塩野崎 佳子(しおのさき よしこ)

塩野崎 佳子
  • 1972年 南山中学高等学校女子部卒業
  • 1976年 学習院大学文学部イギリス文学科卒業
  • 歯科医の夫と娘2人と暮らしながら、母の介護に従事。かたわらヴォランティア活動に従事

出逢いの点と点を繋ぐ~ご奉仕のお恵み~主婦ができること

大いなる田舎と呼ばれる名古屋で、高齢の母の介護をしながら、歯科医の夫とふたりの娘と暮らす主婦が、木全ミツ理事長と出逢ったのは、2011年の「3・11」後の地元・中日新聞の記事がきっかけでした。 「復興は東北だけの問題ではない。日本中の持てる力を結集し、女性の力をもっと発揮しなければ。75歳までは人のお役に立つ存在であろうと決めていましたが、今の活動を80歳まで延長することにしました」 と復興支援を高らかに公言する姿勢に深く共鳴しました。

幸運にも、木全さんが私の母校である南山高校に、1年だけ在学されたご縁もあって取材のお願いをいたしました。母校の同窓会の、会報誌編集やWebサイト発信に関わる中で、復興支援を新たな使命とされたJKSKの活動について、継続的にご紹介をさせていただくことができました。

それまでも、子育てをしながら、機に触れて、自分のでき得る範囲の奉仕活動を続けて参りました。始まりは、下の娘が幼稚園にあがり、ようやく自分自身の時間がもてたことで、社会との接点を願ったことでした。 しかし、子供優先の時間を担保するためには、やはりヴォランティアで貢献できることを考えました。

折しも、娘たちの幼稚園がスペインの修道会の運営する団体だったため、園のスペイン人シスターの依頼を受け、西語和訳のお仕事に与りました。園の母体である「聖マリアの無原罪教育宣教修道会」の創立者(聖カルメン・サジェス・/1844~1911)に、カトリック教会ローマ教皇庁から、 1998年「列福」・2002年「列聖」の宣言がなされた際には、創立者の伝記や修道会の歩みを翻訳させていただいたことから、ヴァチカン聖ピエトロ大聖堂での列福式にも参列させていただきました。ご奉仕の大きなお恵みでした。
その後も、スペイン語の師のひとりである、国際トマス・マートン学会会員でもあったシスターマリア・ルイサ・ロペスのご著書を始め、スイス国籍の宗教家・哲学者「ThomasMerton」の英語・西語版を翻訳する仕事を、シスターご高齢による母国召還の2011年まで続けました。

とりわけ、想いを伝えることを諦めてはいけない。書くことで届けられる想いもあると強く感じるようになった出来事がありました。娘の通う高校(私の母校でもあります)のPTA活動で、年に2度開催する、在校生や学校関係者のための講演会を企画する役目を仰せつかった時に遡ります。
「誰の講演を聴きたいか」。保護者宛のアンケートをとったことが、自らのハードルをさらに高くしました。断トツ一位は、「作家・五木寛之」さんだったからです。『大河の一滴』『他力』などが、次々、出版され、自殺者が交通事故死者を上回る時代に、人は大河の一滴であり、諦めることから人生は始まるといった、五木さんの人生観がベストセラーとなっていました。「だからって、五木寛之さんは、ないよね」と思案する中、偶然、名古屋駅ビルの書店で「五木寛之サイン会」があることを新聞の市民版に見つけ、整理券を手に入れ、長蛇の列に並びました。五木寛之先生!の前に押し出された瞬間、「母校の講演会にいらしてください」と懇願しました。 五木さんは、驚いた顔をあげて、「マネージャーはいませんので、サイン会を主催している幻冬舎の担当者に話してください」と少し訛りのある低音で、 後ろに控えていたマネージャ―代わりの男性を示しました。「企画書を提出してください」。指示された幻冬舎宛に、人生初の企画書を送りました。パソコンもありません。 なぜ、母校(娘と私の)に来ていただきたいのか、ただ、切々と手書きで心情を綴りました。「母校は『人間の尊厳のために』を校訓とする男子部・女子部・国際校のある中高一貫のミッション校。 かつては、生徒たちが、マザー・テレサや、ペルーの公邸人質事件で仲介役を果たしたシプリアー二司教さまをお招きしたこともある社会への関心の高い学校で、その保護者が、今、五木さんのお話を求めている」。「保護者会主催で講演料が僅かな額でしかないこと」も書き添えました。五木さんからのお返事は、「情にほだされた。お受けする。講演料は気にしません」でした。

五木さんの唯一の条件が「先生と呼ばないでください」だったことから、過剰なもてなしや仰々しい挨拶を排し、主婦目線で準備をした講演会場は満席でした。講演後は、女子生徒からの花束のみで見送りました。翌日、幻冬舎の担当の方から、「五木さんが連載中の日刊ゲンダイで、この講演会について触れておられる」旨のお知らせをいただきました。 夕刊紙には、「今、名古屋の学校の講演会を終えて、次の訪問地・金沢に向かう列車の中です。昔懐かしい木の香りのする校舎で、気持ちよく講演を終えたところです」と書かれていました。お贈りした花束を金沢まで持っていってくださったことも知りました。

娘の卒業後は、PTA活動から、冒頭の母校の同窓会活動に関わるようになりますが、「家庭の中に在っても、社会に向けた心の扉だけは、いつも開けておこう」と思うようになったのは、この経験からです。そうした「心の眼」が、時には、政治の在りかたや社会に向けた疑問を通り越し、憤りとなって行動に繋がることもあります。とりわけ、東日本大地震後は、原発事故後の問題や、罹災者への対応など、 名古屋にいても、身体の奥底から湧き上がってくる焦燥感や苛立ちを押さえることができませんでした。そんな時、木全さんの震災復興活動が、大きな指標となりました。JKSKサロンでのご縁から、月刊誌「きらめきプラス」で、自分の眼でみた福島の現状を、「原発・帰還困難区域を訪ねて」・「竹下景子さん・かたりつぎに寄せる願い」・「河北新報社・再生へ心ひとつに」として発信しました。

現在は、90歳の母のために、ナイチンゲールの日々です。介護は、人間の第1次欲求と向きあう作業だとつくづく思います。食べて排泄して眠る。母が、人として命と尊厳を全うするために、この3つの基本が快適に行われるよう介助するのが、今の私の最優先任務です。 季節の移ろいを感じられる献立、器やお膳に工夫を凝らしたり、庭の柚子や菖蒲をお風呂に浮かせたり、単純な日々にこそ、変化が求められます。一時は、医師に、「手術は高齢でムリ。あとは天寿をまっとうさせてあげてください」と「絶縁状」をつきつけられ、世間や医療者から切り捨てられたような母が哀しく愛しく思えました。訪問医による在宅介護を決意し、点滴で栄養を摂りながら、認知症状の「休眠状態」で目が宙を彷徨っていた母を介護して一年。今では、車いすで家族と食事に出て、会話に加わるまでに奇跡の恢復力をみせています。家族の見守りや語りかけで、一度は、消えかけたに見えた「生きる意欲」を取り返してくれたようです。

毎日、朝陽の差し込む母の居室のカーテンを開けるとき、「雑事という仕事はない。雑にするから雑事。心をこめてすれば大事」という座右の銘が蘇ります。これは、同じく、PTA活動の講演会で、母校にお招きすることのできたシスター渡辺和子さんから頂いた言葉です。折にふれて差し上げた書状への返信で、「知性・雅性・安定性を大切にしてまいりましょう。3つ目の安定性が最も難しいのです」と教わりました。地味な営みの重ねの中で一喜一憂することもありますが、ブレない姿勢で、日常のささやかな「大事」を務めながら、「心の眼」を社会に向けて少しだけ開けつつ、進んでおります。