木全 ミツ(きまた みつ)

NPO法人JKSK 元会長

木全 ミツ
  • 福岡県久留米市生、東京大学医学部(公衆衛生)卒
  • 労働省海外協力課長、労働大臣官房審議官、
  • 国連日本政府代表部公使(New York:外務省出向)
  • (株)イオンフォレスト(The Body Shop, Japan) 代表取締役社長(創業社長)
  • 他NPO 法人、財団法人・社団法人等の団体役員を
  • 多数務めている。

国連公使としてニューヨークに単身赴任するまで

「労働省の木全海外協力課長のニューヨーク国連日本政府代表部公使としての単身赴任について」外務省次官から労働省次官に相談がある。「次官がお呼びです」という連絡を受け次官室に伺うと、一連の説明があった後「ご主人の意見を伺ってきていただけますか」「はあ?赴任をするのはわたくしではありませんか、何故、まず、私の意見をお聞きにならないのですか」男女同権を叫んでいる先輩達だったら、当然反論をしただろうし、自分も本当はそう言いたかったが、「面白い!そのまま。夫に聞いてみよう」私が一生仕事をする事について(9歳の時の決意も含めて)は、3年半のデートでも繰り返し話題にしていたので、結婚後は一度として仕事と結婚、仕事と家庭生活、仕事と出産・育児などと言うテーマについて、言い争ったこともなければ、意見の対立もなく、お互いの生き方を賞賛し合って生きて来た非常に平穏な夫婦関係であったが・・・。
夫の帰宅を玄関の入り口で待っていた私が「お帰りなさい。今日は、一寸お話しがあるの」(何とも不穏な響きを残す言い方であったが…)それを聞いた夫は、真っ直ぐキッチンに足を運び、冷たいコップの水をぐっと飲み越した後、「どうしたの?」「「実は・・・」と、NY(ニューヨーク)赴任の要請を受けたことを説明し「ご主人の意見を伺ってきていただけますか」と言われたことを告げると、ものの3秒。「素晴らしい、お受けしたら」「エッ!私は、毎日忙しく夜中帰りの毎日のため、妻として、母として、嫁として、主婦として決してパーフェクトではないけれども、この家に私がいなかったら、やっていけないわよ」「そんなことないよ」と。この件に関する私達夫婦間の会話はそれだけ。
次の日の朝、同居中の義母に話をすると「あら、素敵!誇りだわ、私に出来ることは何でもするわ」と喜んでくれた。想像と全く反対の反応に戸惑いをすら覚えた。そして、息子(医学部1年生)。4~7歳をボストンで過ごした独立指向の息子は問題ないと思っていたら、急に息を荒立て「どうぞ、どこへでも行ってください。でもその前に僕とは親子の縁を切っていただきます」という予期せぬ反応に、「この子は独立指向だと思っていたら、母親っ子だったのだわ」と拍子抜けをした。
義母と息子の反応を聞いた夫は「直樹の問題は時間の問題だよ」ということで「お受けします」という返事をすることにした。当日の新聞各紙の夕刊に小さな顔写真と共に「中曽根内閣の花形人事、労働省の木全さんが国連公使に」という記事が掲載された。帰宅すると、玄関に待ち構えていた息子が「ママ、おめでとう!」と握手を求めてきた。結果的には、家族全員から「赴任せよ」と激励されて赴任をする事になった。

ニューヨークで発見したこと、決心したこと:

労働省におけるODA(政府開発援助)活動の一ページから担当し、在籍30年間のうち、トータルで約15~6年間を、アジア40か国、アフリカ50か国、中南米33か国を対象に、研修生の受け入れ、専門家の派遣、海外職業センターの設置・運営等に関する協力、そして、官民協力システムの確立(OVTA)活動等など、日本政府としても、1人の日本人としても素晴らしい仕事・活動を成就してきた…という誇りと自信をもってのニューヨーク赴任(1986~1989)であった。
しかし、ニューヨークで迎えられた雰囲気は、予期に反して日本に対する、日本人に対する、特に、アジアをはじめとする諸外国の人々の意見、批判にはすさまじいものがあった。例えば、最も親しいと思っていたアジア諸国の外交官たちが「日本がアジアのリーダー国?誰がそんなことを言っているのですか。我々アジア諸国は、日本がアジアのリーダー国だなどとは、思ってもいません。日本人が一人嘯いているだけではありませんか」
「一体これは何だろう」「確かに、高度経済成長にあやかり、多くの日本人は金持ちになり、このNYマンハッタンでも、このホテルは明日は、日本のものになっているのでは・・・とそこここでささやかれ、日本からの旅行客は、公衆の場でも大声で叫び合い、周囲の人々のことはお構いなしに、行儀の悪い振る舞いを平気でする・・とても、尊敬に値する日本人など見当たらない」「一体、世界における日本、日本人とは何なのか」「NYでの3年間の勤務という絶好の機会を活用して、国連の加盟国の中でどんな立場にあるのだろうかを何としても見極めたい」赴任した当日から、明確な課題を認識した。
赴任の翌日から、国連加盟国の代表部(大使館)を訪問、赴任のご挨拶という堂々とした訪問理由の下で、挨拶周りをすることにした。外務省から赴任に当ってオリエンテーションを受けた順位とは異なり「まず、アフリカ諸国50か国」「ソ連をはじめとする東欧11か国」「中南米33か国」「アジア諸国」「OECD加盟先進25か国」などすべてを訪れて・・・。
単なる挨拶周りであるけれども、その受け入れ方、対応の仕方、日本に対して持っている感情、求められる姿勢など、どの国としても同じ国はない。
ダイバーシティ社会のまず第一歩から、学んでいくことが出来た。と共に、これからの3年間の国連外交活動への明確な心構えの第一歩を構築することが出来た。
赴任したのは49歳の時。「単身赴任で3年間、一日も帰国出来ないなんて可愛そうね・・・」と同情されての送別会であったが、赴任前の生活では深夜まで働く官僚生活。妻として、母として、嫁として、そして、1人の人間としての24時間の生活の中では、自分の時間は1時間もあればいい方であったが、しかし、「単身赴任」とは「24時間貴女の時間、その過ごし方、時間の使い方、全て、自分で決まることが出来る・・・」という想像もしていなかった、信じられない、素敵な時間をもらったことになる。

国連でやったこと:

よーし、8時間は睡眠を、8時間は日本政府(外務省)の訓令に従い、超一流の外交活動を、そして、あとの8時間は私の時間、この8時間x365日x3年を使って、国連加盟国(国交のない国は除く)の各国に2~3人の親友を造ろう、そして、とことん仲良くなり、多くの国々を心から理解し、日本についても知ってもらおう。好きになってもらおう。心に堅く決めて、単身赴任・国連公使の3年間の生活は廻り出した。単純計算でも1人の親友を造るのに9時間しかない。いや、集団で行動することだってあっていい・・・。
国連の会議場で、廊下で、カフェで、ティータイム,ランチタイム,ディナータイム、朝、昼、夜の時間を有効に活用し、週末のピクニック,バードウォッチング,ゴルフ,オペラ, 観劇、音楽会とすべての機会を積極的に活用し、日本のお弁当を造って持参したり、手料理の会、ディナーに招待したり、ありとあらゆる機会を通して、友好を深めていった。
国連外交は、別名「選挙外交」と言われるように、総会以外は、加盟国であっても委員会に出席することは出来ない。委員会のメンバーにならないと、その委員会の分野に関する情報を入手することが出来ないばかりか、国際社会で何が問題で、何を議論しているのか、自分の国は、何を貢献できるのかが分からない。従って、各国とも立候補して選挙で委員会のメンバーに選ばれるために、し烈な選挙運動を展開していく。選挙権は、アメリカ、ロシアなどの大国も1票、カメルーン、ビルマ、プエルトリコなど小さな国も1票。その1票を獲得するために立候補国は、あの手,この手を使いながら必死で運動を展開していく。
経済成長に比例して先進国は、ODA予算を増加させていかねばならないというOECDのルールがあることから、経済成長を成し遂げながら邁進している日本は、ODA予算を増大させながら、援助という切り札をちらつかせながら選挙権を持つ国々を説得していこうというやり方をしがちであるが、私は、全く異なった木全流の外交を展開していった。
投票権を持つ加盟国すべての国を対象に、それが、どんなに小さな国であっても、事前に可能な限りその国について、また、今まで私が担当してきた海外技術効力の関係で知り合った各国の友人達のことなどを全て整理、勉強した上で、1か国、1人1人にお目にかかり、面談の機会を設けることに務めた。「あなたのお国について、直面している課題、抱えている問題、国連の中でのポジショニング,日本との関係での問題点などなどについてお話をお聞かせいただけますか」という問いかけから始める。どの国の外交官も喜んで、滔々と話を聞かせてくれる。そして、30分も話を続けると、「私は、全てお話をいたしました。今度は、日本のこと、日本の政府の考え方、方針、そして、木全公使のご意見などをお聞かせいただけますか」と問いかけてくる。そうなったら、相手は、乾いた海綿が水を求めている状態の中で、こちらの話に耳を傾けようとしてくれる。そこで、それッとこちらの主張を浴びせかけるのではなく、静かに、感情的にならず、簡潔明瞭に、日本の立場、何ゆえに日本が立候補したのか、この分野で日本は国際社会でどのように力を発揮し、貢献をしていこうと考えているか等について、具体的に説明する。静かに耳を傾けてくれる相手国は、100~120%、こちらの意向を正確に理解し、共感を覚えてくれ、是非、日本に投票したい、日本の活躍を期待していると約束をしてくれる。その後も頻繁に連絡を取り合い、意見交換を続けながら投票日当日は、その国の誰が国の代表として席に着くかについても正確に把握でき、選挙の正確な読みを確実にしていく。無記名の投票の場合でも、日本に投票をしてくれたか否かは、胸襟を開いて語れる友人となっているため、100%分析が可能になる。3年間の赴任期間のうち、自身が担当責任者の選挙、直接ではないが、日本が立候補した選挙の応援活動を含め11回の選挙を担当、体験させてもらったことになる。全選挙で当選を果たした。「3年間の赴任で4回の選挙経験が常識ですよ」ドイツの外交官からの苦言(?)であった。
ニューヨークを去る前に、国連加盟国の友人達が、様々な様式による送別会を催してくれた。信じられない数々の私だけの送別会もあった。紙面があったらお話をいたしましょう。