小野寺 純子(おのでら すみこ)

日本フィンランドデザイン協会 副理事長

小野寺 純子(おのでら すみこ)氏

1973年 跡見学園女子大学 美学美術史学科卒業
1976年 University of British Colombia (カナダ)留学
1979年 株式会社GKデザイン機構 入社

現在 日本フィンランドデザイン協会 副理事長
株式会社GKデザイン機構 社友
経済同友会 会員
NPO法人 小笠原流・小笠原教場 監事


これまでの“仕事魔”だった生活に、お世話になってきた株式会社GKデザイン機構(以下GK)を2021年6月に定年退職するということでピリオドを打った。GKの創業者であり、デザイン界のパイオニアとしてカリスマであった栄久庵憲司(えくあん・けんじ)氏の秘書として、側近として、貴重な経験を重ねた私の大事な42年間であった。「デザイン」という人間に寄り添うことを本質とする職域で、一人の偉大な人物と共に歩んだ私の人生は彩(いろどり)鮮やかな、しかもユニークで面白い道のりだった。今は、この軌跡にあらためて感動し、感謝の気持ちでいっぱいである。時代が音を立てて変わろうとしている現在のタイミングで、私は静かな気持ちでこれまでの時の流れに自分の来し方を辿り、そしてこれからの未来を笑顔で思い浮かべてみたい。

海外との縁で広がるキャリア

私はなぜか小さいころから海外に憧れていた。小学校の時は、大人になったら外国に行こうと夢想する少女であった。そして、大学4年生の時にその機会がやってきた。それは、ある旅行代理店の、大学生を対象とする夏休み40日間の北米横断ツアーだった。スタート地点がサンフランシスコ、終点がニューヨーク。決まっているのはそれだけで、その間の北米大陸横断の旅程は自分で好きなようにプログラムして旅行をするものだ。私は、サンフランシスコから始まり、ポートランド、シアトル、バンクーバー、バンフ&ジャスパー、カルガリー、トロント、ケベック、ボストン、そして母の友人が住んでいたニューヨークが最終という道のりを組んだ。女子学生たった一人の、宿泊先を各都市の大学の寮、交通手段はグレイハウンドバスという、冒険の旅だった。両親は反対するどころか、笑顔で送り出してくれたことが嬉しかった。この一人旅が、もちろん刺激的な経験となったことは言うまでもない。私が社会に出て働くようになってからも、この旅の経験が原点となって私を支えてくれた。

大学を卒業してすぐ、ある雑誌で見たフランスの香水の広告が私の目を引き付け、この広告を出している会社で働きたいとドアをノックした。丸の内に会社を構えるフランス人ご夫妻の経営する高級ブランドを扱う貿易会社で、総務部長の秘書として働いた。扱う商品の全てが美しく、私なりの美の基準、高級品の基準が自分に内包されたきっかけとなった。フランス語や英語が飛び交うなかで働くうちに、私も英語をブラッシュアップしたいと思うようになり、その会社を辞めて、カナダのブリティッシュコロンビア大学に一年間留学した。なぜこの大学を選んだのかというと、前述した学生時代の旅で訪れたバンクーバーで、この大学の寮に泊まったときの印象が非常によかったからだ。キャンパスがすばらしく、かつて経験したことのない夢のような環境だった。自然そのままで、多くの樹林に囲まれ、海にも接していた。そこはヌーディストビーチとして有名だった。とにかくこの大学に戻りたいという思いがあった。一年間の留学で、海外から集まるさまざまな国の人々との出会い、初めての海外での生活や出来事など、私に新たな世界観を与えてくれる物語となった。

バンクーバーのUniversity of British Columbia 
 バンクーバーのUniversity of British Columbia 

帰国後の1978年、ご縁があって外務省の外郭団体であった国際交流基金の受入課でお手伝いをさせていただいた。海外から招聘された学者の方々のお世話役である。空港への出迎えや東京での部屋探しから、原稿の清書など、ありとあらゆる事に携れたことは、さらに私の視野を広げてくれた。その仕事を終えて一段落したころに、友人の紹介で、電通の開発事業局で契約社員として国際スポーツイベントのプロジェクトに携わることになった。その当時扱っていたプロジェクトは、植村直己さんの世界初の「犬ぞり単独北極点到達」プロジェクト、FIFA国際サッカー試合、ロートレックの展覧会など多岐にわたり、その場にいるだけで興奮するようだった。私が直接担当したのは、国際プロテニス競技会「セイコーワールドスーパーテニス」の運営だった。そこを拠点にプロスポーツの競技会の組み立てから実施、選手の受け入れ、プログラムの製作など運営に関する一通りを経験できたことは貴重だった。それ以来、私は国際スポーツの虜になったのだ。この思いは、1994年の米国ロスアンゼルスで開催されたFIFAワールドカップサッカーの決勝戦を実際に会場で観戦できたことで拍車がかかった。ローズボールの会場を使っての試合だったが、隣のゴルフ場をこの試合のためにすべて駐車場に変更したダイナミックさには、さすが米国と驚いた。その後、1996年の米国アトランタオリンピック、2008年の中国北京オリンピックの開会式に仕事で参加できたことは幸運だった。200か国近くの国々のアスリートはじめ関係者、そして観客の人々が一同に会する開会式は、世界の平和を祈る気持ちにさせる特別のものだった。それらを五感で感じた貴重な体験は、2019年のラグビーワールドカップ、2020東京オリンピック・パラリンピックでの私のボランティア活動に繋がっている。
このように、20代に仕事をする中でジャンルを問わないさまざまな場でさまざまな人々と出会い、素晴らしい経験を重ねてこられたことは、私にとって大変に意義深いものだった。そしてそれらの全ては、次に始まる私の本当の意味でキャリアと言える仕事への序奏曲だったと今になって思う。

2019ラグビーワールドカップ ボランティア
2019ラグビーワールドカップでのボランティア

GKデザイングループの世界へ

1979年、GKインダストリアルデザイン研究所(現・GKデザイン機構)を、建築家の丹下健三先生の秘書の友人から紹介された。当時の私は「GK」がデザイン界ですでに一時代を築き上げた有名な会社とも、工業デザインの世界でカリスマであった栄久庵憲司(えくあん・けんじ)氏(以下栄久庵会長)のことも知らずに、何の躊躇もなく入社した。デザイナーが9割を占めるという社内の環境も恐れず、スタッフ系の一人として会社の自由な風土に慣れるのに時間はかからなかった。
入社時の秘書から始まり、経験を重ねながら部長、取締役、最後は顧問というタイトルをいただいたが、一貫して栄久庵会長の側近としての役割は変わらず、42年間を無事に終えることができたことと、多くの学びを得たことに感謝している。それは偏に、会長の仏教を基本においた人間を見る深い心根、平等感、楽観主義、それらに加えデザイナー本来の創造力の逞しさ、そして常に驚くようなアイデアを生み出し続ける姿に接してきたおかげだと思っている。

GKデザイン機構は、2023年に創立七十周年を迎える老舗の総合デザインコンサルタント企業だ。米国、オランダ、中国に支社がある。戦後十年も満たない1952年に東京芸術大学の学生たちが小池岩太郎助教授を中心に設立し、Group of KoikeからGKという社名になった。キッコーマン醤油卓上瓶からヤマハのオートバイ、秋田新幹線「こまち」、JR東日本等の公共交通車両、日本航空の機内シート、各地域のまちづくりやサインはじめ、人々が日常生活で使っている家具や家電、コンビニで売られているジュースのパッケージやグラフィック、国内での万博やオリンピックなど多領域にわたるデザインを手掛けている。その理念は、デザインを理解していただくための活動としての「運動」、デザインをすることで社会に貢献することとしての「事業」、デザインを普遍化するための活動としての「学問」を3つの翼として回転させ創造活動を行うことを根底に、社会にそして人々に役にたつことを主眼としている。

『GKの世界ーインダストリアルデザインの発想と展開』(1983年/講談社)
『GKの世界ーインダストリアルデザインの発想と展開』(1983年/講談社)

栄久庵会長のモノづくりに対する哲学はどこから生まれてきたのか。それは、生い立ちに見られる。実家が広島の浄土宗のお寺で、父親は開教師としての僧侶だった。0歳から七年間、ハワイで過ごし幼児期にアメリカ文化に触れた。帰国してからしばらくして海軍兵学校七十八期に入校。入校半年で広島の原爆投下で終戦となり、父親と妹のひとりを亡くした。広島の惨澹たる不気味な街の光景を目の当りにし、「凄惨な無」としての情景が記憶された。被爆し失われた多くの命、すべての人工物は破壊され、残骸が虚空を埋め尽くしたなかで、道具の数々があげる「助けてほしい」といううめき声に耳を傾けて、それらすべてを救うことが自分の生きる道、「デザイン」だと決意したのである。長男がお寺を継がなくてはならないという当時の常識から離れ、いや、自分は物の世界を救うのだという決意に至った。「仏様の心を、デザインを通じて人々に伝えます」という言葉を檀家の方々に伝え、デザインの道を選んだのだ。後に、私はその決意を知り、会長の「デザイン」の原点を、人間が生きることと同義的意味をもつ哲学だということを見た思いがした。

Design for the World 設立に向かって

携わったプロジェクトの中で、国際的に30年以上の時を紡いで「Design for the World」(以下DW)という国際団体を創設したことは私のキャリアの上で重要なものになった。地球環境、高齢化、福祉、自然災害、医療、教育などの多くの課題を「デザイン」で解決するためには、国際的なデザイン組織で立ち向かうことが必要だと考え、栄久庵会長が東奔西走したプロジェクトである。

Design for the World
Design for the Worldの一場面

この時すでに、今でいうSDG’sが根底にあったように思う。私は台北、トロント、シドニーそしてバルセロナでの会議等に随行し、二年に一度の総会で必ずお会いする会員、理事の方々とのコミュニケーションに注力した。また、海外では多くの会合の調整も任せられた。栄久庵会長はジュネーブの国連高等弁務官事務所の緒方貞子様を訪問し、難民対策での指導をいただいたこともあった。国連デザインイヤー、国連デザインディケード(デザイン開発十か年計画)の実現を通じて、さまざまな活動を目指した。国境なき医師団からの、辺地の医療施設のデザインの要請等もあった。それまでのデザインの概念に新しい役割が加えられたことは、デザインの新たな大きな進歩でもあったと思う。二年に一度、様々な国々で各国の同じメンバーと再会することは、一つの目標を共に目指す同志ならではの信頼感と親しさが加わり、そこに絆が生れることに感動を覚えた。共通の目的を成功に導くために取り組む場合、個々人の背景となる文化や考え方、常識が異なるので、なかなか意見がまとまらない。どう共通項を見つけていくのかが会議の醍醐味だった。デザイナーという専門職の方々ばかりだったので、それなりのこだわりがあり一筋縄ではいかなかったことは言うまでもない。しかし、いつも栄久庵会長は会議の中心人物であり、何か難しい問題になると理事の方々からすぐ「Kenjiはどう思いますか?」と助けを求められた。彼らが期待していたのは、西洋の論理的な解決法ではなく、人間味あふれる仏教思想にもとづいた賢者の発言であった。その場に居合わせた私としても何回となく、その巧みな発言を拝聴し、並外れた深い理解力とすべてを包み込むような発想法に驚かされることが多かった。

「道具寺道具村構想」で山籠修行を支える

もう一つ印象深いものは、自身の晩年に、85歳の人生をかけて作り上げたデザイン思想に基づいた、「道具寺道具村構想」である。人間が自然と共生しながら、モノも道具も人々もみな、生き生きと生活することができる村づくりである。「モノづくり」を通して、「人格」を高め、「物格」を育んでいく場として未来への提案をしたものだった。この構想の実現にあたり、これが正しいことなのかどうかを確かめる意味で、栄久庵会長は和歌山県白浜の山林で一週間かけての山籠修行を行った。自然そのままの環境で、執務空間、寝室、水回り等々、すべての設備は会長のデザインでGKデザイングループが製作した。

栄久庵会長が籠る道具庵
栄久庵会長が籠る道具庵

私を含め3名のスタップが常駐した。男性2名は近くにテントを張って、日々の生活のお世話役。私は旅館で用意していただく食事を日に三度、山林の中の会長の居場所まで届ける役割を担当した。樹木に囲まれた自然環境の中で、一週間、「道具寺道具村構想」の実現という目的で、日々を共に過ごせたことは、我々スタッフそれぞれの人生においても貴重な修行の経験だった。人間と道具との関係を一貫して深く考え続け、モノの心と人の心の新しいつながり方を開発することでモノの世界を知り、人の心の深さを知る。デザインを人々のためのものとして深く掘り下げていくことで、人間の神髄にも触れることを教えられた。私の「デザイン人生」というキャリアは、これからも続いていくことだろう。
現在、私は会長が20年前に設立した日本フィンランドデザイン協会の副理事長として、デザインを通じて両国の交流のための活動に従事している。

私の序奏曲と交響曲の一部を語らせいただいたが、結びの曲としては「感謝」というタイトルだけが決まっている。キャリアとして振り返っての42年間で私が栄久庵会長をはじめGKという創造集団、そして関係者の方々から受け取った恩恵と学びは膨大なものである。その恩返しという意味でも少しずつ社会に、そして人々にお役に立てるように日々尽くしていきたい。これから私の歩む道が人生の結びとして相応しい曲になることを心から願ってやまない。     

2014年、第23回コンパッソドーロ国際貢献賞受賞。
2014年、第23回コンパッソドーロ国際貢献賞受賞。
栄久庵会長(中央)を囲んで(左が筆者)。ミラノの授賞式会場にて。

*コンパッソドーロ賞:1954年に創設の欧州で最も古く影響力のある国際デザイン賞。イタリアのインダストリアルデザイン協会(ADI)および ADI基金が主催する。