加藤 孝子(かとう たかこ)
名取名 藤間勘七孝(ふじまかんしちこう)
- 1938年 東京都世田谷区に生れる
- 1957年 お茶の水女子大付属高校卒、
- 同年 日本郵船(株)に入社・勤務
- 1958年 日本舞踊藤間流の名取となる。
- 1958年 結婚、二児の母となり、1968年夫の転勤でニューヨークに在住(6年間滞在)。
- 1972年~1974年 ニューヨーク市立大学 クイーンズカレッジ留学
- 帰国後、1975年 舞踊の師範教授免許取得し、舞踊活動を始める。
- 舞踊の指導の傍ら、国立劇場及び川崎及び各地の劇場や能楽堂で舞台出演し、リサイタルも主宰。
- 海外での各地の国際文化交流を行い、これまでに15カ国、述べ70公演を超す。
- 2017年 公益社団法人日本舞踊協会より「永続舞踊家」として表彰状授与
さて、周囲の誰をも驚かせた冷戦中の東欧への公演旅行だが、もちろん様々な ハプニングで、ハラハラドキドキ続きであった。その様子を日記風につづってみよう。
はじめての東欧1か月公演 ~ ハプニングの連続を乗り越え、公演は大成功!
1986年9月19日10時成田空港発。
いよいよ東欧への1か月公演旅行の出発である。モスクワ経由、ユーゴスラヴィア(当時)のオシェック空港に着いた。(ベオグラード空港の突然閉鎖で急遽変更された。)出発早々出鼻をくじかれて空路が断たれて途方に暮れていた私に、主人がユーゴスラヴィア人の友人にすぐに連絡を取りバスを手配してくれた。主人が「神の助け!」に見えた。果して無事にバスが来てくれるか待つこと1時間・・・1台の大型バスを見たときは思わず団員皆大拍手で出迎えた。
ここから先東欧4か国の長旅は全て陸路、バスでの乗り継ぎ移動となる。
運転手は英語ができない、私は英語しか話せない。ともかくも荷物を積み込んで、私は助手席に座り、出発!
外の景色は果てしなくとうもろこし畑。何時間走っても延々と続くとうもろこし畑…。長旅でうとうとしているとバスが止まった。黙って運転手が外に出た。心配していると路上で売っていた青リンゴの袋を手に戻ってきた。
それを私たちに買ってくれたのだった。飲まず食わずの私たちはみなリンゴにかぶりついた。みずみずしく、やわらかく何と美味しかったことか!!
私たちは息を吹き返した。しばらくしてみなトイレに行きたがった。
トイレ、トイレと叫んでやっと通じたようでドライブインで小休止。みなトイレに駆け込んだがすぐ戻ってコインコインと叫ぶ。コインがないと開かないトイレなのだ。
通貨を変えていないのでまずドライバーにコインを借りてやっと用をすますことができた! 外国ではコインがないとトイレに入れないことを知った。
9月20日(土):23:00出発。
11時間バスに揺られて、やっとの思いでリエカ市のホテルについた。翌朝、川崎市長からの親書を手渡し、すぐに最初の劇場のオペラハウスに行った。
9月22日:今日からいよいよ東欧での本公演の始まりである。皆引き締まった気持ちで初日を迎えた。これから4か国、11都市、13公演の長旅のきついスケジュールの初日だと思うと緊張したが、私たちは疲れも見せず、満席のお客の前で気持ちよく踊ることができた。そこは、アドリア海に面した明るい長閑な街の700席程度のコンパクトながらきれいなシャンデリアのあるオペラハウスで、大きな拍手で大成功だったと喜ぶ。
9月23日:9時にバスでリエカを出発。ハンガリー国境近くで一夜を過ごし、翌夕方迎えに来るはずのハンガリー側のバスを待つ。引き継ぎの急な変更でなかなか来ない不安を抱え、連絡・奮闘すること3時間。やっとバスと英語の通訳/世話人に会えて、ハンガリー側の国境を超えることができた。
あとはまたバスに揺られてひたすら走ること11時間。やっと第2の公演地、ハンガリーの北東カジンクバルチカに到着したときは夜中の2時だった。
化学工業地帯で工場とアパートが並び、およそ文化に縁がないように見えたが・・・。日本文化が盛んで、他にいけ花やお茶も盛んで日本文化の関心の強さに驚いた。街には日本人の姿は見受けられず、私たちは珍しそうに見つめられた。
ハンガリー初日の会場―市民館公演も満席で大拍手。大勢の子供たちにサインを求められ嬉しい悲鳴。大きな花束をもらった。
公演前に急遽折り紙のビデオ撮りを求められるハプニングも無事にこなし、夜中に劇場を出てブダペストに向けて移動。バスの中で疲れて仮眠した。
9月26日:翌朝暗い内にブダペストのホテルに到着した。きついスケジュールで団員たちは疲れ気味だが、苦情ひとつ言わずにホテルに着くとすぐに洗濯を始めた。公演に備え、急いで衣裳を点検し、午前11時にはバスで移動。
セケスフェヘルバーに到着し、14時楽屋入り。休む間もなく楽屋での着替えの準備に入る。いったん幕が開いたら着替え時間もぎりぎりで、一切私語はできない。特に『鷺娘』の引き抜き、ぶっかえりを全部着込むため紐1本占め損ねても後に響く。超高度な技術で見せる歌舞伎役者の早変わりの気分だ。
ボロスマーテイー劇場は立派な700席の劇場だった。満席の客が大拍手でカーテンコール3回を受けた。『鷺娘』はドラマチックで感動をよぶのであろうか?
夕食後すぐに再びバスの中で仮眠しながら23時ブダペストに戻る。
9月27日:この日は、どっしりとした1300席の素晴らしい3階円形の客席を持つハンガリーの誇るオペレッタ劇場での公演で、さすがに格調が高かった。
現地のスタッフたちがきれいにステージを整えてくれていた。
お客はほぼ満席。『鷺娘』が終わると割れんばかりの大拍手、カーテンコール4回も続いた。日本大使ご夫妻、担当者ご夫妻、現地担当者も楽屋に来てくださって、テレビビデオ撮り、インタビューなどを受ける。
9月28日:朝ショプロンに向かう。500席の小さな劇場だったので『鷺娘』をカット。終演後、老婦人が楽屋に訪ね、「あまりの素晴らしさに『藤娘』をスケッチしたので絵が完成したら送りたい。住所を教えてくれ。」と感激された。
9月29日、30日:公演がなく、つかの間の観光を楽しんだ。
10月1日早朝:再びバスで移動し、国境でチェコの通訳/世話人(日本語の流暢な好青年ヴァチュカージュ氏)と交代する。
7時間後、チェコスロバキア(現チェコ)のブルノー(Brno)に到着した。
10月3日:ブルノー国際音楽祭初日に出演。午前中は記者会見とインタヒュー攻めに合う。午後10時開演。劇場はレデユータ中劇場で、モーツアルトも出演した由緒ある劇場とのことだった。テレビ中継録画あり。
10月4日:プラハに戻りナザブラドリ小劇場250人のミニホールでの公演。通路まであふれたお客の割れんばかりの拍手とカーテンコールを5回も。切符が売り切れ、大使夫妻の2枚をやっと確保したという。
10月6日:タボールの町はスメタナの「わが祖国」の中の1曲で有名。歴史的にも軍人の町。制服を着た軍人が目立つ。古い劇場で椅子がきしみ条件は良くなかったが満席の大拍手は嬉しかった。
10月7、8日:移動と休息日で8日夜遅くプラハから北西100kmのリトヴィノフに到着する。
10月9日:リトヴィノフは600席の市民館ホール。19:30開演。9割の入り。
10月10日:早朝ドイツ側のバスで国境を通過して東ドイツの東ベルリンへ向かった。
東ベルリンの町の様子はがらりと違う。ブランデルブルグ門の壁を目のあたりにした時の私の大きなショックは今でもはっきり目に残り、忘れられない。ブランデルブルグ門は弾丸の跡、血痕の跡などまだ生々しく残っていた。西と東の境界線上のベルリン駅のホームに食い込んで東側と西側にコの字に仕切られ、しかも超えることのできない壁なのだ。戦争の傷跡が生々しく残っていたこのベルリン駅の壁‼
10月11日:ドイツ人の通訳/世話役は日本文学を独学で勉強している大学生のダニエル君。
10月11日、12日:ベルリン芸術祭30周年に日本代表で参加し、カマースピエール劇場で公演する。楽屋入り口には日本語で歓迎の看板が出ていて、劇場の周りは長い行列が渦巻いていた。
終演後、割れんばかりの拍手喝采を浴び、木村大使と芸術祭主催の責任者からも絶賛され花束をいただいた。
世界に名高いベルリン芸術祭に日本代表として大役を大成功の裡に果せたことは本当に嬉しい。
10月13日、14日:ライプチッヒヘ移動と休息日。
ライプチッヒはベルリンに次ぐ国際大都市。毎年国際見本市が開催される小粋で活気がある街。芸術文化の町としても有名である。
芸術祭の出演料としていただいた大金が片手で持てないほどの厚みだった。ダニエル君に聞いたらこのマルクは国内だけで外国では紙くずと同じだと聞いて私はあわてた。使い道に困り、(当時現地マルクは国内しか通用しなかった)今日中に使わないと紙くずになってしまう。荷物はこれ以上増やせないし、町中を歩いて夕方ハタと気づいた。そうだ宝石を買おう。宝石屋に飛び込んで「この店で一番高い宝石はどれですか?」店員はびっくりして指さしたのが若緑色の「ペリドット」。閉店間際だったのですぐに買い、団員へは記念に琥珀の宝石を買った。ヤレヤレ間に合ってよかった!!手に持てないくらいの大金を手にして一時に使ったのは後にも先にもこの時だけ!今でも記念にその宝石を大切に愛用している。
10月15日:シャウスピエールハウス劇場は800席の立派な大ホール。ここでも満席で大喝采。カーテンコール5回も続き、きりがないので惜しみながら幕を閉めた。楽屋にもサインを求めて列ができた。
10月16日:いよいよ最終公演の日が来た!
明日の朝5:30にはチェックアウトして空港に出発しなければならないので、本番前に朝のうちにダニエル君と別送荷物のリストを作成してオペラハウスに届けなければならない。日本のように電話一本で手続きは出来ない。これも私の仕事なのだ。
最終公演は昨日と同じ劇場で行った。
番組最後の「鷺娘」の支度が出来て舞台が暗転になり、前唄を聴きながら中央に佇んでいるとき、ものみな全てに感謝しながら万感胸に迫って涙が止まらなくて困った。すべての演目が一番の出来だったと感じ、その気迫が観客に通じたのだろうか皆立ち上がって拍手喝采が鳴りやまない。カーテンコールが7回も続き、誰一人席を立つ人がいなかった。仕方ないので出演者全員が客席に降りて握手をしてやっと収まった。
感動の一瞬だった。一か月間の最後の公演が本当に素晴らしい出来栄えで幕を閉じることが出来てこんな嬉しいことはない!拍手の音がいまでも耳にこだましている。
ホテルに戻り、団員全員揃って一人も風邪もひかず元気でしかも気持良く全公演が無事に終わったことを祝って乾杯した。ドイツビールとソーセージが美味しかった!
準備段階から本公演に至るまで、言葉や習慣、政治体制の違いから、様々な手違いやスケジュール変更などもあって、ハラハラし通しだったし、バス移動も極度にきつい公演旅行であったが、現地の通訳の人達も私たちに付ききりで尽くしてくれ、自分も団員も、信じられないくらいの力を発揮できたのだと思う。
また夢中で駆け抜けたものの、後で考えれば、東欧の体制崩壊前夜の微妙な空気感の中での貴重な体験だったのだと思う。
芸術には言葉はいらない。と誰かが言っていたのを思い出す。特に日本舞踊は日本人ですら理解し難く敬遠されがちな芸能なのに、外国でしかも文化も民族も異なる人々に理屈を超えて感動を与えるものは何なのか?人の魂を揺さぶるものは何なのか?
芸術――日本舞踊にも人間の魂を揺さぶるそんな力があるのか・・・私はこの時ほど感動と共に考えさせられたことはない。
東欧公演その後
数年後の1989年、ベルリンの壁が崩壊されたその年に、私の舞踊の通訳をしてくれたダニエル君が日本に飛んできて、真っ先に私に「ベルリンの壁の一片」を東西融合の印としてわざわざ手渡してくれた時は感動の瞬間だった。私の舞いが一人の無名の青年を訪日に結び付けてくれた歓びは今も忘れない。
チェコの外交官の友人はチェコの革命で職を失い、家族を失ったが、その後弁護士となり、今でも親友として友好を温めている。通訳の友人は度々来日して日本と関わる仕事をしている。国の体制が変わると市民の生活も人生も一変する怖さを身近に実感したが、現在のプラハは町全体が生き生きと活気づいている。
その後も国際交流基金や企業や受け入れ側のご協力を戴き、アメリカ(アラスカも含め数都市)、豪州、ニュージーランド、シンガポール、香港、中国、韓国、バーレーンなどで公演を重ねている。とくにバーレーンは3回も訪問し、国王にも拝謁した。砂漠でのらくだの群れ、美しい月と星の中での歓迎会はまさに別世界で、琵琶とウッドの音楽の共演の感動は今もしっかりと焼き付いている。加えてネパール国王の御前での舞い、中国の絹の産地杭州での国際シルク博覧会に招待され、私のオリジナル作品である、蚕伝説の舞踊『絹の道』を披露し、現地の各新聞でも話題になったことなど、これまで15カ国、公演回数は70回以上行脚してきた事になる。
5年前、思わぬ大病を経験しつつも、81歳になる現在も、大勢のお弟子さんに日本舞踊を教え、この秋にも2つの公演をこなすなど元気に活動している。
さまざまな出会いとご縁のお蔭で活動が広がり、いつの間にか東西を問わず友好の絆の一筋を編み出すきっかけになったことは感無量である。とともに、これまでのすべての出来事にかかわった方々、協力してくれた人々に心から感謝しつつこの稿を終えたい。(完)