濱田 真里(はまだ まり)

『なでしこ Voice』代表
株式会社ネオキャリア海外事業部編集ディレクター・『ABROADERS』編集長

濱田 真里
  • 1987 年宮崎県生まれの埼玉育ち
  • 2012 年早稲田大学教育学部社会科社会科学専修卒
  • 2011 年に世界で働く日本人女性のインタビューサイト『なでしこ Voice』を立ち上げ、これまでにインタビューした人数は700人以上
  • 大学卒業後は通信事業会社、編集事務所を経て、2013 年にアジアで働きたい日本人応援サイト『ABROADERS』を立ち上げる
  • 早稲田大学代議員。内閣府アジア・太平洋輝く女性の交流事業調査検討委員会委員
  • 「早稲田人物名鑑 2015」選出。早稲田大学外部講師。東京工業大学外部講師。マレーシア駐在を経て、2016 年10月からタイ拠点にて活動
  • <運営メディア> 

29 歳、まだまだ夢の途中

私の仕事は、海外で働く日本人の取材をすることです。2011 年に海外で働く日本人女性のインタビューサイト『なでしこVoice』、2013 年にアジアで働く起業家や現地で働く日本人のインタビューサイト『ABROADERS(アブローダーズ)』を立ち上げ、現在編集長としてマレーシアを拠点に発信活動をしています。
欲しい情報がない現状に当事者として悩み、それを解決するために大学時代に取材活動を始めました。その時に立ち上げた Web サイトを通じて、今では取材を仕事として行うことができてとても幸せです。また、アジアで最も大好きで、一番働きたいと思っていたマレーシアで働くことができて、日々充実しています。現在 29 歳の私は少しずつ夢を叶えていますが、まだまだ夢の途中。これからやりたいことや目指していることが山積みで、理想の自分と現状の自分のギャップに日々、「このままじゃいけない!もっと頑張らないと!!」と焦ることばかりです。
現在は1ヶ月に1度、海外で取材をしたり、日本に帰国してイベント開催や講演活動をしたりしています。そんな自己紹介をすると、「濱田さんはパワフルですね!」「昔からアクティブに色々活動していたのですか?」と言われることがあるのですが、全くそんなことはありません。むしろ今とは真逆で、私は自分自身の中高生の時を暗黒時代と名付けているくらいです。そんな私がどのようにして海外に興味を持つようになり、今に至ったのか、そしてこれからやりたいことについて綴らせていただきます。

自分を受け入れてくれる場所を探し続けた中学時代

中高時代、クラスでいじられキャラだった私は、真剣に話をしても「はまちゃんは天然だから」という前提で解釈されて、笑われるようなことがよくありました。自分が伝えたいことをちゃんと受け取ってもらいたいと悔しく思う一方で、自信をなくし、「私は人よりも要領が悪いから、人の倍頑張らないといけない」と思うように。好きなものを主張し、ブレない軸を持っている友人たちが眩しくて羨ましくてしょうがなかったです。特別仲の良い友人もいなかったので、放課後は図書館にこもって本を読む日々。家と学校と図書館の往復という狭い世界だったこの時期の思い出は、ほとんど残っていません。
そんな私にとって、大学進学は「クラスのなかの価値基準から抜け出す手段」でした。他の場所に行けば、ありのままの自分を受け入れてもらえるかもしれないと思ったのです。そして、見学に行った早稲田大学で衝撃を受けます。講堂の前で演説をしていたり外でリコーダーを吹いていたりと、思い思いの活動をしている学生を見て、「こんなに色んな人がいる場所だったら、私でも受け入れてもらえるかもしれない」と一目惚れ。クラスという多様性のない世界で自分を押し殺していた私にとって、希望の光が見えた瞬間でした。「ここに行こう!」と決意して、受験勉強を開始。高校2年生の夏の始まり頃でした。

自分を追い込んで初めて得た「自信」

しかし……受験結果はなんと惨敗。第一希望の早稲田大学はおろか、模試で合格判定が出ていた大学もほぼ落ち、自分の力不足に愕然としました。それでも、ここで諦めるわけにはいきませんでした。「私はもっとできるはず。このままだと、私は一生ここ止まりの努力しかできない人間になってしまう!」と強烈に自分の今後の人生に対する危機意識を持ち、両親に懇願して浪人をさせてもらうことに。そして翌年、念願の早稲田大学の合格通知を受け取ることができたのです。受験はその時の自分のコンディションや運もあり、努力してきたことが結果に必ずしも結びつくとは限りません。でも、目標にストイックに向かい、「やるだけやった」と思える状況まで自分を追い込んだ経験は、結果以上の「自信」を私に与えてくれました。
私が多様性にこだわって自分の環境を選ぶようになったのは、息苦しさしか感じなかった中高6年間があったからだと思います。だから海外で働く際も、大好きなアジアの中でも多国籍国家で、多様な民族が一緒に暮らしているマレーシアを真っ先に選びました。

人生を変えた一冊の本との出会い

早稲田大学には待ち望んでいた環境があり、私の世界は一気に色づき始めました。ありのままの私を受け入れて、ユニークな存在としておもしろがってくれたり、お互いの深い部分まで話すことができる友人たち。人生や哲学、宗教や恋愛など、たわいのないことを思う存分話せることに喜びを感じました。たくさんの素晴らしい出会いによって私は変化し、少しずつ自己表現できるように。まるで今まで押さえつけてきたものが爆発するような感覚で、毎日が楽しくてあっという間。「色んなことに挑戦したい!」という欲求が溢れ出し、何もしてこなかった今までの時間を取り戻すかのように、夢中になってサークルにバイトに課外活動にと、全力で動き回りました。
国内を中心に活動していた私に、ひとつの転機が訪れたのは大学2年生の秋でした。2年間続けた学園祭のスタッフ活動が終わり、そろそろ就職活動について考えようと思い始めた頃に、ふと手に取った1冊の本。それが、『マイクロソフトでは出会えなかった天職』という、発展途上国の子どもに教育機会を提供する NPO〈Room to Read〉を設立したジョン・ウッド氏が社会起業家になった経緯をつづった、私に海外へと目を向けさせるきっかけをくれた本だったのです。

当時私が考えていた進路は、「大学卒業後は国内の大手企業に就職し、良い人と結婚して出産をして、子どもの教育に力を入れる」というもの。社会のなかで「こうあるべき」と言われるようなレールをそのまま歩もうと考えていました。しかし、この本を読み進めるうちに、「あれ、本当にその人生でいいんだっけ?」と疑問を持つように。そして、彼のような社会起業家の著書を読めば読むほど、「私も海外で何かしてみたい、社会に貢献できるような仕事がしたい」と思うようになりました。

初めての一人旅で、世界一周へ

そこでまず私が始めたことは、実際に国際協力活動をしてみるために、カンボジアへ教師派遣をする NPO 団体への参加でした。この団体で勉強会や募金活動などをしたのですが、活動に関われば関わるほど生まれてくるのが、「本当に現地の人たちは不幸なの?」「本当に彼らは支援を求めているの?」という疑問。一度も現地に行ったことがない私には、どんな情報を見てもあまりリアリティが湧きません。これはもう自分の目で確かめるしかない。もし本当に将来海外で働きたいのであれば、時間がある大学生のうちに現地に行って現状を見て、働くための判断材料を集めたほうが良いのではないか。そう考えて1年間の休学を決意。そして、世界の現状を見るために 6 カ国でボランティアのワークショップに参加し、バックパッカーで計 22 カ国をまわりました。
あまりにも突然の行動だったので周囲は驚きましたが、海外に全く興味がなかったのに、海外初一人旅で世界一周をすることになるなんて、自分が一番ビックリしていたかもしれません。旅では、自分が知らなかったさまざまな生き方に触れ、人生に正しいも間違いもないと実感。この経験が、「多種多様な生き方を発信する」という、現在の私の活動軸に繋がっています。
世界一周から帰国後、私は日本で就職活動を開始しながらも、海外就職のリサーチを進めていきました。ところがいくらインターネットで調べても、知りたい情報が手に入りません。海外就職サイトを見つけても、「これ、大丈夫かな……?」と思うような少し怪しげなものも多く、なかなか一歩踏み出せずにいました。そして、「海外で働く日本人女性たちはどのようにキャリアを築いているのだろう?」「結婚や出産も考えたうえで、海外でどんな生き方をしているのだろう?」などの疑問を持ちながら就職活動を続けるなかで起きたのが、2011年3月11日の東日本大震災。これをきっかけに、「迷っていてもしょうがない。日本で仕事を見つけることが大変なのであれば、後悔しないように現地に行ってみよう」と、当時一番働きたいと思っていたカンボジアに1週間行きました。
しかし、実際に現地で働く人たちの話を聞いているうちに感じたのは、「今の自分の経験値やスキルだけでは、社会に対してインパクトを与える仕事はできない」ということ。そこでまずは力を付けようと、日本で働く決断をして帰国し、日系の通信事業会社に就職したのです。

『なでしこ Voice』の立ち上げ

就職が決まった直後、「私のように海外就職をしたくても、情報が見つけられずに困っている女性がいるはず」と考え、大学5年生の時にインタビューサイト『なでしこVoice』を2011年6月に設立。企画書作成や仲間集め、サイトを立ち上げから取材活動までを、「今やらないでいつやる!」とがむしゃらに行いました。大学時代最後の夏休みは、バックパックを背負ってアジア中をまわり、ひたすら現地で働く女性たちに出会う毎日。日によっては3人以上お会いして、ヘロヘロになって宿に帰り、化粧も落とさずに寝てしまうこともしばしば。そんな時に、Facebook を見ると流れてくる友人たちの最後の学生生活を楽しむ華やかな投稿を見て羨ましいと感じる一方、「この活動は、絶対に今後の私の糧になる!」という強い確信を持って黙々と続けました。この時の判断は正しかったと、今振り返っても思います。

私は今までの 29 年間の人生の中で、どうしても逃げ出してはいけない!と自分の中で強く思った時が何度かあります。それは大学受験だったり、なでしこ Voice の取材だったりと、私のターニングポイントを形作る何かです。乗り越えた時に初めて次のステージに上がれる。私はそう解釈して、目の前のことに取り組んでいます。なでしこVoice の活動は、今年で6年目に入りますが、立ち上げ当初からすべてボランティアベースで行っており、ライフワークとして一生続けていくつもりです。

山本美香さんとの出会いと別れ

会社で働き始めてからも『なでしこ Voice』の運営を続けていたのですが、半年ほど経った 2012 年8月、ジャーナリストである山本美香さんがシリアで凶弾に倒れるという事件が起きました。私は、彼女にとって最後となるインタビューを担当させていただいたのです。ジャーナリストとして凛とした眼差しで真摯に取材を続ける彼女の背中は、私にとって憧れそのもの。あまりにも突然の死にショックを受け、事件が起きたその日は、誰もいない会社の業務用エレベーターの前でうずくまって泣いたのを今でも鮮明に覚えています。
一方で彼女の死は、私自身が「やりたいこと」に向き合うきっかけを与えてくれました。「自分の命をかけてでも、やりたいことって何だろう?」と。日々考え続けて出した答えは、[多種多様な生き方を発信すること」。やりたいことがあるなら思い切って突き進もうと決意し、2013年3月に会社を退社。その時、私は25歳でした。そして「発信をする仕事」をするために編集事務所のアシスタントとして働き始めた半年後、現在所属している株式会社ネオキャリアの西澤社長からお声がけいただき、アジアで働く起業家や現地で働く日本人のインタビューサイト『ABROADERS』を立ち上げるに至ります。

海外で働く日本人女性の取材で学んだこと

取材を始めてからの6年間、現地で働く方たちの情報を集めるために、これまでアジア10カ国以上に足を運んできました。そして 2016 年 4 月からマレーシア、現在はタイにて勤務し、夢にまで見ていた海外就職を実現させることができたのですが、振り返って思うのは、「人生は自分がしたいようにデザインできる」ということ。もちろん、人生のなかではどうにもならないこともありますが、自分で選択できるものは必ず自分で選択しています。そんな一つひとつの選択で積み重ねられてきた今の自分が大好きですし、もっと好きになっていきたいと思っています。

そんな風に思えるようになったのは、海外で働く女性たちに背中を押されたからです。彼女たちはとてもポジティブで、強くてしなやかな自分軸をしっかりと持っていました。他人を羨むのではなく、幸せの基準は自分自身が決めて、それに則って選択をする。こうやって自分基準で生きることができれば、他人や環境に振り回されず幸せになれる。他人の人生を羨んでいる暇があったら、自分の人生に自信を持てるように努力する。そのことを、私は彼女たちの取材を通して教えてもらったのです。この活動を続けられている一番の理由は、私自身にとっての学びが大きいから。だから、どんな状況でも諦めずにしがみつくことができるのだと思います。これからも、世界で働く日本人の等身大の姿を追いかけ、“多様な生き方”を思い切り世の中に発信していきます!