金子 鮎子(かねこ あゆこ)

株式会社ストローク 代表取締役、 特定非営利活動法人ストローク会副理事長、全国精神障がい者就労支援事業所連合会副理事長

金子 鮎子
  • 株式会社ストローク代表取締役
  • 特定非営利活動法人ストローク会副理事長
  • 全国精神障がい者就労支援事業所連合会副理事長
  • (元)NHKチーフ・ディレクター

「働く」ということを考える ~ 精神障がい者も自立して生き、働くために~

今私は、精神障がい者が自立して生きること・働くことを支援する団体と、精神障がい者と共に働く団体の役員をしているが、もともとは放送局に勤めていた。一般事務、テレビ・カメラマン、社内報の編集、研修業務などを経験し、定年まで勤めてから、精神障がい者と共に働く会社を平成元年年(1989年)に設立した。私が言い出しっぺだから、代表取締役は私が引き受けた。今は、そのほかに、国関係の障がい者雇用関連の仕事だけでなく、住んでいる地元、新宿区の地域の障がい者や高齢者にかかわる活動にも参加しているが、自分も高齢になって、今は身近なところから少しでも暮らしやすい街づくりにこれまでの経験を生かせればと考えている。

放送メディアで働き始める

さて、私の職業人生のスタートは、昭和30年(1955年)のNHKへの入職である。大学は英文科で学んだ。まだ四年制大学を卒業した女性は少ない時代だった。最初は事務系の仕事で、一年後テレビの報道の仕事に移った。当時、放送の主流がラジオからテレビに移行し始めた時期だったことから、放送現場の仕事に携わりたくて、自分から希望して認めてもらったからだ。まずはニュースの編集へ配置され、それから16ミリフィルムによるテレビニュースのカメラ取材の仕事に変わった。当時はまだ女性にカメラマンの職は認められておらず、編集の仕事の傍ら、時にカメラ取材にも従事して、約2年後、日本初のテレビの女性カメラマンのポストについた。
テレビ・カメラマンとして、スクープ映像を撮るなどしていくつかの業績をあげていた。例えば、昭和33年東京でのアジアスポーツ大会の女子選手村、同年の皇太子殿下ご成婚内定発表時の「美智子さまのアルバム」や昭和39年10月のオリンピック東京大会時の女子選手村取材等もあった。
しかし、男女雇用機会均等法以前の時代であり、昭和40年代は労働基準法令で女性の深夜業が厳しくなり、女性カメラマンも就業時間帯に制限があった。男性には毎週の泊まり勤務があり、したがってそれが禁じられている女性は報道やマスコミの世界のカメラマンとしては使いにくい存在だった。
“これでは十分な仕事は出来ない、今後なにをやっていくか”と考えた時、これからは否応なしに高齢化社会になっていくこと、また若いころから関心のあった精神的な病気とのかかわりから、業務外の時間に、昭和42年よりカウンセリングの勉強を民間専門団体の(財)日本カウンセリングセンターで始めることにした。
子供の頃から、精神分析関係の図書が本棚にある家庭で育ち、人の心の問題には、もともと関心があったため、精神科医になることは無理だとしても精神医療と心の病を持つ人との接点の仕事に関心があった。当時は、カウンセリングというと、教育の分野の方々が多く取り組んでいられたのだが、私は10代から心の病という不思議な世界に心ひかれていた。
カウンセリングを学ぶ傍ら、昭和47年から、退院後の患者さんが話し合う場としての「日曜サロン」やその「家族の勉強会」を地域医療に関心のある精神科医にも協力してもらいながら、当時の日本カウンセリングセンター理事長の関口和夫先生やカウンセラーの仲間と一緒に作ることになった。
その頃から、ご家族に頼まれて退院後の患者さんの話相手になるため、夜間や休日に家庭訪問をするようになった。当時は、ご本人に納得のいかない無理やりな入院から、退院後は医療拒否になる患者さんも多く、私の知り合いの別の病院の精神科医に紹介することも多かった。

精神障がい者が働くということ

その頃、勉強会で出会った患者さんの家族から、“大企業に勤務しているのなら、うちの子に清掃でもいいからアルバイトを世話してもらえないか”と頼まれて、勤務先に出入りしていた清掃業者にお願いして受け入れてもらった。しかし、殆どの障がい者は直ぐ辞めてしまうのだ。
働きたいという気持ちはあっても、精神的にも、身体的にも働くことへの準備ができていないのだった。受け入れ側の配慮以前の問題だった。「もうちょっとちゃんと準備してから、連れて来なさい」と、清掃会社の所長さんは率直に云ってくださった。私は、至極もっともだと思った。
精神科医やカウンセラーはいても、その頃私には働くことに本格的に取り組んでいる専門家は見つからなかった。当時私は精神障がい者の福祉施設にも業務外のボランティアとして参加していたので、福祉の就労訓練だけでは一般への就職はなかなか難しいという印象だった。そこから、私は治療的なかかわりでなく、一緒に働いて、生きることに自分の仕事を方向づけた。「企業で長年働いてきた経験のある私だから出来ることがあるに違いない。定年後の次の仕事として、精神障害のある人達と一緒に働く会社を作り、障害はあっても働ける力をつけて、信頼されるようにしたいと考えるようになった。
働きたいのに、働くチャンスがないのは問題だが、働きたい気持ちだけで十分ではない。仕事の質が問題だ。まずは職場に出てこないようでは始まらない。障害があっても「仕事が任せられる」「よくやってくれる」「助かる」と役に立たなければ、信用されない。私は、「当てにならない」と言われたことから、働く人として「信頼されることが先きだ」と考えた。まずは穴をあけず、きちっとした仕事をして喜ばれなければ、人の役に立てず、信用に結びつかない。
当時、企業に義務付けられた身体障がい者への雇用率はあっても、精神障がい者の雇用はちょっと無理だと考えられていた。しかし日曜サロンなどを通じて、実際には病院を退院したあと、通院・服薬しながら働いている人もおり、これから働くことを願っている人も多いことを知った。だがその頃は、精神障がい者は働けないとされており、ハローワークなどでも「“病院に通っているのなら、病気を直してから”いらっしゃい」と断られて、病気を隠して働いているのが実態だった。
一方、私は、自分が働くことにより、いろいろな課題や機会が与えられ、それを解決するために工夫し、勉強することになり、また多くの人と知り合うことになった。もし働くことがなければ、自分の人生でこれほど得難い機会を与えられることはなかったと有難く思っている。
こうしたことから、障害を持ったことで、働く機会が与えられず、そのことで種々の機会から遠ざけられ、様々なチャンスを得られないことは、折角の人生なのに「何とももったいない」と考えるようになった。
戦前・戦中に幼小期を過ごした私は、「大人になることは働けるようになることだ」と思っていた。働くことは生きることと同じ重さがあると思っている。母は戦前女性の典型的なタイプだったが、その姿をみていて、幼いころから私は「自分で稼げるようになりたい」と考えるようになった。そして自分の人生を自分で選び、自分で決めたいと考えた。
中学生になって寮生活を始めた時、その日着る洋服を自分で決められる自由がうれしかった。だから、大人になってから、カメラマンになるときも、障がい者と一緒に働く会社を作るときも家族には相談しなかった。前例のないことなので、反対されると困るからだった。自分で決めてから「これから、こういうことをします」と話した。父も母も内心、心配しながらも、あえて反対はしなかった。
今でも精神障がい者が働きたいと強く望み、自分で進路を決めようとするとき、応援したいという私の気持ちは強い。

それぞれの特徴に合わせた働き方の工夫を!

障害だけでなく、人間は置かれた環境の中でその人それぞれに特徴があることを私は自分の子供の頃の体験からも知っていた。私自身は幼稚園の頃、食事するのがひどくのろく、ある時昼の弁当を食べ終えたのが午後2時になってしまった。本人は、母の作ってくれた弁当を目を白黒させながら全部食べるのに懸命だった。だが、その日の午後の授業は園全体で出来なかった。「クリマスの会にはまたいらっしゃいね。」と言われて、翌日からの授業参加は「お断り」ということになった。先生方も困ったことだろう。集団管理の支障になったことは間違いない。しかし、食べる速度が非常に遅かったのは事実だが、当時、弁当を適当に残すという知恵は私には思いもつかなかった。
私は母が作ってくれたお弁当を残してはならないと、一所懸命食べていた。その結果、幼稚園にとっては扱いにくい子となり、両親からも、毎日、早く食べるように、そんなに遅いと社会でやっていけないと、言われ続けた。当時食事は、幼い私にとって全く溜息の出る毎日のイベントだった。食料不足になる前の戦前の話である。
ともかく、人はそれぞれに、その人の特徴がある。働きたいと本当に望む人は、精神障害のために、最初は短時間しか働けなくても、その状態に合わせて時間をかけて、労働時間をだんだんと伸ばしていくなど働き方を工夫すればフルタイムでも働けるようになる可能性がある。私の会社やNPOでの事業の中で、そうやってフルタイムやそれに近い時間まで働けるようになった例は少なくない。こちらも根気強くその人と取り組むことで道が開けると信じている。仕事は、ちょっとやって見た位で楽しいとか、つまらないとかいえるものでもないと実感している。
最近、電車の中で若い人達が、軽い調子で“どう、今日の仕事楽しかった?”とか、“今度の仕事オモシロイ?”と話をしているのを時々耳にする。働くことというのは、楽しいとか面白いという面だけではないだろう。仕事にすんなり気持ちが入って行かないこともあり、どこから取りかかっていいか見当もつかないこともある。困難や苦しみもあるし、自分自身に対しても周囲の人に対しても責任がある。仕事では、未知のことや不得手なことでも何とかしてやり遂げなければならないので、簡単に軽く<オモシロイ?>と質問できるようなものでもないと思う。
だが、私の場合有難いことに、取り掛かりやすいところから辛抱強くアプローチして行くと課題が面白くなっていくことが多い。オモシロイというより、お馴染みさんになって、いつの間にかその課題の虜になっている。どう考えたらいいかわからないとき、私は良く本屋さんにぶらりと行く。本屋さんは、本をパラパラと見ながら、立ち読みしながら情報を得るだけでなく、自分に浮かばないいろいろのアプローチを探る空間になる。そして自分なりのヒントを得て、徐々に考えが固まっていくのだ。そして工夫する面白さにつながって行く。以前仕事でよく担当した「創造工学」研修の実習も、考え方の方向性を探すのに役立っているようだ。

転機に向かってTake-off !

さて、会社設立は時間をかけて準備をしたが、踏ん切りをつける直前の数年間はやはりどうしたらいいか掴めず不安だった。職場で新入社員の研修を考える一方で、障がい者を職業人として育てることを考え、自分の気持ちが定まるのを待ちながら様々の情報を集めることを怠らなかった。
精神障がい者ご本人とのかかわりから、彼らはそれまでの経験から、いろいろな不安を抱えており、思いがけぬ事態に対して直ぐにパニックに陥りやすく、つい、あわてて気持ちにゆとりを失いやすい傾向があること、また病気の経験から少々の事でも自信を無くしてしまい、再び立ち上がるのに大変な時間が必要なことに共感を覚えた。
私なりに障がい者と働く場を作ることを模索する中で、精神科医を交えた勉強会、交流分析やカウンセリングの盛んなアメリカから来た専門家が主催するワークショップなどに参加した。この経験はこの後の自分の職場での直接の仕事や職場での人事管理さらには新しい研修課題の開発にも役立った。また、定年直前の1988年6月に参加者皆で話し合いながら作っていった精神科医・精神保健関係者・ボランティアなどによるアメリカでの精神病院や精神障がい者の社会復帰施設等の見学ツアーへの参加は、人のつながりという面でも大変に有益だった。
私がカウンセリングの勉強をしていることや、日曜サロンなどを通じて障がい者の社会的自立の問題に取り組んでいることは、社内にも少しずつ知られるようになっていた。しかし、仕事と自分が個人の活動でやりたいこととの区別はきちんと分けるは当然の事であり、器用な方ではないので、時間外に業務が残ることもあり、一方では42年間続けている月2回の日曜サロンもあった。休みはあまり取れなかったので、休まず働けるよう体調管理にはかなり気を配った。どの約束にも穴をあけないよう、精神障がい者関連の活動は休日や勤務時間外の夜間等に行い、すべての面で公私混同しない覚悟で臨んだ。
一方で、私のそうした公私の活動状況を上司が知っていたところから、職場で任された仕事もあった。たとえば、玄関受付担当の女性職員約20人の管理を任されたことがある。高校を出て採用されたばかりの、世間知らずというか、職業意識の未熟さが残る若い女性達の管理だったが、その人々を成長させるための管理は、“是非、金子に”とのことで上司の進言があったとのことだ。

多く人々の援けをうけて新会社設立

会社設立時には、画期的なことなので、いろいろな分野の方々に呼び掛けてお披露目をすることを福祉の関係者から助言を受けた。感謝の気持ちをこめて設立パーティーを開いたところ、200人を超える方々が来てくださった。初めて障がい者をアルバイトに雇ってくれた清掃会社の社長さんも来てくださった。
定年まで勤務していた企業で培った人脈、医療や福祉関係での人脈、カウンセリングや日曜サロンで開拓してきた繋がりが大いに役立った。その後の会社の清掃事業の営業活動にもつながったケースも少なくない。公私の区別ははっきりさせてきた活動だったが、その両方で関わった多くの方々に助けていただいた。
会社を運営する中で、精神障害があっても短い2~3時間の時間から働く生活を習慣づけ、また人と接する機会を増やしてコミュニケーション能力をつけ、日々の働く実践から自信を取り戻すことによりにより、働く人として育てることを進めてきた。

医療・福祉と“働く”をつなぐ

平成12年(2000年)12月、「精神障がい者に働く意欲を与え、より多くの賃金を保障するため民間企業の方式を採用するという慧眼とそのチャレンジ精神深い人間愛には心から称賛しないではいられません」と、第1回ヤマト福祉財団賞を今は亡き小倉昌男氏から頂いたことは忘れ難い宝物である。
こうした種々の実績を踏まえて2期にわたる国の「精神障がい者の雇用に関する研究会」の委員に参加し、平成18年には、精神障がい者の雇用率適用(雇用すれば、雇用率にカウントされるという)への糸口を開くことになった。
今は、株式会社の経営は当面休眠として、NPO法人で精神障がい者の自立と働くことへの支援の活動を中心に関わるほか、中小企業経営者団体の障がい者委員会の活動にも参加している。また、地元の新宿区内のNPO活動推進事業にも関係し、障がい者の雇用だけでなく対人コミュニケーションが不得手な学生や引きこもりがちなニート寸前のような若者と中小企業の企業主とが交流できるような活動にも関心を持っている。
公的サービス機関同士の連携も大切だと考えており、20年以上も前、当時厚生省系統の精神保健福祉センターの研修会を労働省系統の障がい者職業センターで開催し、一緒に学習・情報交換してもらうことを企画して、当時まだ繋がりのなかった医療・福祉と労働の両分野のつなぎ役をしたこともあった。まだまだ縦割り社会の中で、障がい者だけでなく働くことの難しさを抱える人たちの自立や雇用を進めるためには、社会のいろいろな分野の相互の連携が大切なことは今でももちろん変わりない。関連する分野を“つなぐ”ということも、まだ私の一つの役割かもしれない。
NPOストローク会の事業としては、今後、清掃以外の仕事で精神障がい者の就労のチャンスをもっと作りたいので、働く領域を更に幅広く開拓していきたいと思う。新たな領域としては高齢者の介助や話し相手をして、例えば「ユマニチュード*」等を活用して高齢者も障がい者もよりイキイキと暮せる仕事を開拓することや、清掃だけでなくパソコンを活用した業務の展開も考えたい。
また、今、精神障がい者の雇用にとって大きな課題である「雇用」だけでなく、更に一層の「職場定着率」をいかにして向上させるかの必要性を感じている。

*ユマニチュード:フランス生まれのケア技術。障がい者や認知症患者に徹底的に「人として」接することで、効果をあげる手法