染谷 ゆみ(そめや ゆみ)

株式会社ユーズ 代表取締役社長、TOKYO油田プロジェクトリーダー

染谷 ゆみ
  • 東京都墨田区生まれ。明星学園高等学校卒業後、アジアを中心とした旅に出る。チベットで土砂災害にあい、環境問題に目覚める
  • 1991年、環境問題解決の一端を担うことを志し、油リサイクル業の実家「有限会社染谷商店」に入社
  • 1993年、世界初の廃食油からのバイオ燃料「VDF」(BDF)を開発。
  • 1997年、株式会社ユーズを設立、代表取締役就任
  • 2002年都議会議員に民主党の公認で立候補し落選
  • 無知の知を知り、2003年、青山学院大学の扉を叩く。2007年3月卒業
  • 2007年、TOKYO中の使い終わった天ぷら油を一滴残らず集めるプロジェクト「TOKYO油田2017」を始動
  • 2009年、TIME誌の「Heroes of the Environment 2009」の唯一の日本人として選出
  • 著書:『TOKYO油田物語』(一葉社 2009)

下町生まれ、姉弟たちとの日々

私は、下町の小さな油工場(染谷商店)の次女として生まれた。2つ上に勝気な長女がいた。そして、その1年後、私と年子になる待望の長男が生まれた。弱々しい男の子だった。それが弟だ。
わたしは、その弟にいつもジェラシーを感じていた。何かするたびに「お姉ちゃんだから」、「女の子なんだから」という言葉が私にはついてまわった。初めての「男の子」である弟は、まわりから特別扱いを受けているようであった。だから、私は弟をよく苛めた。
弟が2歳半になったとき、また弟がうまれた。その子は父そっくりの頑強な男の子だった。「チビパパ」というあだ名が付けられた末っ子の弟に、父は「明男(長男)が女の子だったらお前は生まれなかったんだ。兄貴に感謝しろ。」とよく言っていた。3人も女の子が生まれたら、4人目は生まれなかったという意味だ。母方の祖父が、長男を気の毒がるほど、私と末っ子に挟まれた長男の「特別扱い」の時期は短かった。長男は次男に比べて体も小さく、頭の回転も鈍かった。食も細かった。私と次男は父譲りの食いしん坊、特に次男は大食漢だった。「ゆみちゃん、ゆみちゃん」と慕ってくる弟(長男)に苛立ち、よく引っ掻いたりした。そうすると、母にものすごく叱られて、余計に弟への嫌悪を募らせた。

10歳の決意―「男の子になる」

10歳の時に決意をした、「男の子になる」と。スカートを履くのをやめた。女の子用の服も着なかった。着飾ることに興味はなかった。それよりも格好よい「男の子」になろうとした。しかし、中学校のセーラー服が私の自尊心を傷つけた。いやいやセーラー服を着たが、男は学ラン、女はセーラー服と決めつけられることに腹を立てた。そこで、高校の選択は、私服かどうかが決め手になった。私服であるということは、結果的に「自由度」の高い高校であり、1時間半の通学時間も苦にならなかった。「男らしさ」に磨きがかかった。女性トイレに入ると驚かれ、「トイレ問題」を抱えるほどになってしまった。
自分の個性を大事にして生きたいと思えば思うほど、この社会は生きにくかった。「普通が一番」と言われると反発し、抑圧されていると感じた。抑圧する社会そのものに関心を持つようになった。大学へ行くよりも、日本の外の世界を見てみたいと、高校を卒業後、中国を皮切りに「世界一周の旅」を目指した。18歳の春である。意気揚々と出かけた「世界一周の旅」であったが、1986年の中国とインドは18歳にとっては辛く、すっかり消耗して一時帰国をする。しかし、考えてみれば、この旅で「環境問題」があることに気づき、のちにライフワークとなる仕事の端緒が開かれていくのだから、18歳の無鉄砲も捨てたものではない。ところが帰国したのはバブル絶頂期の日本。せっかく目覚めた環境問題であるが、当時の日本には「環境問題」解決型企業は皆無といっていいほど。遊んで暮らす訳にもいかず、別の仕事を考えた。ここで大きな壁にぶつかる。「普通の女子」の格好ができないのである。「女性」に見られるのも、「女性のための仕事」というのにもげんなりした。「女らしくおとなしく」なんて、まっぴらご免だったのだ。

パンツスーツで面接、HISに。そして香港赴任

すでに「男女雇用機会均等法」が施行されていたが、社会の中での女性を見る目や位置が変わるわけではなかった。私のイライラは続く。そんなとき、スカートではなく、パンツスーツで面接を受けて内定をくれた会社があった。それが今の「HIS」だった。弱小格安航空券販売会社であった当時のHISの顧客は、JTBや日本旅行などのパックツアーの層ではなく、バックパックを背負って外へ行くお金のない学生などの貧乏旅行者たちだった。旅行会社の社員となった私は、大学へ行ってよくポスターを貼った。「マップ」(当時のライバル会社)のポスターがあったら、その上に貼る。後から聞くと、このポスター貼りは、男子しかやらなかったそうだ。
入社半年後に、香港支店への辞令が出た。当時のHISでは、海外への女性の赴任は珍しく、私は二人目であった。先に香港支店に赴任した大卒の女性先輩は英語がペラペラ。かたや、私は20歳になったばかりで「度胸」しかない。なぜ、私に白羽の矢が立ったのか。おそらく「男装」が功を奏したに違いない。
HISは、設立間もない会社であり、社長は30代、自由で旅好きの仲間がたくさんいて本当にオモシロかった。初めて就職した会社で、仕事がおもしろいと感じることが出来たことは幸せだった。もちろん仕事だから、苦しい時もあったし、壁もあった。でも、夢とそれを共有する仲間がいたから、頑張れたように思う。「個性」も大事にしてくれた。

環境問題は足元に―「東京は油田だ!」

いっぽうで、環境問題が頭を離れなかった私は、「面白い会社」を辞めることを選ぶ。短い期間であったが、夢を持つこと、道なき道を切り拓く、ベンチャースピリッツを、HISで得られたことは私の人生にとって大きな収穫であった。環境問題に取り組むための選択は、なんと実家である「染谷商店」に入社することであった。まさしく「燈台下暗し」、考えてみれば、実家の廃油工場は使い終わった食用油を「リサイクル」していたのであった。いまでは、リサイクル業とか環境ビジネスなんて言われるが、当時は、廃油回収業。所属する業界は「産業廃棄物業」であり、イメージがものすごく悪い。社会の底辺、3Kの仕事場である。現場で働く女性は、家族以外、いなかった。ましてや、環境意識に目覚めた私は、もちろん、反原発。ジュリアナのお立ち台で踊る華やかな女性が脚光を浴びている時代に、すき好んで「産廃業で働く女性で、しかも反原発」なんて言ったら、「変人」として扱われた。生保業界に入った姉はスーツで出勤しているが、それを横目でみながら、私は文字通り、油と汗まみれの毎日を送っていた。それでも、環境問題の解決は「現場」からであり、社会を変えるには、こうした産廃現場の人たちの意識改革こそが重要と信じ切っていた。また、環境に対する意識なんて皆無の長男が長男というだけで、工場の跡取りとしてみなされていることも納得できず、長男に対する「軽蔑」がさらに増幅していた。今から25年前のことだった。
油の回収現場へ行けば、「なんで?」と奇異な目で見られる。子供の頃から、男の格好をしていて、変な目で見られたので、そうした視線は気にならなかった。それでもそのうち、周囲からの理解が得られず辛いので、「なんでここまでしてんだろう?」という思いが頭をもたげることもあった。そんなとき、こうして飲食店の勝手口から油を集めることは、廃棄物ではなく、「資源」を集めているんだと、自らに言い聞かせているときに、「東京は油田だ!」という言葉が浮かんで、自分でも驚くほどドキドキしたことを覚えている。以後、「東京は油田だ」というキャッチフレーズは、廃食油リサイクルの再評価を社会に訴えていく際の重要な鍵となった。

ジェンダー問題を乗り越えて経営者に

私の父は、戦前生まれでも進歩的な方だと思う。しかし、ジェンダーに関しては、明治の感覚だ。「オンナは子どもを産んでナンボだ」という言い方に、常に腹を立てていた。それは、祖父の影響が強く、父自身の出生と絡んでいることが最近になってわかったが、ここでは割愛しよう。向き不向きを問わず、「長男が後継者」という、父の意向に従って、染谷商店の社長は、弟の明男がなった。苛めた弟の下で働くのは、お互いにあまりしっくりいかない。業界でそれなりに歴史のある染谷商店を継ぐのは、新しいリサイクル業を目指す私にとっては面倒だったので、社長になりたいわけではなかった。
そんなこんなで、97年に、染谷商店の廃食油回収部門を分離する形で「株式会社ユーズ」を設立する。20代のオンナ社長には、信用など、なし。無い無い尽くしをどう知恵を絞ってやるか、常に考えてきた。新たな事業の、バイオ燃料プラントの開発や販売、循環型社会へのシステム化という新たな市場を作るのに、お金も人材も信用もない、そのなかでの挑戦である。1980年代、20代の女性には、お金を借りるのも大変だったが、いろいろと知恵を絞れば秘策はある。また、情熱をもって臨めば、信用がなくとも人が動く時がある。熱い思いだけではダメだが、まずは自分自身にどれほどの情熱があるかは、必須である。

子どもをもつ選択、持たない選択―多様な生き方を認める社会に!

父のオンナへの固定概念を裏切るように、私も姉も子どもを作らなかった。母は、4人の子どもをもうけ、その大変さを見て育ったせいもあるかもしれない。母は、当時の女性の生き方にならって区役所勤めを辞めて結婚したが、自分がやり遂げられなかった「仕事」をする娘たちをものすごく応援してくれた。子どもを産みなさいと、私も姉も言われた記憶がない。
43歳で、高校の時の友人が初産で子どもを産んだ。同級生でまだ子どものない友人たちは、エールを送ったし、まだ自分も「まだ産めるかな?」という気にもなった。が、これはタイミングだし、望むだけでは、現実的には難しい。今、振り返ると、子育てと仕事も出来ちゃった気もするが、そうは思えないときに、子どもを生む選択はなかなかできないのだ。社会は、「女性」に対して、仕事よりも、出産を一つの評価対象とする傾向はいまだある。「オンナは子どもを産んでナンボだ」という父の感覚が、社会には息づいていて、こう書いている私も「仕事だけか」なんて思われてしまいそうだと、ちょっとコンプレックスを感じてしまうのである。はっきりと言いたい。それは、社会が多様な生き方を評価していないから、そう感じざるを得ないのだ。いろんな人がいていい。やっといろんな生き方を選択できる時代に入ってきたのも事実であり、自分の心が「自分の生き方」に自信を持たなければ、自由は奪われていくだけだ。
もっと自由に、いろいろな生き方を認める人たちが増えれば、社会はより豊かになるだろう。私もその一人として生きて行きたい。