秋本 悠希(あきもと ゆき)

オペラ歌手・声楽家

秋本 悠希(あきもと ゆき)氏

尾道市出身。京都堀川音楽高等学校、東京藝術大学、同大学院修士課程を経て、同大学院後期博士課程修了。同大学より三菱地所賞、アカンサス賞等多数受賞。文化庁新進芸術家在外研修員としてロンドンの英国王立音楽院オペラ・ディプロマに入学、日本人初の卒業生となる。2020年世界屈指の音楽の殿堂であるウィグモアホールのリサイタルに出演し、英国デビュー。第17回コンセール・マロニエ21、リチャード・ルイス・アワード、英国音楽コンクールの全てで優勝。ワーグナーソサエティー国際コンクールファイナリスト。リーズ国際歌曲祭、NHK-FMリサイタル・ノヴァ、藝大メサイア、東急ジルベスターコンサート、オーケストラ・アンサンブル・金沢カウントダウンコンサート、東京交響楽団「第九」等に出演。オペラでは東京・春・音楽祭ワーグナーシリーズ「ラインの黄金」「ワルキューレ」「神々の黄昏」、NISSAY OPERA「ルサルカ」、小澤征爾音楽塾子どものためのオペラ「こうもり」、セイジ・オザワ松本フェスティバル子どものためのオペラ「フィガロの結婚」、金沢オペラ「滝の白糸」等に出演し、NHK交響楽団、読売交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団、東京交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団、オーケストラ・アンサンブル・金沢をはじめとする多くのオーケストラや指揮者と共演。歌唱・演技共に高く評価される、現在最も注目される歌手の一人。
2023年ユニバーサルミュージックよりデビューアルバム「ことのは ゆかし」をリリース。


ピアニストになろう

みなさんこんにちは。オペラ歌手の秋本悠希です。
オペラを分かりやすく説明すると、オーケストラの伴奏で歌手が歌いながら演技をする大がかりな音楽公演で、華やかな舞台セット、合唱、バレエ、衣装、ヘアメイクなど、あらゆる芸術の美を集結させた総合芸術と言われています。恋愛、神話、社会風刺などをテーマにしたストーリーが多く、今のようにテレビドラマや映画がなかった時代から、人々の娯楽として、また社交の場として親しまれてまきした。

そんな人々に夢を与えるオペラ歌手ですが、歌手としてそれで生活を成り立たせて行くには途方もない時間や努力やお金が必要です。子供の頃から毎日何時間も練習を続け、何十回も舞台経験を積み、ある程度の技術を得るのに10年はかかります。レッスンや音楽学校で勉強するには沢山のお金もかかり、人によっては沢山のコンクールやオーディションを受けて人と競いながら知名度を上げるチャンスを探します。才能、技術、人脈など様々な要素や運が重なった一部の人たちがプロになれますが、毎月毎週決まった時間に仕事があるわけではないので、月によっては全く収入が無いなんてこともあります。

こんなに大変な音楽の道は、私にとっても簡単とは言えない道のりでした。
私が音楽に興味を持ったきっかけは、母が趣味で習っていたピアノでした。「私も習いたい」と6歳の頃から家の近くのピアノ教室に通い始めました。その頃からどうやら私は負けず嫌いだったらしく、うまくひけないとレッスン中でも家でも悔しくて泣いたりして、優しいピアノの先生に励まされながらなんとか続けていました。やはりピアノが好きだったのです。小学校4年生くらいの時にピアノの先生から音楽大学の存在を教えてもらい、「じゃあ私は音楽大学に入ってピアニストになろう」と思いました。まさに小さい子が「ケーキが好きだからケーキ屋さんになりたい、花が好きだからお花屋さんになりたい」と言うのと同じ、とても単純な動機でした。

声楽へ転向、藝大へ

私の単純さは中学生になっても変わらず、中学校3年生の夏休みに「音大に行くなら、その前段階として音楽を専門的に学べる音楽高校に行こう」と思い、希望する音楽高校で教えていらっしゃるピアノの先生の所へ体験レッスンに行きました。すると私のピアノを聴いた先生から「あなたのレベルは他の人達に追いついていないから、もし高校に入れたとしてもついていくのが大変だと思う。声楽なら今から始めても将来的な可能性をみて入学させてくれるかもしれないから、声楽で受験するのはどうか」と提案されました。当時は内向的な性格で、人の顔を見て話すのも苦手だった私は歌うことも大嫌いだったので「歌は苦手なのでピアノで受験させてください」と言いました。それでも先生に「もし声楽科で入学したとしても、入学してからテストを受けてピアノ科に転科することもできる」とおっしゃっていただき、中学3年生の秋から声楽を始めました。
最初は好きとはほど遠いところから始めた声楽でしたが、素晴らしい先生との出会いもあり、どんどん歌うことへの魅力に取りつかれて行きました。上京して一人暮らしに憧れていたのと、尊敬する先生が教鞭を取っていらした環境で学びたかったので、大学受験先は東京藝術大学一本に絞りました。運よく現役で東京藝術大学に合格し、東京で新生活を始めました。学部時代に考えていたことは「いかに音楽で身を立てるか」。周りはうまい人ばかりでしたし、クラシック音楽一本で自分が身を立てられるとは思っていませんでしたが、何かしら音楽に関わる仕事がしたいと考えていました。学部の3年生の時に父が病で倒れ今までのように働けなくなってしまったので、アルバイトをしたり奨学金を貰ったりしながら勉強を続けました。学部在学中に地元で行われたオーディションで受賞し、初めてソリストとして出演料がいただけるコンサートに出演しました。自分の演奏を聴きに来てくださる方々がいることに感激し、「これからはどの本番でも一人一人の心に届けられるような演奏をするようにしよう」と思い、今でもその気持ちを持って歌い続けています。

助け、助けられ

プロとしての自覚を持ち始めてからしばらくして、東日本大震災が起こりました。色々な演奏会が中止になっただけではなく、国内でエンターテインメントを中心とした「自粛」が立て続けに起こりました。私の同級生や近しい人たちも多く震災の被害に遭い、「人が沢山亡くなって苦しんでいるのに自分は歌しか歌えないじゃないか」と無力な気持ちになりながらアヴェ・マリアを弾き語りしたのを覚えています。
その後、東京藝術大学大学院に進学した私は、コンクールやオーディションを経て段々と学外での仕事の機会が増えて行きました。大学院2年生の時に「東京・春・音楽祭」という大きな公演で世界的に活躍されている海外の指揮者やオペラ歌手の方々と共演し、その圧倒的な音楽や緊張感に包まれてこれまでにない興奮を味わいました。そして「いつかオペラを勉強するなら、オペラが生まれたヨーロッパでゼロから始めたい」とそれまで興味を持たなかった留学を志すことになりました。
その後、音楽的にも人間的にも素晴らしい先生との出会いがあり、イギリス・ロンドンの英国王立音楽院の受験を目指すことになった私でしたが、大学院の頃にあることがきっかけで、精神的に参ってしまった時期がありました。あの時は大学でレッスンを受けたり人前では笑顔で振舞っていましたが、部屋に帰ると一人で一晩中泣いているような非常に苦しい時期でした。日々の生活だけで精一杯だったので、留学に向けた勉強なんて、とてもできるような状態ではなく、そのまま約1年半の時間が流れました。よっぽど近しい間柄の人や当時お世話になっていたカウンセラーの先生以外にはその事実は話していませんでしたが、もしかしたらふと気が抜けたときに私の気持ちが表に出ていたのかもしれません、その時私が住んでいた学生寮でお世話になっていた方が励ましのメッセージが書かれたメモと食べ物を私の部屋のドアにかけていてくださいました。そして同時期に自分が参加していたオペラ公演でお世話になっていた方が「あなたはきっと将来活躍する歌手になる。これからも頑張って」と声をかけてくださいました。それまで「もう、あきらめてしまおうか」と思いつめていた私が、はじめて自分を見てくれている人たちがいたことに気が付き、未来に希望を持てた瞬間でした。
そんな方々のおかげでようやく立ち直ってきた頃に、自分を見守ってくださっていた方がご病気で入院されました。お見舞いにも行けず「歌しか歌えない自分に何ができるのだろう」と、再び音楽家である自分の無力さに落ち込みました。でもその方の為に自分が何ができるのかを考えた時、「歌には言葉がある。その人に私が伝えたいメッセージを、私の歌で届けよう」と思いました。励ましのメッセージが込められた沢山の日本語のポップス曲や歌謡曲をピアノで弾き語りし、それをビデオ撮影し、自分で字幕もつけてDVDを作りました。そしてその方にプレゼントしたのです。その方は病室で毎日そのDVDを流してくださっていたそうです。そして無事、ご退院されました。私はその時に歌や音楽の持つ力を実感しましたし、自分がひとりの歌い手として人の為に何ができるかについて、より考えるようになりました。また、それまでは外国語のクラシックの曲を中心に歌って来ましたが、母国語で歌われる歌詞のメッセージがいかに人々に届きやすいか、そして、ジャンル問わず名曲は沢山あると実感いたしました。

留学先でコロナ禍に

そして2018年の秋から、念願のイギリス留学が始まりました。予定より1年遅れましたが、自身の気持ちが安定してから勉強にも打ち込めたので、文化庁の在外研修生に選出され、また留学先の英国王立音楽院オペラ科の学費全額免除の特待生にも選出され、丸2年間の音楽にどっぷり浸かった留学生活が始まりました。英国王立音楽院の歌のレッスンは1週間のうち専属の先生2人によるレッスンが各1回ずつ、専属以外の歌手やピアノ伴奏の先生方によるレッスンが2、3回、イタリア語、フランス語、ドイツ語、ロシア語など母国語である英語以外のスペシャリストの先生方によるレッスンが3、4回あります。それに加え、演技の授業、エクササイズの授業、ステージコンバット(舞台上でのバトルシーン)の授業もありました。さらに年3回行われるオペラ定期公演や歌曲リサイタルにむけたレッスンもあり、非常に沢山の課題が常にあるのです。日本人の私は、原語で書かれた曲目を、先生や同級生たちとの授業のためにまず英語に翻訳し、その後作品の内容をより深く理解するために日本語に翻訳する必要があります。毎日寝る時間さえ削りながら、翻訳作業と新しい曲目の練習に明け暮れていました。
英国王立音楽院は世界中から優秀な若い音楽家たちが集まり切磋琢磨している環境でした。私のいたオペラ科もとてもインターナショナルでイギリスだけでなくアメリカ、ヨーロッパ、アジア、アフリカ諸国から学生たちが集まっていました。日本ではオペラ留学はイタリアやフランス、オーストリアなどのイメージが強いためか、音楽院オペラ科の純日本人は私が初めてでした。最初は同級生たちの話す早口のスラングが聞き取れませんでしたが、分からないときは「それなんて意味?」と聞くと皆が教えてくれて、自分も使っているうちに皆とのコミュニケーションが段々スムーズに取れるようになっていきましたし、親友と呼べる友達も何人も作ることができました。それでも音楽院は負けず嫌いな性格の人が多く、コンクール期間やオペラ公演の期間になるとそれまでフレンドリーだったのに「つーん」としたり、相手がその場にいるのに堂々と悪口を言うような人たちも何人かいました。私はこういうことがまさか欧米でもあると思っていなかったので驚きましたが、人間はどこの国の人でも善い人もいるし、そうでない人もいるのだという当たり前のことと、自分がある種の偏見を持っていたのだなと気付かされました。

恩師のイヴォンヌ先生と門下生の皆と(先生は上段左から3番目)(2019年)
恩師のイヴォンヌ先生と門下生の皆と(先生は上段左から3番目)(2019年)

英国王立音楽院での充実した時間はあっという間に過ぎ、2020年を迎えました。オペラ科での最後の公演で、私は主役を務めました。欧米の学校の1年間は秋から始まり夏で終わりますが、ちょうど最後の公演準備期間中にCovid-19(コロナウイルス)の波がイギリスに押し寄せました。当初はアジアから発生したウイルスということで、私が道を一人で歩いている時急に横に車やバイクが止まり、「アジア人は出て行け!」「コロナウイルス! 手を上げろ!」などと罵声を浴びたりしました。また、稽古中にもオペラの演出家が出演者全員を集めて「君たち、ウイルスにかかっていない? 大丈夫?」と聞いてきた時もなぜか唯一のアジア人の私を見ていたとか、今となると、馬鹿馬鹿しいエピソードばかりですが、その時は未知のウイルスに皆が怯えていました。オペラ公演は成功を収めましたが、公演終了の翌日から学院が閉鎖されました。ロンドンは食料品や薬局等への買い物と散歩以外の外出は、ほぼ不可能なロックダウンとなりました。
ロックダウンが始まってから音楽院の授業は全てパソコンの画面越しになり、学生寮からほとんど出ることもない日々が始まりました。寮の音楽練習室も使えなくなり、自室で練習するほかなくなりましたが、あっという間に苦情が来て部屋でも歌の練習が出来なくなってしまいました。それでも音楽院の授業はこれまでと変わらないペースで行われているので、次第に私の練習量は足りなくなってしまいました。ある日、ある先生のオンラインレッスンで「こんなんじゃレッスンにならないわ。今日はもう中止にしましょう」とレッスンをキャンセルされました。その後の、自分の専属のイヴォンヌ先生のオンラインレッスンを受けていた時に「ユキ、どうしたの? 元気がないみたい。ユキは思っていることが表情に出やすいから私には何でも分かるのよ」と笑顔で優しく言われ、そこで涙がどっと溢れてきてしまいました。「先生、私は歌手として活躍したいのに、まだ何も目標を達成できていない。コロナ過でろくに練習もできない。それに音楽家以外の自分自身の人生も充実させたいのに、なにもかも思うようにいかない。歌えない私は、これからどうしていけばいいのか分からない」と心の中を洗いざらい訴えたのです。すると先生は「私も若い頃に病気で全く歌えなくなってしまった時期があって、その時に自分が歌う以外で何ができるのか考えた。例えばセミナーを開催したり、教えたりね。ユキ、あなたは歌手である以前に、まず一人の女性であり人間なのよ。一人の人間であるあなたとして、何をしたいか考えてごらん」とおっしゃってくださいました。その時まで私は自分に音楽以外の道があるなんて考えたことも無かったので、先生のくださった言葉は青天の霹靂で「そうか、自分には歌以外にも沢山の可能性があるんだ」と気付くことができたのです。

恩師のイアン先生が私の帰国前に食事に連れて行ってくださいました(2020年)
恩師のイアン先生が私の帰国前に食事に連れて行ってくださいました(2020年)

私だから、できる

こうして震災、近しい人の入院、コロナ禍のたびに「歌手である自分には何ができるのか」と自分自身に問いかけて来たわけですが、これまでの経験を経て「歌手だから〇〇できない」ではなく「私だから〇〇できる」という考え方に切り替わっていきました。

ロイヤルアカデミーのオペラ公演にて(2020年)
ロイヤルアカデミーのオペラ公演にて(2020年)

2020年の夏にイギリス留学を終え帰国した私に待っていたのは日本国内でのコロナ禍。帰国後に決まっていた大きな公演の仕事は次々とキャンセルや延期になりました。ですが以前のようにそこまで悲観的になることもなく、「自分にできることを精一杯やろう、自分を助けてくれる人たちの為に歌で自分のメッセージを伝えよう」と日本語の唱歌や昔から親しまれてきたポップス曲などを中心に、自分の演奏に歌詞の字幕を付けた動画をYouTubeに公開し始めました。しばらく続けているうちに沢山の視聴者の方々に見つけていただけるようになり、その方々から寄せられる温かい応援のメッセージに元気を貰い、曲にまつわる人々の思い出話を聞くにつれ、音楽や歌詞がいかに人々の記憶に結びつき、時に人を力付ける素晴らしいエネルギーを持っているのかを気付くことができました。

そして、自分を応援してくださっている沢山の方々からの温かい御支援をいただき、2022年にクラウドファンディングで資金を集め、2023年に自身初の日本歌曲や唱歌を集めたCDを制作し、発売記念リサイタルも開催していただきました。クラウドファンディングの準備期間からリサイタルの終了まで、本当に沢山の方々のお力添えをいただき、私は常に感謝の気持ちでいっぱいでした。
生まれてから現在まで、音楽を通して私は沢山の経験をしてきました。それは決して楽しい良い思い出ばかりではありませんでしたし、回り道も幾度となくして来たと思います。ですが、今私がこうして一人の歌手として活動できているのは「あの時あのタイミングで自分がその道を選択し、あの人たちに出会い、励まされてきたから」だと思っています。同時に自分は出会う人々や運にとても恵まれていると思います。音楽や人生への向き合い方もそれらの経験を通して変化していて、学部生の頃は「自身の生活の為」、院生の頃は「自身のキャリアの為」でしたが、現在は「自分や自分の歌を聴いてくれる方を幸せにする為」と移り変わっています。いつか歌が歌えなくなっても、私は自分や自分を大切にしてくれる人たちのために自分が出来ることをして生きていきたいと思っています。

「Yuki Akimoto うたうひと悠希」
一昨年から公私共に大変お世話になっている石川県の方々が1月の地震で震災被害に遭われているのに心を痛め、私のYouTubeチャンネルを通じて「うたのおくりもの」というタイトルで、有志の音楽家で復興支援オンラインコンサートを今年の3月上旬頃に公開する予定です。コンサートの動画に視聴者の方々からスーパーサンクス&スーパーチャットというYouTube上での投げ銭をしていただき、年内に集まった全額を(手数料を除く)石川県公認の募金窓口に募金する試みです。コロナ過で何もできない…と悩んでいた私でしたが、今はそうではなく、「自分に出来ることで皆を幸せにできたら」という思いで1月6日にこの企画を立ち上げました。女性百名山をお読みいただいた方々にもこのプロジェクトを知っていただけると嬉しいなと思います。

「令和6年能登半島地震復興支援オンラインチャリティーコンサート
You-Tube『うたのおくりもの』」へ