森 智子(もり ともこ)

株式会社森のともだち農園 代表取締役

森 智子(もり ともこ)氏
  • 1963年(昭和38年)生まれ
  • 愛媛大学農学部大学院 卒業
  • 株式会社森のともだち農園 代表取締役
  • 愛媛県農業指導士
  • 地域特産品マイスター(マコモタケ)
  • 愛媛県在住

農業で故郷に居場所をつくろう

「あなたは、しっかりと勉強をして、いい大学に行っていい会社に就職して。お母さんみたいにこんな田舎で暮らさなくてもいいように、しっかり頑張りなさいよ」ある母親が中学生の息子に言った。
当時、20代の私は、学生時代を終えて故郷の愛媛の山里で家業を手伝いながら、学習塾をしていた。今でも忘れられないそのひと言は、塾の授業を終えた我が子を迎えに来た母親の言葉だった。
私はこの言葉に衝撃を受けた。大切な我が子に、勉強した後は地元へ帰って来いと言えないなんて、何ということだろう。高齢化少子化が進む過疎の町には、若者が帰ってきた時に、働く場所もなかなかない。故郷で就職し、結婚して子育てをしたりしながらずっと住み続けたいと思わせるほどの魅力がないということなのか。やはりその原因の最たるものは、働く場所がないということではないだろうか。
なんとか、子どものうちから自分が住む地域を体感し、その魅力に気づき、故郷に誇りを持てるようになってほしい。そのためにもなんとか子どもたちに町を体感する機会を作りたい。できれば働く場所を作りたい。私はそう強く思うようになった。だからといって、若い私がどこかの企業を誘致するなど考えもつかなかった。しかし、農業ならば比較的無理せずに始められるのではないかと考えた。若い世代はほとんどが何か現金収入を得ることができる本業を持ち、休みの日は自分の家の田畑を耕していた。当時私は親が起業した建設業の事務をしながら学習塾をしていたが、私が子どもの頃は、我が家も椎茸を栽培する兼業農家であった。田舎に住む人にとっては農業は身近に感じるものなのだ。

名産品としてマコモタケ栽培を始めたものの

農業のことを考え始めた30歳頃、町営の直販所ができることになった。それにあたって何か売りになる特産品を作ろうと地元の機運が高まった。ダム湖畔の山里の風土を活かした特産品はないものか……。ここ、愛媛県今治市玉川町龍岡地区と風土が似ている土地へ視察に行くことになった。ちょうど父が地元の地域活性化推進委員の世話人でもあり、委員たちで長野へ出かけることになった。長野の人たちと交流し、導入を決めてきたのが、ブルーベリーとマコモタケ、そしてウドであった。ブルーベリーは柑橘のように重くなく収穫が楽で高齢者や女性にも作業が適していること、マコモタケは西日本ではまだどこも産地化に乗り出してないことなどの理由で導入を決めた。ウドは風土に合うと始めたが、ゴールデンウイーク頃のわずかな期間しか収穫できず、収量が見込めないため、植えてはみたが特産品として育てることは早々にあきらめた。3品種のうち、マコモタケを重点的に育てていこうということになった。平成16年のことであった。
以来、マコモタケの栽培と普及に取り組んできた。マコモタケは中国野菜のため、龍岡地区ということも併せて「フレッシュドラゴン」という小さな生産者組合を作った。中国野菜を栽培して、中国野菜に特化した直販所にしてはどうかと他の中国野菜も栽培を始めた。しかし、販売先がなかなかなく、足並みが乱れはじめた。マコモタケも同じである。「西日本で初めて!」を謳うのはいいが、初めてで珍しいということは、言い換えれば知名度がないということだとすぐ痛感した。マコモタケはイネ科の植物で、休耕田を利用して稲を育てるように栽培するので、地元の人たちは栽培にかけてはベテランだ。初めてなのにうまくいった。しかし問題は販売である。直販所に並んでも、どこをどうして食べるのかが全くわからない。ネギのように見えるがネギでもない……、トウモロコシかと思ってもトウモロコシでもない……食べられるところがどこかもわからない状態なのである。そんなものが売れるわけもなく、直販所に並んでも、珍しくて手には取るが、買うところまでいかなかった。栽培は得意でも、販売には全くの素人な組合のメンバー。そこで私は困っている父を見かねて、その組合の1番の若者として入会し、PRや販売をする役をすることになった。しかし、そういう私も販売など全くわからない素人である。右も左もわからない時、ある社長さんがアドバイスをくださった。「森さん、何でもいいから1番になれ。マコモタケのことなら他の誰にも負けないという人になれ!」と言われたのが忘れられない。

マコモタケの可食部はこんな感じ
マコモタケの可食部はこんな感じ

子どもたちに食べてもらおう!

マコモタケは9月の下旬から11月の霜が降りるまで旬の短い野菜。暑い夏が終わり、稲が大きくなって背丈が2メートルほどになったマコモ。気温が25度を切るとマコモの茎のところが膨らみ始め、その膨らんだところが「マコモタケ」と呼ばれ可食部となるのである。「今年も収穫が始まりました」と言い始めると、猛烈に採れて待ったなし。でも、気温が下がるとばったりと採れなくなる。そんな状況なので、テレビなどの取材が入っても、編集している間に早生の品種が終わり、テレビ放映される頃には、晩生が少しあるくらいで大量注文に応じられず……という状態を何年も繰り返しているのである。なんとか保存ができないかと思っても、冷凍などはできないし、乾燥しても「かんぴょう」のようになるとマコモタケのウリであるシャキシャキの食感が楽しめなくなってしまうのだ。
また直販所にありがちな生産者の競争による値崩れを避けようと1本の売価を決めていた。するとやはり大きなものから売れていき、小さい物しか作れないメンバーは売れ残って面白くない。作ってもなかなか売れないと、メンバーのモチベーションも下がっていき、栽培をやめるものも出てくる。生産者が減り、量が採れなくなると産地化が進まない。産地となるには、ある程度の収穫量が必要だ。なんとかメンバーをまとめて、次々と出てくる難問をクリアしていかねばならない。ひとりで事業をするのとは違い、熱量の違いを調整しながら同じ方向を向かせることは、至難の業だった。どうすれば小さいものも売れるのか……私は考えた。そこで思いついたのが、マコモタケを給食で使ってもらうということだった。学校給食は葉つきの立派なものでなくても、皮を剥いたり不要なところを切り落としたりして、可食部だけのキロ数を栄養士が計算し、洗浄されカットされて調理されるのだ。マコモタケは皮をむいてもほとんどアクもでなくて、すぐに黒くならない。こちらがひと皮剥くという手間を加えれば栄養士さんも計算もしやすくて、使いやすくなる。業務用での扱いが簡単になれば、一挙に使用頻度が増えるのではないかと考えた。皮がないとゴミの量も少なくなり、これからの時代にも合っている。それに、子どもの頃からマコモタケを食べていると、その子どもたちが大人になり、家庭をもった時にも当たり前にマコモタケを調理し食卓に並ぶようになるのではないかと。ずいぶんと長期計画ではあるが、ファンづくりもできて一石二鳥だ。
早速私は給食センターに足を運んだ。しかし使い方、料理方法、メニューを思いつかないということであった。頼み込むと、私がレシピを作れば、使ってみないこともないとのお返事をいただくことができ、その時からいろいろなレシピ作りが始まった。マコモタケは、もともと東南アジア原産の野菜で中華料理ではなじみが深い。栽培して料理してみると、案外和食や洋食にも使えることがわかった。食物繊維やカリウムを多く含むヘルシー野菜だ。マコモタケは歯ごたえのよさがウリで、カットの方法によって異なる食感を楽しめた。アスパラとタケノコの中間の食感。特に強烈な味はないが、かじるとほんのり甘い。なかなか口では説明がしがたいが、1度食べたら美味しさがわかる野菜なのである。マコモタケだけでは主役にはなれない。だが、肉や魚、何かと組み合わせると何とでも相性がよく、相手を引き立てられる名わき役だということも魅力で、それを打ち出せるメニューはないかと考えた。
まずは天ぷら。この食感と味は他の物にはない味だ。1度食べたらやみつきになることまちがいなしだ。かき揚げもいい。旬が秋のため、秋の炊き込みご飯に入れるのもいい。まずは、作りやすくわかりやすいメニューを提案することにした。するとその年からすぐに導入され、子どもたちにも人気で、その後、町が合併して市になった後も、市内全域で使われるようになった。マコモタケは、創作料理に向いているため、地産地消の波にのって、サラダ、マリネ、餃子や春巻き、チャーハン、はたまた揚げ出しマコモまで登場。先生方もなれてきて、今では調理場ごとにいろいろなメニューが増えていってありがたい。

まこも料理の数々
まこも料理の数々

地域のよさを発信する「森のともだち農園」

しかしその間にも、地域はどんどん高齢化して、農業に携われる人も減っていく。生産者組合だけの活動では限界があった。私はあの町へ行けば楽しそうな人たちがいる、美味しいものがある、ぜひ行って見たいと思えるような、小さくてもキラリと光る魅力ある場を作りたかった。ただブルーベリーやマコモタケを栽培するだけではなく、子どもの頃から育ってきた自分の周りの豊かな自然を活かしながら地域のよさを発信できるところ、それを体感できる場を作りたかった。それで農園を立ち上げた。そして法人化した。名前を付ける段になって、私は「森」という姓だが、「森農園」では違うと考えた。自分のものだけでなく、他のメンバーの物もPRしたり売ったりしていきたいと「森のともだち農園」と名付けることにした。今はいろいろとおもしろい名の農園も全国にできているが、当時は珍しくてよく名前の由来を聞かれた。
その後は、ピクルスやキムチ、漬物、メンマ……。地元の蒲鉾屋さんに頼んでマコモタケを入れた天ぷら、じゃこ天なども作ってもらって販売したり、餃子製造会社とコラボして冷凍餃子に挑戦したり、いろいろとチャレンジしてきた。始めたころは、農業の六次産業化や、農商工連携などという言葉もまだ言われてなかったが、少ししてそういう言葉も世の中で使われるようになった。
こんなお店で使ってほしいと思うお店があれば、1店1店足を運んで調理長さんに提案して回った。すぐにすんなりとは耳を貸してくださらなかったが、何度も何度も足を運んだ。愛媛から東京から、場所はいろいろだった。それらの経験で、一流の料理人さんたちのいろいろな考え方や工夫、そしてご苦労がわかるようになった。ある時、料理長さんが私に尋ねられた。「森さん、農家の人って、どうして自分たちが勝手に好きなもの作って、使え使えと持ってくるの? 何故僕たちがほしいものを作らないの?」と。その言葉は、私にとって目から鱗だった。ニーズについてなど、まるで考えてないことに気づかされた。世の中にはいろいろな発想があり、それぞれの立場からものごとをとらえることが、どれだけ大切なのかを痛感した。そして、お互いの信頼関係がなによりも大切だと改めて知った。何の仕事をしても、お互いの信頼関係がなければ、いい仕事はできないし、いい結果も出ない。世の中から一流だと言われる人や流行っているお店には、値段で取引先を変えるような方はいなかった。
私にとって、マコモタケの栽培イコール特産品づくりの道だ。特産品づくりは、ひとり勝ちはできない。自分だけ勝つ、よくなろうというような発想ではうまくいかない。そのことが私にいろいろなことを教えてくれた。やがては私も特産品を自分が頑張って育てることよりも、それが「みんなのものになっていく」ことにこそ価値を見出すようになっていった。

好きな地域でやり続ける、生き続ける

私はここが好きだ。ただただここ(自分が住んでいる地域)が好きなのだ。そこで暮らす人が好き。そして仕事が好きだ。仕事があったからこそ、還暦を迎えたこの歳までなんとかやってこられたのだと思う。自分が難病になってしまった時も、我が子が重い障害を負ってしまった時も。そして2人の子どもを亡くした時も。夫がくも膜下で倒れてしまった時も。この地と、周りの人と仕事が私を支えてくれた。特産品づくりは、衰退する自分の住む地域を「あきらめない」というひとつのアクションだ。私は自分の地域も、自分の人生も、まだまだあきらめたくない。あきらめてしまったらそこで終わり。特産品づくりに取り組み始めた時に、私にマコモタケで1番になれというアドバイスをくだった社長のおかげで、私は各農産物に対して全国に1人だけという特産品マイスター制度で「マコモタケマイスター」になった。その話をした時に、その社長さんに私は尋ねた「成功ってなんでしょう? たくさんの売上や収益をあげることですか? どうなれば成功したと言えるんですか?」と、するとその社長は私に言われた。「成功とはそれぞれに違っていて、はっきりとは僕にもわからない。ただ1つわかっているのは、やり続けることだ。やり続けている間は、少なくとも失敗ではない。すべて成功へとつながる道だ」と。
余命宣告を受けたり、5年前に両肺移植をしたりしたが、運や奇跡に恵まれて今日生きている私。命ある最後の1日まで、私は生き続けたい。仕事もし続けたい。あきらめずに生きたい。ただただここが好きで、肩書がなくてもできることをひたすらやり続けてきた60年。チャレンジし続けようと思う。自分自身もそして人としてさせていただいた仕事も。みんなのものになっていくまで。

マコモタケと共に
マコモタケと共に