
しかし日本では、この2つは男性からは蛇蝎のごとく嫌われていますね。現在に至っても変わりません。日本では物事の変化の歩みは遅く、大きなサンドバックを小指1本で、動かそう!としているのではないかと思う日々でした。非力な小指1本で力いっぱい押してわずかに動いても、疲れて力を緩めると、すぐに元に戻ってしまう・・・そんな気持ちです。

気を取り直して、女性たちから変えようと、女性をエンパワーするために、起業講座、マネジメント講座、再就職支援講座などをあちこちの自治体に提案しました。
アメリカの‘80年代の不況で女性が多くリストラされて以来、女性の起業家が大躍進を遂げた事実から、日本でも起業家が育つだろう、と思ったのですが、世間ではまだまだ“起業??”という反応でした。その代わり、女性・男性の意識改革を進める講座、中堅管理職を養成する講座などが、ボチボチと自治体からの委託講座となりました。

横須賀市女性中堅職員研修
横須賀市女性中堅職員研修

この時代、女性たちは少なくとも、建前としての男女平等は意識されてはいるものの、実際には、社会慣習やビジネス慣行――男性の意識、家族や夫などの意識と行動など――から、十分に職場で力を発揮するのは無理、と感じている女性はまだまだ多かったのです。さらに女性自身も、上位の役職に就くと、マイナス面の方がどう考えても大きいので選択しない、という本音が聞こえてきました。
働く女性たちにとっては、日々をどう過ごすか、保育の問題・夫や自分の健康問題とおりあいをつけながら、子育てと、仕事を両立させるには?を解決するほうが先なのです。
そして苦労のうえ、子育てを終えた女性たちには、すぐに親の介護問題が迫ってくるのです。

日本にはまだ介護保険制度・成年後見人制度はなく、自分の親を入居させたいと思うような施設も、高齢者が自宅で、1人で暮らせるような支援制度も見あたらない。では先進国に行って勉強しよう! 施設については、北欧やスイス、カナダなどが進んでいる、介護保険、世話人制度などは、ドイツが進んでいる! と思いました。

カナダ訪問時には、カナダの法務局局長の就任式に参列する機会を得、また彼女を日本のシンポジウムにお呼びするなどの機会があり、LDIC NEWSの記事にしたり、オーストラリア・ブリスベーンでの成年後見法関係者の国際会議があるのに出席させていただいたり、この分野ではかなりの広範な知識と各国の実情を知ることになりました。
スウェーデンの老人ホームでは、そこで供されるお食事をご一緒させていただきましたが、どこのレストランの食事よりも、自然な味で美味しかったのが印象に残ります。またホームの老人たちのなんとおしゃれで、幸せそうな顔つきをしていることか!
そしてフィンランドからの移民が、高齢化して認知症を疑われているケースの事例も紹介されました。高齢になると先祖帰りして、フィンランド語しかわからなくなってしまう。
生まれた場所の習慣――サウナなど――を整備し、ナースが母国語で対応すれば、何ら問題なく日常が送れる、本当の認知症はごくごく少ないのではないか、といった研究成果と実践施設を見学させていただき、研究や対応が進んでいるのだなぁと感嘆することしきり、でした。

スウェーデンの老人ホーム
スウェーデンの老人ホーム
スタディグループ
スタディグループ

日本は、男女平等に関しても、高齢者医療・福祉に関しても法整備に関しても、実施の効果的な推進方法に関しても、欧米各国からはるかに遅れているのを認めざるをえません。しかしようやく日本でも、介護保険法や、男女別姓選択制などが、制度化されるかという機運になってきていました。

そんな時代(‘97~2000)、産能短期大学、東京大学基盤工学大学院で教える機会を得たり、娘を交通事故で亡くしたり、弁護士さんのお世話になるようなごたごたの挙句一人暮らしの叔母を見送り、APEC人材部会に2回目の出席を果たし、自分自身は、写真撮影中小さな崖から落ちで、複雑骨折で3か月入院するなど、とんでもなくあわただしく過ぎていきました。入院中も、個室にノートPC とプリンターを持ち込み、LDIC NEWSを発行し続けました。

市民活動への傾倒――「われわれの神奈川を考える会」の活動

少し戻りますが、日本では、1995年の阪神淡路大震災を契機にボランティア活動が活発になり、世の中は少し「非営利活動」というものに注目が集まっていました。お役所仕事よりずっと迅速で、成果も上げられると知られるようになったのです。これらの活動円滑に動けるようにするために、法人格を与えることを骨子とするいわゆるNPO法(特定非営利活動促進法)が関係者の努力もあって、1998年末に制定されたのです。

神奈川県の当時の岡崎洋知事は、NPO 活動に関して、先進的な考えを持っておられた方で、NPO活動を活性化するために、神奈川県の財政が危機的な状況にある中、100億円を基金とする「かながわボランタリー活動推進基金」創設に奔走しておられました。

‘99年春、足の骨折で入院していると、副知事に続いて知事が見舞いに来られ、あれれ???と恐縮しているうちに、市民と行政のあるべき協業のかたちを求める「われわれの神奈川を考える会」の代表を仰せつかっていました。
2000年末には、成果を発表して解散する、という時限つき市民グループです。県が抱えている問題点を明確にし、行政がやるべきこと、市民がやるべきこと、協働すれば効果が上がること、を見極め、県に提言する、という目的です。神奈川県で顕著である問題領域5分野――子育て支援、教育問題、男女共同参画社会、豊かな高齢社会、環境問題――を決め、毎月1回市民の意見を聴き、討議するシンポジウムを開きました。12月19日には、県知事に提言書を提出し、記者発表をして、会は解散ということにしました。

われわれの神奈川を考える会のメンバー
われわれの神奈川を考える会のメンバー
提言集を知事に提出
提言集を知事に提出

思えば20世紀最後の7年は、IBMを飛び出し全く異なるビジネス環境や社会慣習の中で、戸惑うことだらけでした。自分がほんとに世間知らずであることがよく分かっただけに、わからなければ学べばいいし、これが必要と思ったらまずはやってみる、向こうから来た仕事はとにかく引き受ける、結果をまた次につなげる、というように取組んできました。
企業人生とは全く違った分野――社会の仕組み、女性学、保育問題、子供の教育問題、高齢社会の諸問題とりわけ、介護問題、医療・福祉問題など――を夢中で勉強し、情報発信し、女性人材育成に奔走し…と動いてきました。こういう活動を通じて、実に沢山の人――男女を問わず、本当に有能な多彩な人たちに巡り合うことができました。

改めて社会の大きな課題や問題点を挙げてみると、これらはすべて「女性」の力に大きくかかわっているのです。女性の意識を変えると同時に充分その力を発揮できるよう、男性の意識や法律や社会の制度・仕組みを整備していくことの重要性が改めて大きく浮かび上がっていました。充分とはいえないまでも、関連して制度・仕組みも整備されていきました。
1999年、男女共同参画社会基本法が制定され、あらためて、男女が同等に社会を担う存在であることが定義され、その実現のために、国・自治体・国民それぞれが行動すること、責務があることが明確に書き込まれています。

新たな世紀が始まろうとしていました。同時に私のNPO 活動もあらたなフェーズに入ろうとしていました。(続く)