木全 ミツ(きまた みつ)

NPO法人JKSK 元会長

木全 ミツ
  • 福岡県久留米市生、東京大学医学部(公衆衛生)卒
  • 労働省海外協力課長、労働大臣官房審議官、
  • 国連日本政府代表部公使(New York:外務省出向)
  • (株)イオンフォレスト(The Body Shop, Japan) 代表取締役社長(創業社長)
  • 他NPO 法人、財団法人・社団法人等の団体役員を
  • 多数務めている。

「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするように」

最後に私と家族の関係を紹介しよう。

特に私にということではなく、何気なく子どもたちに直言していたこの父の言葉が、小さいときから頭の隅に住み込み、気が付いたら座右の銘の一つとして、今日までの人生の基本姿勢となってきている。

「人のお世話にならぬよう」――どんな時代、どんな環境下におかれても、自分の2本の脚でしっかりと生きていける人間になれ、つまり、自立せよということだと思う。それは、自分の力とは関係のない所で、誰かに、何かによって人生の目標の梯子をはずされて生きていかねばならない、そんな哀れな人間にはなりたくない・・・という9歳の時の決意にもつながっていく。
「人のお世話をするように」――つまり、自分だけが自立し幸せな生活を送ることが出来るだけでは人間として生を受けて生まれてきた価値はない。同時に、自分以外の誰かのために役に立つ人間になれ・・・ということだと思った。
そのためには、
①健康でなくてはならない
②役に立つ、お世話が出来る能力、力(能力、知識、知恵、技術、など)
を身につけていなければならない
③その力を発揮するための問題の認識力、どう対応していったらいいか
具体的な企画力、そして、実行力等が必要ではないか
④同時に、どんな素晴らしい考え、企画であっても、それを推進して行くうえでは、
しっかりとした経済的なバックグラウンドが必要である。
まず、自らが経済力をもつこと。併せて、共感者、協力者への呼びかけ、
資金調達能力を身につけていること

今日まで、キープしてきた基本姿勢であった。

投げかけられたテーマ――夫の癌

夫が32歳、私が29歳、息子が2歳の時のこと、癌に侵されていた夫の命は数か月であると宣言された。近代医学のデータによると、「手術の成功率は5%、手術に成功した人の最長寿命は8年である」というものであった。
手術を終えた夫の言葉:「申し訳ないけれども、手術台の上で考えたことは、みっちゃんと直樹のことではなく、男32歳、この世の中に生まれてきて、社会のために何をなしてきたか、何にもしてきていない、このまま死ねるかといことだった」
それを聞いた私は「絶対に殺さない!殺すもんか!」という決意であった。術後、大量の放射線療法を受けて、ヘロヘロになっている夫に必要なことは、美味しい、栄養価の高いものをどんどん食べて。癌と放射線療法と闘う力を身に着けることであった。深夜になる前に出来るだけ早く役所を飛び出し、レンタカーを借りて、栄養のあるレバー、焼き鳥等を買い求め、病室で1人ベットに横たわっている夫の下に駆けつけ、食欲が全くないのは分かっているけれども、夫自身も自分の食欲とは関係なく「食べねばならない」という自覚があるので、出来るだけ楽しい話題を提供し、おしゃべりをしながら、どんどん食べてもらった。あれから50年、夫は81歳、今日でも元気に楽しい人生を送っている。

現代医学はデータで判断する。しかし、「病を治すのは、医療・医学・医師・治療の力は50%、本人が生きようとする、生きたいとするかどうかの決意、強い意志と努力、それに加えて、周囲が本人と一緒にどのような覚悟、行動で対応していくかが50%」であるという確信をもった体験であった。
今日までの50年間に、「もう人生は終わりです」「幾ばくも無い命・・のなかで」と癌の宣告を受け絶望感に打ちのまされた友人達からの連絡、相談をどれほど受けたか。私は、その度に、自信をもって自分の体験を話し、どれだけ多くの友人達が、生き方を変え、生き返っていったか分からないなどと言ったら、おかしいけれども、今でも。元気にしている友人達が沢山いる。

息子の進路について~それぞれの対応

「僕は、大学に行かないで、おばあちゃんの茶の湯の世界で使っている陶器をつくる職人になりたい。その為に、京都の窯元に弟子入りをしたい」大学進学を良しとしない高校生の息子からの相談であった。
母親は、このような場面では感情を露にしてキャンキャン言わず冷静な姿勢を保つこと、もし、母親としての意見が求められたら明確に発言をする準備をしておくことが重要であると自分に言い聞かせ、自らの発言は控えることにした。
父親は、静かに息子の説明に、相談内容に耳を傾け、全てを聞き終わった時「これは、とっても重要なお話なので、僕は、今、即答をする事は出来ない。申し訳ないけど、今晩、一晩、時間をくれないかな。そして、明日の夜、また、3人で話し合おう」「うん、わかった」ということになる。夫は、この件について「どう思う?」などという会話は求めてこなかった。私からの意見を言うこともしなかった。2人とも、夫々に考えようという意向であったのだと思う。

翌日の夜、再び3人での話し合いがもたれた。「僕は、君に謝らねばならない。君の意向について、何度も何度も自分に問いかけたが、どうしても、君が陶芸家として生涯生きていけるか、その才能があるだろうか、と問いかけてみたが、YESという答えが出てこない。ごめんなさい。君は普通の才能を持った普通の子だと思う。大学とは、特別の才能を持った者には不必要な存在、普通の人が学ぶ、普通の人にとって必要な存在であると思う。君は、普通の子、普通の人だと思う」「しかし、幸い、日本の大学は8年間在学出来ることになっている。そこで、提案だけど、とに角、大学に在学し、最初の4年間は休学し、京都の窯元で思う存分に修業し、その結果、その道で生きていけると確信出来たら続ければいい、しかし、やはり陶芸家では生きていけないと分かった時に、受け皿として大学在籍というものを持っておいてほしい。気の弱い情けない親だと思うかもしれないけど、僕が考えに考えた結論だ」「わかった」「では、どこの大学を受験するか決めよう」「いや、それは、自分で決めます」

ところが、数か月後のある日、帰宅した息子が「僕、医学部を受験します」「えッ!どうして、急に?」「**君は,癌に侵されていて、今、抗癌剤の治療の影響で、頭は丸坊主だし、寿命も幾ばくも無いと言われているんだ。夕べは、一晩、彼と話明かしたのだけれど、どうして、こんないいやつの命を今の医学・医療は救ってあげられないのか・・・君には間に合わないけれども、このような人が1人でも少なくなるよう自分が医者になると約束したんだ」と。
高3の時のことである。とても、時間的に間に合わない、しかし、ウイークディの早朝の勉強は母親の私が、そして、日曜日の7~8時間の勉強は父親が分担して頑張ろうと、親子の猛勉強の1年を過ごした。どんどんついてきた息子は、現役で医学部に入学した。

連載を終えるにあたって

誰でも、人それぞれに違いがあるかもしれないけれど、永い人生、いろんな問題に直面する。「どうして、私だけがこんな目に合わなきゃいけないんだろう」と悲しんだり、苦しんだりする時間、エネルギーがあったら、それをポジティブな方向に使ったら、人生は倍に生きられるのではないか。
決して、逃げないで、あらゆる問題を「これぞ、私の人生のひとこま」と考え生きてきた。それがいつの間にか習慣となったように実感している。

(完)