中井 恵子(なかい けいこ)

株式会社プロマインズ 代表

中井 恵子

武庫川女子大学教育学科卒業後、大阪市立大桐中学校、旭東中学校において保健体育の教諭として勤務。
退職後、大阪府茨木市で知育の子育てサークルを立ち上げるほか、滋賀県マキノ町でキャンプ施設を設立、アウトドア教室を主宰。1994年からは茨木市および箕面市に英会話教室・幼児教室を開設、運営に当たる。
2001年、株式会社エル・シー・エー(神奈川県相模原市)入社。2003年、LCAインターナショナルプリスクールの副園長就任。卒園生保護者からの要望があり、小学校を設立し副校長に就任。同スクールは発足当初、フリースクール(私学)であったが、当時の構造改革特区制度(国際教育特区)に基づき、全国で初めての株式会社立の小学校(英語イマージョン教育校)として2007年、「LCA国際小学校」として正式に認可された。発足と同時に同校副校長に就任する。同じ生徒を幼児期から小学校卒業まで一貫した教育に携わることは教育者にとってまれな経験をする。
2011年に独立を決意し、幼保一体+英語イマージョン教育を特長とした「ワゴランド・プロジェクト」を立ち上げ、運営法人である株式会社プロマインズを設立、代表に就任。


自立の種

女性は、結婚、出産により大きく環境が変わります。何を選択するかによりその方向が全く違ってきます。私も今までの人生、幾多の岐路を選んできました。
「女性は、結婚して専業主婦となり、子供を産んで平凡な生活が幸せなのよ。」という世間一般の言葉に疑問と不信を抱き反発を感じた思春期がありました。母親は、私が物心ついたころから働いており、両親が働く家庭が当たり前で、女性の自立に関しての根本は、その頃から心の中で大きく育っていたのだと思います。
思春期の頃、全部を理解できるわけではないけれど哲学や思想の書籍に興味があり、本屋へ行っては、かじり読みをしていた記憶があります。「なぜ?」「どうして?」を考えることが好きな内向的な少女でした。そんな内向的な過去を思うと、今、人前に出る仕事に就いていることがとても不思議でなりません。また、思春期の頃「私、結婚などしないのかも?」と思っていましたが、その当時世間ではまだ結婚適齢期などという言葉があり、お年頃となり周りの結婚ラッシュに飲み込まれ、縁あって結婚という岐路を選択しました。この時はまだ、後に本当の自立を考える人生になるとは思っていませんでした。

日本初、株式会社立小学校設立までの道のり

私は、生まれも育ちも大阪で大阪から出たことは旅行以外にはなく、中学生の時から体育の教師になると決め、ただひたすらそれに向けて進むという生活でした。裕福ではなかった為、大学の費用と生活費は、奨学金とアルバイトの掛け持ちで何とか賄い念願の体育教師となりました。しかし、その世界は、自分の思い描いていた教育現場とはかけ離れたものでありました。当時、連日テレビで報道されるような校内暴力が真っ盛りで、授業さえまともにできない状況でした。教室内でのたばこ、爆竹、授業中に火のついた紙飛行機が飛び交い担当の教師はそれを制することもできないのです。そして体育教師が生活指導すなわち私も漏れなく荒れた生徒の指導係となるのです。けんかの仲裁に入れば、勢い余った生徒の力が私の太ももに当たり暫くはまともには歩けず、足を引きずりながらの通勤を余儀なくされたりしました。クラスの生徒は上級生から暴力を受け、口の中を40針縫い、顔は、バスケットボールのようにまん丸にはれ上がったりしたこともありました。こんな大きな事件にも関わらず、警察の介入はありませんでした。何事もなかったように時が過ぎていく自分の無力に情けなく、なぜこんな学校になったのか?悩み苦しんだ時期でした。
生徒の心に向き合う時間を作り、できるだけ生徒たちとの対話を心掛け、生徒たちと関わりが深くなるにつけ、なぜこの子たちはこんなに荒れるのか?ということを考えました。この生徒たちは、中学生になって荒れたのではない。すでに小学生時代に「落ちこぼれ」というレッテルを張られていたのです。中学の授業が全く分からないのです。それもそのはず、足し算、掛け算、など初歩的な学習が身に付いていないのに因数分解など分かるはずもなく、50分の授業は頭の上を通り抜け、日本人でありながら簡単な漢字さえ読めない生徒がクラスの1/3も占めるのです。
小学校の教師は、何をしていたのか?分からないまま放っておいた結果です。当時の一クラスの児童数は40人近くでこの人数を一人の教師が手厚く指導することは困難なことであったのだろうと思います。憧れの夢であった教師生活の中で、日本の教育の改革をしていかないといけないのではないかと考え、自分ができることはクラスの改革からと基礎学力のない生徒に小学校の初歩的な学習を復習しましたが、6年間を補えるだけの時間はなく、学校全体で取り組んではどうかという提案も、次々毎年同じような学力不足の新入生が入ってくるなかでは、長くは効果が続かなかったのです。教師の数が足らない、クラスの生徒数をもっと少なくして欲しいと教師が声を出しても、当時の文部省には届かず、熱意ある教師は必ずこの問題に頭を痛めることになるのでした。教師が身を粉にして働いても公立学校の現場の改革は、難しいものでありました。しかし、中学教師時代に出会った生徒たちから学んだことも多く有り、どんな子も私にとっては宝であり、今の自分が教育界にいる原点となっているのです。

中学の教師、子育てをしながら地域の子育て支援や、野外活動教室、幼児教育研究などの活動を経て、英語イマージョン教育を経験することになったきっかけは、スイスのスキー合宿で知り合った友人夫妻との出会いです。友人夫妻は八ヶ岳でアウトドアを子供に体験させる施設を作り、私たちは関西の滋賀県にキャンプ場を設立し、それぞれ自然の中から学ぶことで、無気力や夢や楽しみが持てない子供たちに外の世界はワクワクすることがいっぱいあることや達成感を体験させてあげたくて、好奇心に満ちた工夫する楽しい生き方をして欲しいと活動していました。その友人は、教師を辞め自宅で塾を始め、子ども達とアメリカを旅行した時、誰も英語での会話が成立しない、中学生から習ってきたにもかかわらずテストの点は取れても会話は、成り立たないことに気付き、英会話教室の運営をしましたが英語を喋れるようにはなりませんでした。そこで幼児期から英語で生活をする幼稚園で小さい時から自然に英語に触れる、英語イマージョン(シャワーのように英語を浴びる)を行う幼稚園を始めました。そのオープニングパーティでは、友人としてお祝いに駆け付けたときには、その2ヶ月後、自分の姿がそこにあるとは思いもよらなかったことでした。友人から運営が大変で英語イマージョンの幼稚園を手伝って欲しいと依頼があり、2003年大阪から神奈川県の相模原という地に移り住むことになりました。英語イマージョン教育との出会いでした。
その幼稚園の副園長に就任し、子供たちの英語力の習得を目の当たりにした時、この時期にネイティブの英語を耳から覚え、発音することの効果を実感しました。大人になってから英会話を学習し仕事で必要だからと頑張って英語を勉強した人が発音に苦しんでいる話しをよく聞きます。幼児期に耳から英語に触れることの重要性を感じました。

3年間、この英語イマージョンの教育を受けた園児達の保護者の方より、「折角、このような教育を受け英語力もついてきたのに卒園で普通の小学校に行くのは勿体ない。この教育を続けてもらえないだろうか?認可がなくてもいい。どこかの部屋の一室でもいいから小学校を作ってほしい。」との声に認可がなくても気にしない保護者がいるということに私たちの「小学校」の概念は覆されたのです。それならば、校舎があれば校庭があれば教育はできるとの考えから無認可の小学校設立の計画が始まったのです。とりあえず始めなければ何も進まない。頭でいくら考えても絵に描いた餅では夢を語るだけになってしまうので、実行に移しました。まずは、土地探し、資金、校舎の建設、課題は山積みでありましたが、地元の出会った方々の協力で地主さんに教育理念を理解しご協力をいただき、校舎を建設していただき月々のリース契約で校舎、校庭を確保しました。これを設立した当初は、フリースクール塾として扱われその基準に沿って建設されました。当初は、一学年一クラスの計画でしたが、当時の小泉政権時に「構造改革特区」という制度が始まり株式会社でも学校を作れるという、天からグッドタイミングを頂いた私たち3人の、認可に向けての挑戦が始まりました。
「構造改革特区」株式会社立小学校設立の申請を市に提出しましたが、何の応答もなく一年が過ぎ進捗状況は一歩も進んでいないものでした。市役所の窓口に問い合わすと、前例がないから難しい、学校を作るのは基準があり不可能との言葉でした。何度も市役所へ足を運び、では、どうすれば特区が取れるのか?基準をクリアする他手立てはないのか?今までと同じで資金がないものには学校は作れないということか?等、困難な課題が山積みでした。校舎、校庭の面積の基準を満たすため少し離れた場所にもう一つ建設し合算して基準を満たす工夫をしました。また、文科省との関わりで、日本の教育内容(教育課程)に沿ったものにするよう教科の時間数の確保等を守り、国語以外の教科を日本の教科書を英訳し外国の教育の要素もプラスし英語で授業を行うことにしました。外国人教師の臨時教員免許を取得し日本人教師とチームティーチングではなくクラス担任ができるようにしました。
一つずつ基準を満たすための努力と工夫により4年間に及ぶ認可のための交渉の末、ようやく外国人教師が英語で指導する形のまま正式な「小学校」として認可される、日本初の「株式会社立小学校」となりました。しかし今後、文科省としては、株式会社立小学校を存続させない方針で学校法人としての道を勧めていますが、学校法人はさらに厳しい基準があり、学校法人は困難なようです。

無認可の小学校から株式会社立の小学校を立ち上げ、副校長を務め、9年間同じ生徒を指導するという教育者にとって稀な経験をさせていただき、教育界での自立という人生の次のステージに行くため、株式会社立小学校の運営から巣立つ機会を得ました。そして現在、英語で行う保育と幼児知育教育と体育を総合的に行う新しい形の幼児教育施設Wagolandを設立しました。
私は、人との出会いからたくさんのチャンスを頂き夢を実現させていただきました。

JKSKとの出会いと本当の自立

Wagolandプロジェクトの構想を練り、実現させるべく活動しているときに、木全ミツ様との出会いがありました。そして、ミツ様との出会いがWagolandプロジェクトを実現させる原動力と行動力に拍車をかけることになりました。「私も私にできる小さなことから、世の中に何か発信して行こう」と強い気持ちが湧いてきたのを今でも覚えています。そして、数か月後、Wagolandプロジェクトは、中目黒で産声をあげました。

「自分で決めたこと」への覚悟ができ確固たる自分の意志へのぶれない軸で覚悟があり「一人で生きてみせるぞ」という失うことを怖がらずに決断をする人間が本当に強いのではないかと思います。私はそれをミツ様から学びました。
多くの女性が、不本意ながらも相手に依存して生きる道を選ぶことが多い時代に、不安をものともせず「あなたが自分で決めたことではないか」というその1点を堅持できるミツ様のような強さは、私が結婚した時には持ち合わせていませんでした。そして長い年月の後に結婚生活にさよならを告げた時に思った言葉が「自分で決めたこと」「一人で生きてみせるぞ」でした。これからの若い女性にもこの言葉が自分にあれば、何も怖いものなど無いと思います。一歩を踏み出す勇気が自立へとつながります。本当の自立とは、自分が決めた道を自分で責任をとることだと思います。

現在、東京都中目黒でWagolandインターナショナルスクールを運営しております。ここは、管轄で分類すると東京都の保育基準を満たした認可外保育所となります。保育所の数が不足し待機児童の問題が叫ばれている中で、保育という長い時間子どもをお預かりすることは、働くご両親のお役に立てることにもなります。そして、今までの教育経験(30年)を活かして、日本の幼児教育の発展に役立つことをしたいとの思いがWagoland設立のきっかけです。

Wagolandとは?

Wagoland(ワゴランド)とは、【和】日本人としてのアイデンティティをしっかりと持ちつつ、【GO!】世界に羽ばたいていける、そんな人間に成長してほしいとの願いを込めた造語。そのための、英語イマージョン教育を幼児期から行うのが特長です。
Wagolandの教育目標は「日本のみならず世界に貢献できる人となるための基礎を育む」こと。英語イマージョンプログラムをベースにした「八育」を通じ、国の違い、文化・習慣の違い、容姿の違いを肌で感じ、「偏見なく、互いを尊重しあう気持ち」を育む。そのなかで自らの意思をきちんと伝達できる力を、園生活を楽しみながら、自然と身につけていくことを目指しています。
Wagolandの教育・保育の指針である「八育」とは、八つの育みを意味します。
日本人としての語感・習慣・文化・伝統・知識・教養の基礎を軸とした和育。イマージョンプログラムによる和英両方の語学に慣れ親しむ語育。躾けや自立した生活習慣を身につける保育。卒園後に迎える学校教育のための知識を習得する知育。病気やケガに負けない丈夫な子となるための体育。食べることの大事さ、食のありがたさを学ぶ食育。芸術や音楽のすばらしさ、自然や四季を愛でることの感育。そして、分け隔てなく人を尊ぶ徳育を大切にしていきます。ただし、これらは幼児に英才教育を強いるものではありません。あくまで、子供たち自身が園生活を楽しめていることが前提です。学ぶこと、遊ぶこと、ランチを食べても、家に帰っても、すべてにおいて「楽しいこと」が根底にあります。楽しさは、子供の成長に欠くことのできないこと。楽しく学ぶことを知った子供は、無限の力を発揮して成長していきます。
あくまでも「日本人としての成長」を根幹としながら、日常の園生活のなかで自然に日本語・英語の垣根を取り払う、そしてそれが青年期の学習へ、さらには、世界をも舞台に活躍できる大人として、大きく羽ばたいてもらえることを目標とした、幼児教育プロジェクトです。社会のグローバル化はものすごいスピードで進んでいます。しかし、日本の教育はその変化についていけているとはいえません。言語学習の基礎を身につけるのに最も適し、かつ貴重である幼児期の数年間を旧態依然とした教育・保育に費やしてしまう、こんなもったいないことが今も行われています。その殻を打ち破って、新しい教育・保育の実現のためにスタッフとともに創り上げたのが、英語イマージョンプログラムとそれをベースにした「八育」なのです。学ぶことの楽しさ、疑問が解けたときの感動、誰かに自分の思いが伝わったときの喜び、そして思いやりの心を、しっかりと子供たちに教えていきたい、そのためにWagolandの「八育」はあります。

笑顔がいちばんまぶしい数年間をWagolandで過ごした子供たち。やがて来る青年期には、きっとその瞳の中に「なりたい未来が輝いている」ように。その願いを込めて、ワゴランド・プロジェクトをより楽しく、より充実したものに昇華させていこうと日々私たちは頑張っていきます。次なる目標を立て命のある限り、そして自分らしく生ききるためにチャレンジし続けようと思います。それが色々な方々の励みになったり、ヒントにしていただければ幸いに思います。
ぜひ、WagolandInternationalSchoolのWebsite(http://wagoland.jp)を覗いてください。
これからの日本を担う笑顔が満開の園児たちです。