藤井 幸子(ふじい さちこ)

一般社団法人 Women Help Women 理事

藤井 幸子
  • 東京理科大学薬学部卒業
  • 国内大手洗剤メーカー研究所勤務
  • 外資(スイス)製薬会社勤務:①医薬情報サービス担当、②安定性試験担当、③医薬情報管理部門立ち上げ④新製品のプロダクトマネージャー(業界初の女性プロマネ、3年後に年商100億の売り上げ達成)⑤企業合併後、営業企画グループマネージャー⑥大型新製品の上市をプロマネグループマネージャーとして担当(業界で注目されるマーケティングを展開、5年後1000億の売上げ達成)⑦ダイバーシティ推進室立ち上げ、定年退職NPO法人代表理事として、ダイバーシティ&インクルージョンの推進活
  • 現在は一般社団法人Women Help Women理事として活動

はじめに

私は、ベビーブーマーのトップランナーの一人です。4人兄弟の2番目(姉、弟が二人で、2番目の女の子)で、子供のころ家族の中ではあまり大切にされていないと思っていました。
小学生の頃、人より劣っているので他人の倍努力して、始めて人並みになれると思っていました。
また、高校生の頃は早く自立したい、一丁前になりたいという気持が強く、しかしキャリアについて考えたことは、ほとんどありませんでした。母の勧めで、資格さえあれば自立はできるといわれ、理系でもないのに薬学部進学を決めました。また、大量にいるベビーブーマー世代なので、「他人とはどこか違った価値をつけないと、埋没する」と常に意識していました。結果的に経済的自立とともに、仕事が面白く、定年まで働き続けることにつながりました。
大学を卒業して就職した当時、女性の初任給は男性より約1割低かったのです。能力の差ではなく単に性差によるものだった時代です。ならば男性の2倍働いて実績を積めば?という気持はずっと持ち続けていました。

【社内転職などでキャリアを築けたこと】
その1.やりたい仕事を社長に直訴

25歳の女性に再就職先はほとんどなかった時代に、外資の製薬会社に再就職できたのはラッキーでした。初めはお客様(主に営業部門)からの質問に回答する部門でした。新しい経験は毎日仕事が楽しく、私にとり外資系企業で働く女性たちは、男性よりかっこよく輝いて見えました。
医薬品の輸入・販売承認に製品の安定性試験を自社で実施することが義務付けられ、入社2年後研究所で実験をしていた経験を買われ新しい仕事に異動しました。しかし、これは毎日同じような仕事の繰り返しで、3年を過ぎたころには、飽きてきました。そこで、何か他人と違うことをと考え、英語は殆んどの人ができるし、ならばドイツ語を学ぼうと、早朝レッスンを始めました。最終的には、やはり英語の方が役に立つことがわかったのですが。
さらに毎年の実績評価の面談で、情報サービス業務をしたいと希望を出し続けましたが、すぐには実現されませんでした。ある時、社長も誘ってスキーに行くことになり、夕方スキー場から宿へ戻るため、社長と並んで歩いていた時に、スイスで研修しないか?と言われ、勿論Yesです。私は何か刺激を求めていたのです。
半年のスイス本社での研修は、2週間ごとに関連する部門に行ってどんなことをしているか?教えてもらう。というものでした。様々な国籍、人種の人たちに出会い、視野が広がった気がしたものです。
スイスで研修させてもらい、ある程度は会社に恩返しをしないければと思い、帰国してからも同じ仕事を続けました。この社長には今も恩を感じています。彼は南アフリカ生まれ、米国の大学を出て、スイスの企業で働き、5ケ国語を話せる、そして決して偉そうにしない、尊敬できるリーダーでした。その後社長が交代し、情報管理関連の仕事に移りたい私の希望は、次の社長に引き継がれました。忘れた頃でしたが、希望する仕事を始めることができました。あきらめずに申告し続けて、良かったと思いました。

その2.突然マーケティング担当に:未知の世界へ

情報管理部門は、社員への情報サービス部門です。社内の情報の流れを分析し、全社的にコストを有効に使い、顧客(社内)の満足度を高める。どうしたら新しい部門を認めてもらえるか?真剣に考えました。アイデアを考えるプロセスはワクワクしました。このまま、定年まで楽しく仕事をして、いい人生を送れると思っていました。ある日、営業本部長から、開発プロジェクトのマーケティングの窓口と新製品のプロダクトマネージャー、かつ今の仕事も後釜が決まるまで兼任。というオファーを受けました。
マーケティングは全く未知の分野でしたが、興味もあり、やればできるという気持ちで引き受けたものの、新製品の発売準備が始まるとプロマネに専念せざるを得ないことになりました。
新製品上市は、全く未経験の分野で、障害物競走のような日々でした。
上司からのサポートや指導もなく放置され、外資ってこんなものかと痛感した次第です。いろいろアドバイスを貰おうと意見を聴いたりしましたが、所詮は自分の覚悟の問題で孤独との戦いでした。この製品を発売するかどうか上司がなかなか決断せず、私は担当製品の母として患者さんのために発売すべきと主張し、やっと発売することに決まりました。

その3.現場を味方につけるすべを覚えて、口に出せば覚悟ができ目標を達成できる

新製品発売といえ、社長や上司から期待はされず、営業にとりインパクトのないイメージです。しかし、発売時、“この製品は100億の売上げを達成できる”と営業部隊の前で宣言し、この製品を使ったお客様の反応も良く、売上は発売3年後に100億以上を達成できたのです。この時の学びは、製品を信じ、目標を口に出すことが実現可能性をより高くする。即ち自分の覚悟を決め、かつ他人のサポートを得ることも可能になることです。実際には、関連部門のおじさんたちは、それまでの自分たちのやり方と違うと、抵抗しました。医薬品のプロモーションにカラーブランディングやアニメ、製品キャラクターを使ったことが、遊んでいるように見えたようです。仕事を楽しむべきではないと思っていたのでしょう。若い世代の営業現場には受けたのですが。成功すれば文句を言う人は少なくなるだろうと開き直り、気持ちはかなり楽になりました。
この間のプレッシャーは大変なものでしたが、夢中で計画を実行し、今では、大したことではなかったといえるのが不思議です。
新製品発売にはあるレベル以上の投資が必要です。当時の社内状況は、期待の低い製品への資源配分は閾値以下でした。結果的に上市時予算の10倍使い、売りあげも10倍以上を達成できたので、ペナルティなしでした。
さらに経費だけではなく、ひとの力は大きなサポートになります。その仕事を楽しめれば、自然とリソース(エネルギー)を注いでくれます。このような中で、私は他人をどうモティベーションできるかを学びました。発売後3年ほどの間に、すべての都道府県を訪問し、営業の人たちと一緒に医療機関を訪問しました。さらに現場の人からのアイデアを施策に活かせたのが、成功要因の一つでした。
意見やアイデアを取り入れると、その人たちは当事者意識を持って一緒にやってくれます。ともに楽しむことも学びました。この時の仲間たちが、10年後に私が手がけることになった二つ目の新製品のマーケティング戦略を信じて、推進してくれたのです。製品のマーケティングには、まず社内マーケティングして、周りの人たちを巻き込むことだと学びました。

その4.専制君主のような外国人経営陣が来て突然のリストラが

ある日、社長交代と同時に経営陣がすべて外国人になりました。着任と同時にリストラが始まり、業績評価の低い人をターゲットに解雇を始めました。日本人の経営陣、部長達はこのやり方を恐れて、ほとんどの人が死んだふりや、おとなしく従いました。このような時に、ひとがどんな行動を取るのか?よく観察できました。一方営業に関しては、大切なお客様に迷惑がかからないようにしなければいけません。その外国人経営陣は、営業現場の細かいことまで自分の承認を取れという、時間のかかるプロセスを押し付け、現場の裁量権を奪い、社内は大混乱しました。私はこの経営陣に対して、現場が困ること、施策は実行しないと会社の信用問題、売りに影響することを強調し、自分が窓口になって調整するので面倒なプロセスを一括承認に変更するよう交渉しました。まともなことを言っているのだから殺されることはないだろうと思い、猫の首に鈴を付けに行きました。半年ほど、社員たちは疑心暗鬼に陥り、いやな雰囲気になりました。
実は彼らは、グローバル本社の経営陣の指示でリストラを行った操り人形だったのです。半年後グローバルでこのやり方が問題になり、この経営陣はくびになりました。さらに直後に合併が発表さたのです。
この経験から、危機的状況でリーダーシップを取るひとは少ないと改めて実感しました。

その5.合併時のポリティカルな動きや、たすき掛け人事

1998年にほぼ同じサイズのグローバルレベルの製薬企業が合併することになりました。社員には寝耳に水です。早速二つの会社にグローバルの指示でコンサルタントがリードし、双方の対応する部門のマネージャーたちが合併後の組織作りに入り、日本法人の本社をどこに置くか?事業所は?など、交渉が始まりました。全く新しい社名になり、過去の組織を引きずらない方向性にもかかわらず、中の人間は、簡単には変われません。合併とは、サバイバルゲームです。
私が在籍していた会社は事前にリストラがなされ、少しは身軽な組織になっていたのです。合併後の組織人事はたすき掛けで、ある部門のヘッドはA社から、別の部門はB社からと。どちらか能力があるか?実績があるかではなく、ただポリティカルなものだと思いました。また、人員整理のために、かなり良い条件の退職金パッケージが呈示され、少なからぬ数の人たちが退職、転職し、去っていきました。私自身も辞めるという選択肢も考えましたが、担当製品の母として、営業の人たちには恩があり、残る決断をしました。合併をこの目で見て体験するのもなかなか経験できないことだとも考えたのです。
人事が発表になり、私はそれまでとは異なる部門になりました。マーケティングと営業現場のブリッジのような役割です。合併という混乱期には面白そうな仕事でした、それまでの日々のストレスからは解放され、比較的気楽に仕事を楽しめる状態になりました。
仕事を進めるうえで、合併のひずみは多々ありました。企業文化の違い(一方は官僚的、もう一方は営業主導の組織文化)で、作業を依頼しても無視されたことが多々ありました。
プロマネのときに組織的課題と思ったことを、改革提案をしたのですが、殆んど棚上げにされました。変化したくない人たちが多かっのだと思います。自ら仕掛けて変化を起こす人は多くないのです。

その6.再び新製品のマーケティング担当マネージャーに

約1年後、再び新製品のプロマネにというオファーが来ました。新発売時のあのストレスを想像すると断ってもよかったのですが、チャレンジにはNoと言わない自分の在り方で、引き受けてしまいました。製薬企業でマーケティング当事者として、2つの新製品の上市を担当できるのは、大変珍しく、運が良いとも言われたものです。
他社から来た営業本部長は様子を見ていたようで、私のリーダーシップが認められたことは嬉しかったのですが、直接上司とはうまくいかず、度々飛び越えることになってしまいました。あとで考えると、このひとは新しいアイデアを実行することにリスクを感じるタイプだったようです。自分がリスクだと思う以上、部下にもリスクを冒してまでOKを出せなかったと思います。
営業本部長のOKを取れば、プランが活きるので、たびたび飛び越え、上司との関係はあまりうまくいかず、評価にも影響しました。私は社内のポリティカルパワーバランスに疎かったし、相手の心理的タイプを客観的に見ることができなかった、と現在なら冷静に考えられます。
それでも、営業本部長の決断で、これまでにないレベルの投資をしてくれましたし、「民の竈に煙が出ているか?」まで、常時気にしてみてくれた姿勢に感謝しています。おかげで思うような展開ができ、全社挙げての大プロジェクトとなり、毎年の売り上げ目標・投資は、それまではありえなかったレベルになりました。5年目には私が初めに担当した製品の売り上げの10倍、1000億を達成し、そのブランド戦略は業界でも注目されました。

その7.ダイバーシティ推進室を立ち上げたこと

定年を前にして、ダイバーシティ推進室を立ち上げるようにオファーがありました。グローバルからは日本法人の女性社員、特にマネージャーレベルの割合が、他国に比べ異常に低いこと。女性の医薬情報担当者(MRといいます)の定着率が悪く、何が課題か特定する必要がありました、私も定年を前に、新しいこと(ひとに関わること)にチャレンジしたいと思い、最後の仕事として引き受けました。プロマネの経験は大いに役立ちました。組織を横につなげる仕事だったからです。プランニングはお手のもので、どうあるべきか、何をしたらいいかイメージし、実行に移し始めましたが、ここでも再び抵抗勢力がバリアーになったのです。
部門設立と同時に女性MRフォーラムを宿泊付きで開催し、彼らの声を聴く場を設けました。そして、ファミリーデイを企画(家族にどんな会社で働いているのか知ってもらうため、社員ボランティアを募り、彼らのアイデアを実行してもらいました)・実施しました。また、ダイバーシティは女性だけの問題ではなく、男性の問題でもあることに気づいてもらうため、残業を少なくするためのタイムマネージメントセミナー、テレワークのパイロット、社員が会社の仕事の流れを理解し、自分の仕事に誇りをもてるような、フォーラム、社員のモティベーションにつながるものを次々と実施しました。本題に切り込む前に、2年でやめることになりましたが、この仕事のおかげで、社外の人たちとのコンタクトもでき、それまでの私のキャリアは井の中の蛙だったことを痛感しました。社外には素敵な女性たちがたくさんいたのです。

私にとってキャリアとは?

自分のキャリアを振り返り、「出過ぎた杭は打たれない」を基本哲学として生きてきたように思います。それがプラスにも、マイナスにもなります。会社組織の中ではもっとしなやかに、したたかに行動してもかったとも思いますが、私なりのブランド作りをしてきたつもりです。
キャリアは人生そのものだと思います。仕事はその中の一部で、経済的自立の基本になり、社会とのつながりもできますが、仕事つながりだけではなく、on/off両方の人間関係を意識して作っていくことが大切です。そのためにはできるだけ多くの引き出しを持つことも役に立ちます。多様性を理解しインクルージョンを実践することも一生の課題です。
定年後は仕事関係のひととは次第に疎遠になります。別の人脈を持つこと。自分はどんな人生を送りたいかイメージを持つことが、より豊かな人生を送るための助けになります。
私は、長い経験の中でいろいろな人に頂いた恩を、次世代に役に立てられるか?恩送りの精神で生きていきたいと考え、行動しています。
私の経験が、この文章を読んで下さった方に何かの参考になれば幸いです。