坂巻 豊子(さかまき とよこ)

坂巻 豊子(さかまき とよこ)氏
  • 1948年 埼玉県浦和市(現在のさいたま市)生まれ
  • 1965年 米国オハイオ州Chaney高校へAFS公費留学生として留学、1966年卒業 
  • 1967年 お茶の水女子大学文教育学部付属高等学校卒業
  • 1972年 国際基督教大学教養学部語学科卒業 パーソナルコミュニケーション専攻
  • 2011年 米国イリノイ州DePaul大学院School of Public Service修了 Master of Science
  • 1978年から岡邦俊法律事務所、株式会社日本格付研究所、株式会社樺山事務所、公益社団法人日本ユネスコ協会連盟、認定NPO法人ジャパン・プラットフォームに勤務 
  • 2019年から静岡県熱川にて隠居生活

NGOでの仕事につくまで

私は、これまで20年近く国際NGO/NPOを支援する仕事に携わってきました。高校生や大学生から「国際支援の仕事に就くためには何を勉強すればいいですか?」と質問されることがあります。「この仕事に向いている人は楽天的でくよくよしない、好奇心旺盛で人の話をよく聴く、体(特に胃腸)が丈夫、食べ物の好き嫌いが少ない、長時間の車移動に耐えられる、最低交渉できる程度の英語力、加えて特技や趣味を持っているとなおよし。勉強はこれを学べば国際支援従事者として一人前というものはなく、自分の興味のある分野を掘り下げ、人間力を高めることに注力すればよい。支援の仕事は様々な道を歩き、様々な人と出会い、人生経験を重ねてからでも、いやむしろその方が人に寄り添った活動をすることができるので、あせらず、ゆっくりと」と答えています。
初めて就職したのは30歳の時。「職歴ゼロ、専業主婦、二人の子持ち」という絶望的な経歴の私を知り合いの弁護士が事務職として雇用してくださり、7年間そこに勤務しました。その後、1985年に友人の紹介で、日本に導入される債券格付を業務とする株式会社日本格付研究所に転職。4年後に、アメリカやカナダの会社の日本市場参入を仲介するコンサルタントに転職しました。そして11年後の2000年に、前職時にお目にかかった方の紹介でNGO「特定公益増進法人(当時)日本ユネスコ協会連盟」の仕事に就きました。

様々な場面での教育に関わった日本ユネスコ協会連盟(以下、日ユ協連)

第二次世界大戦終戦後間もなく、UNESCO(国際連合教育科学文化機関)憲章の前文の「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という理念に共鳴した日本の人々の間で、「すべての命を尊び、多様性を尊重する平和の心を育て、紛争のない世界を築くために国際協力の運動)が盛り上がりました。そして、1948年5月にUNESCOの出先機関ではない独立した民間組織としてユネスコ協力会連盟が発足。日本がUNESCOに加盟した1951年7月の1か月後に社団法人日本ユネスコ協会連盟となりました。2020年現在、274の構成団体、142社の維持会員企業、個人会員、賛助団体に支えられています。日本で始まった、民間の資金・人材によりユネスコの平和の理念を普及・具現化しようというムーブメントは世界へ広がり、1974年にはアジア太平洋ユネスコ協会クラブ連盟が、1981年には世界ユネスコ協会クラブ・センター連盟が創立し、現在世界70ヵ国で3,500を超えるユネスコ協会やユネスコクラブが活動しています。

2000年~2008年当時の連盟事務局の仕事

業務は組織部、総務部、広報部、教育文化事業部にそれぞれ分掌されていましたが、ユネスコの理念の普及にかかる活動は20名前後の職員全員で担いました。以下に、内容をご紹介します。

◆全国に散らばる2万人弱の会員の相互交流連帯促進
年1回の全国大会・総会と年1回の9ブロック毎の活動研究会の開催

◆青少年育成活動
1952年に結成された日本高校生ユネスコ連絡協議会のサポート、小・中・高校でのユネスコ活動についての出前授業、ユース会員対象の日ユ協連実施の途上国ノンフォーマル教育支援事業地へのスタディーツアー、海外の高校生対象の日本でのホームステイと学校通学体験(UNESCOプログラム)、ユース会員主催の夏季こどもキャンプのサポート。

◆途上国でのノンフォーマル教育支援事業(世界寺子屋運動)
1969年よりUNESCOが実施していた支援する側される側が共に活動するユネスコ・コーアクション国際協力活動を日本国内の協会と共に展開し、UNESCOを通じて44ヵ国1地域へ支援したことに始まり、1989年には日ユ協連独自の途上国でのノンフォーマル教育支援事業「世界寺子屋運動」を開始しました。1990年にタイで開催された「万人のための世界教育会議」で採択された「EFA(Education for All)すべての人々に教育を」宣言に呼応して日本国内でキャンペーンを展開。1993年からは支援国のユネスコ国内委員会や教育事業を実施する現地NPOをパートナーに日ユ協連が直接事業を実施し、2021年現在も活動を継続しています。
具体的には、私が勤務していた期間にカンボジア、バングラデッシュ、インド、ネパール、ベトナム、アフガニスタンで識字、職業、知識の学びの場・寺子屋を建設・開校しました。また各国の事業実施者が一堂に会し、それぞれの国での寺子屋事業実施の成功例や失敗例、実施の際のヒントなどの情報を交換し合う、ピアラーニングをベトナムおよび日本で開催しました。
ベトナム、カンボジア、アフガニスタンの3ヵ国は、日本人職員が常駐する現地事務所を開設し、現地職員とともに実施、インド、ネパール、バングラデッシュは、現地NPOが主体となり実施しました。事業資金は民間からの寄付がベースですが、支援国政府との合意が必要となるベトナムとアフガニスタンでの大型プロジェクトの場合は、JICAによる公的資金も一部導入しました。
私が所属していた東京事務局勤務の各プログラムの担当者は事業地を頻繁に訪問し、現地パートナーと事業の確認をします。私は事業の全体責任者として事業地に出張し、事業地の人々と車座で話し、食事をし(一緒に食事をして人との輪を築くため)、中央あるいは地方政府や事業地の代表に事業の進捗状況を報告しました。その回数は7年半の間で41回にのぼりました。

◆世界遺産保全活動
1972年にUNESCO総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」に呼応した活動を実施しました。2000年に始まった宝くじ協会支援による「世界遺産年報」の発刊と全国の図書館への寄贈は現在も継続しています。
アフガニスタンの活動もあります。2001年、偶像を禁止するタリバンによってバーミヤンの大仏が破壊されました。その大仏跡を一望できる小高い丘の上に、各国の文化担当職員の作業・宿泊所兼将来、博物館となることも視野に入れた「バーミヤン教育文化センター」を2005年に建設しました。2021年現在、センターはノンフォーマル教育の拠点および宿泊所として使用されています。博物館としての開館は国に平和が訪れる時となるでしょう。また、首都カブールの博物館にて、戦渦のなか博物館職員達が隠し守った所蔵品の写真展を開催しました。
フィリピン・ルソン島では、北部イフガオの世界遺産コルディリエラ棚田群の崩壊危機への支援をUNESCOバンコック事務所に相談され、2006年から現地NPO“SITMO”をパートナーとして、イフガオ州立カレッジ、先住民国家委員会の地域事務所、現地の教育局、村落組織、村民を巻き込んで「イフガオの棚田文化継承プロジェクト」を実施。地元の人々の努力が実り、2012年に危機遺産リストから解除されました。

バーミヤン教育文化センターの建設予定地でバーミヤン大仏を背景に。左から3番目が著者。アフガニスタンの女性と話しができるのは女性のみのため、女性が現地へ行く必要があった。

◆企業とのコラボレーション事業
日本で活動するNGO/NPOが激増したことにより、日ユ協連への寄付が減少し続けました。その打開策として、2001年に教育や文化分野の活動に加えて、企業とのコラボレーション事業も担当する「教育文化事業部」が発足しました。1990年から始まった三菱広報委員会支援による「三菱アジア子ども絵日記フェスタ」、2000年に開始した宝くじ協会支援による「世界遺産年報」の発刊に加えて、新たに2003年から電通、電通国際情報サービス、電通テック、サイバー・コミュニケーションズによる社会貢献事業の一環として、だまし絵「くるりんぱ」を制作し、イベントを開催して子ども達に「物の見方は一つじゃないよ」というメッセージ伝えるとともに、「ユネスコ世界寺子屋運動」で学ぶ途上国の子供たちの様子を紹介しました。
また、電通には、創立以来日ユ協連が使用していた国連組織UNESCOのパルテノンマークロゴを変更し、日ユ協連が民間組織であることを表す独自ロゴマークをデザインいただきました。
2004年からSONYと共に子ども向けの科学技術体験教室「(SONYの人型ロボット)QRIOサイエンスプログラム」を日本およびベトナム、インド、ブラジルで開催しました。社員講師からは、科学技術が私たちの社会生活にどのように役立っているのか、また、科学者として企業で働くことの意味について、実験や体験談をとおして学ぶ機会を提供いただきました。同社から「社内公募で選ばれた技術開発、法務、営業など様々な部署の社員が一つのプロジェクトで共同作業をすることで、社内で顔を合わせることのない社員間の横のつながりを作る機会となった」とのコメントをいただいたときには、疲れが吹き飛ぶ思いでした。

DePaul University大学院にて国際公共支援(International Public Service)の勉強

私が日ユ協連の在職中、設立から半世紀以上経つ組織の運営改革案にかなりの時間を費やしました。しかし、画期的な方策には辿り着かず、これは営利企業の経営理論を土台に考えていることに無理があると気づき、2008月1月に60歳定年を迎えたのを機に、長男の赴任地である米国イリノイ州シカゴにあるDePaul University大学院に入り、3年間International Public Service(国際公共支援)を学びました。
講義初日の単位外授業で、文章を書くときの注意(センテンスは短く、主語を明確に、受動形使用禁止、修飾語の多用は避ける、論理展開はイメージが浮かぶようになど)や、口頭でプリゼンする際の注意と練習があり、これって大学院の勉強? 高校か大学で学ぶことではないか? と疑問に思いましたが、後に続くどの授業でも毎回ディスカッション、レポートあるいはパワーポイントを使ったプリゼンがあり、自分の考えや意見を相手が理解できるように伝え、他の人の考えや意見を真摯に聞くことが全ての入り口であることを叩きこまれました。大学では、学士号取得したばかりの若者が出席する昼間ではなく、仕事を持っている社会人が学ぶ夜のクラスに出席しEthics、Management of International NGO, Financial Management, Fundraising, Leadership, Policy Design, Sustainable Development, Globalization, Cross Sector, Research Methods, Quantitative Analysis, Applied Research, Public Service, and Evaluationの科目を受講しました。

東日本大震災を機にジャパン・プラットフォームに就職

シカゴで修士論文提出準備中の2011年3月に東日本大震災が起こりました。公共支援を専攻している人間としては日本に戻って支援活動をしなければと、ネットで探した(紹介によらない職探しの初めての経験)緊急人道支援・国際援助活動NGOであるジャパン・プラットフォームに応募したところ、大規模災害で人手が極端に不足していたからか63歳の私が採用されました。そこで修論を仕上げ、11月に荷物をまとめ東京に戻り、国内事業部に配属されました。

◆認定NPO法人 ジャパン・プラットフォーム
ジャパン・プラットフォーム(以下JPF)は、1998年コソボ難民への人道支援が世界中に求められていた頃、日本ではNGOの多くは単独で迅速な支援を行う財政基盤が十分になく、プレゼンスを示すことができなかった経験を教訓とし、2000年に設立されました。海外で自然災害や難民などが発生した際、迅速で効果的な緊急人道支援活動を目的として、NGO、経済界、日本政府が共同する、それぞれの強みや資源を生かして連携できるプラットフォームです。外務省のODA資金による基金の設置や、民間からの寄付を通じて財政基盤の弱い日本のNGOを資金的にサポートすることも目指し、得意分野をもつ加盟NGO(2020年現在40以上)とともに支援活動を行っています。

事務局は20名強の職員を海外事業部、国内事業部、緊急対応部、渉外部、広報部、総務部に分割しています。海外支援は政府ODA資金が原資であり政府の支援金額確定を受けてJPFのプログラム計画策定という順序となります。しかし、国内災害支援は政府資金ではなく民間からの寄付が原資であり、支援金は日々ベースで積み上がっていき総額が定まらないため、緊急を要する支援はすぐに実施するものの、発災から1~2か月を経ないと支援事業の全体方針と実施計画策定ができない難しさがあります。さらに、災害支援は目の前の被害に即応するだけではなく、コミュニティーが再生する道筋への支援が肝要です。災害は種類の違いだけでなく、被災地それぞれ異なる顔をもっており、復興も地域の文脈にそっての実施が求められます。そして、地元や支援者間の情報共有、協力が再生への鍵となるため、支援計画も慎重かつ迅速に、そして柔軟に対応でききるものにしなければなりません。

◆2011年3月11日東日本大震災支援
JPFは海外支援に特化して活動をしていましたが、東日本大震災の惨事を機に本格的に国内災害支援を開始しました。加盟NGOによる緊急支援に加えて、地域が主体の復興の後押しとなるよう岩手・宮城・福島の支援団体(非営利団体・法人格有)を対象に公募による支援活動助成「共に生きる」ファンドを創設しました。
宮城、岩手、福島の3県に地域事務所を開設し、常駐スタッフを配置して現場の情報を収集します。私が配属された東京の事務局は助成団体間の情報交換、支援者や報道、事業実施団体への報告会、「共に生きる」ファンドの事業申請受付と審査、実施状況確認から事業終了報告のチェックまでを数名でこなしており毎日が戦争状態でした。2021年現在、東日本大震災支援は最終フェーズを実施してます。

2011年11月宮城県石巻市の瓦礫の山となった現状を確認に出張
2011年11月宮城県石巻市の瓦礫の山となった現状を確認に出張

◆2016年4月16日熊本地震
本震直後から加盟団体と職員が現地入りし、緊急支援しました。寄付金の規模がほぼ固まった10月から第2フェーズとして「復興期の仮設支援」、「地元主導の生活再建を支える人材育成」、「人材を支える基盤整備」を3本柱に、地元の人々が力を合わせて復興に向かう「地域力強化」を目指す事業を展開しました。
現地事務所は開設せずに、発災直後から連携調整にあたっていた熊本災害ボランティア団体ネットワーク(KVOAD)―2016年10月に特定非営利活動法人化)を核にして、熊本県および市町村、支援団体、社会福祉協議会、新聞社、大学、企業さらに地元メディアと協働、一丸となって支援活動をサポートしました。また、東京事務局は申請事業の審査と事業実施地訪問、熊本県・市への進捗状況報告に加えて、地域力強化を目的とする「熊本県の復興支援に従事する人材育成事業」、「他の支援事業地訪問によるピアラーニングツアー」を実施しました。2021年現在、当該事業は支援活動を修了し、支援実施報告書を作成しています。

NGO/NPOの国際支援の仕事とは

NGO/NPOは組織の成り立ち、活動分野、活動方法がそれぞれ異なります。私が仕事をした2団体を例にとっても、運動体としての視点から多くの人に参加を呼びかけ、息の長い支援活動を実施する日ユ協連と、災害に緊急に素早く人道支援を実施することが責務のJPFとでは支援への取り組み方が異なります。事業実施のための組織も各部署で横断的に仕事をくみ上げる日ユ協連と部毎の掌握範囲を基本として仕事をするJPF。それに伴う人事制度も日ユ協連は終身雇用、ボーナス、退職金があり離職率が低く、JPFは1年毎に雇用契約更新、ボーナス、退職金はなく離職率が比較的高いなどの違いがあります。一方で、似通ったところもあります。両団体とも職員数は20名前後。NGOの特徴としての類似点もあり、会員/加盟制度を採用、寄付金税額控除対象、活動資金は寄付者指定のプログラム別に管理、管理事務経費使用可枠は約20%程度、実施したプログラムは外部有識者による評価を実施などです。余談になりますが、両団体とも学歴、職歴の割に給料が低いので、職員の仕事への情熱と意気が頼りです。

無作為の作為的生き方

2021年9月現在、コロナ禍で大学生は入学したものの自宅待機とオンライン授業で、教授にも同級生にも会えず、アルバイトもままならず、実りの少ない日々を送っているようです。私が新入生だった1960年代半ばは、1960年の安保闘争後、再び学生運動が盛んだった頃で入学試験は機動隊に守られ、1967年4月の入学式は中止のうえ、入学早々と1968年春に2回のロックアウトがあり、低調なキャンパスライフを送りました。個人の努力ではどうにもならない大きな波にのまれることがあるのが人生なんでしょうね。
生来、「目標を設定し計画をたてて実行する」のとは正反対に、出たとこ勝負といいますか、降ってくる機会はえり好みせずまず乗っかってみるという性分の私は、仕事に必要な技術や資格も仕事についてからその都度取得するという生き方をしてきました。この統一性のない各種資格がプラスに働いたのか(アメリカ人の友人からは資格に一貫性がないから履歴書には記載しないことと注意されましたが、税務、ファイナンシャルプランナー、宅地建物取引主任者の資格は事業計画や事業実施の場面で多いに役に立ちました)、幸運にも知人・友人からのバックアップで、国際支援NGO2団体で仕事をすることがでました。辿り着いた仕事がやりたかったことだったことは無作為の作為の結果なのでしょうか……。

2019年3月、71歳でリタイア

熊本地震支援の終了が視野に入った2019年3月にジャパン・プラットフォームを71歳で退職し、伊豆熱川のリゾートマンションに転居。時間に追われない、頭は使わない、体は少し使うという、友人からは「人間最後まで目標を持ち、それに向かって日々努力をしなければいけない」との忠告を受けるもどこ吹く風、生産性ゼロで自由、ストレスフリーの生活を満喫しています。