芹澤 充子(せりざわ あつこ)
コーデックケミカル株式会社 国際部取締役
プロフィール
<履歴>
米国加州オクシデンタル・カレッジ数学科卒業
米国大手ダウケミカル日本株式会社に入社、初めての女性の営業
同社機能製品部 プロダクトマネージャー
同社イオン交換樹脂・逆浸透膜営業部 部長
米国転勤にて、本社のスペシャルティ・ケミカルズ マーケティングマネージャー
同社アジア13ヶ国地域担当:
ビジネスリサーチ & 営業戦略本部長
カスタマーサービス アジア地域 ディレクター
ダイバーシティ&インクルージョン パシフィックエリアディレクター
<主な活動>
● ザ・ジェネシス・アワード表彰 (社員としてグローバルに一番名誉のある賞):リーダーシップを発揮したことにより従業員の推薦により選出、アジア地域より1人、世界で10人が受賞
● アジア地域において、女性活躍推進ネットワークWomen’s Innovation Network (WIN)を13ヶ国に設立し、女性の地位向上に貢献
● 障がい者への理解を深めるためのDisability Employee Network (DEN)を設立。社内外でも障がい者支援に貢献
● その他の社会貢献:非営利団体 日本で最も美しい村連合
1974年当時、アメリカの大学を卒業して、日本に帰り、仕事をさがしました。日本の大学を出ていないので、日本での就職口をどのように探すのかわからず、頼ったのは新聞。日本の企業に電話をしたり、履歴書を送っても、どの会社も面接さえさせてもらえませんでした。帰国してから1年近く仕事はなく、まるで就職浪人でした。仕方なく外資系の会社へ応募します。その当時外資系の会社での女性の仕事の花型は秘書でした。秘書は、英語が出来、タイプが出来、そして速記が出来なければいけませんでした。しかし、私は速記が出来なかったので、こちらも不合格。日本の会社にも入れず、外資系もダメなのかとかなり落胆。1週間ぐらいして、アメリカの化学会社から電話あり、内勤の仕事はどうかと言われ、その仕事自身何であるかわかりませんでしたが、テストを受けて無事合格! やったー!という気分になりました。
晴れて入社・そして第一歩
内勤とは、今でいう業務というかカスタマーサービスのような仕事で、営業部に所属し、注文を取ったり、サンプルの手配、営業マンのアシスタント。内勤の仕事では、色々な形式の仕様書を使わなくてはいけなかったり、暦年のデータを出したりしましたが、先輩から受け継いだ仕様書やデータが、使いにくかったり、わかりにくかったりしたので、変更したいと上司に提案したら、OK。この最初のOKが大きかったのです。それを聞いた大阪の営業所が最初に、そして名古屋の営業所も福岡の営業所もが、その仕様書を欲しいとリクエストしてきて、結局は私が提案した仕様書が会社のスタンダートになりました。その時私は、「会社を変えた」と嬉しく思いました。
内勤の仕事をしていると、見積はまだかとか、サンプルを輸入してくれないかとか、お客様から電話が入ります。内勤にはその権限がないので、営業マンに聞くしかありませんが、時には営業マンがなかなか返事をくれないためにお客様から怒られることがありました。その時、もし自分で判断出来たらいいなあと思い、営業をやりたいと申し出ました。営業マンも上司も、化学業界は保守的だし、女性の営業は日本では無理だと言われました。私にとって営業本部長はその当時は外人で雲の上の人でしたが、廊下ですれ違った時など、「営業をやりたい」と直談判しました。あまりにもしつこく言い続けたせいなのか、ついに2年後、「日本で女性の営業マン第1号」になりました。自分がやりたいと思ったら、自分の「希望」を口にすることが大切だと思いました。
はっきり言ってその時は、会社もよく知らない、製品もよくわからない、お客様もよく知らない状態でしたが、ルンルン気分で営業をスタート。しかし、当時、化学業界では女性の営業マンはいなかったので、お客様が困惑していました。男性の人を連れてきて欲しいと言われたこともありましたし、地方の工場に商談で行っても、窓口では、サンプルを届けにきたの?と言われる始末。
営業になっても社内でも、社外でも、異端児扱いで、なかなか溶け込めるような感じではありませんでした。営業はお客様との信頼関係を作っていかなければいけない中、お酒は強くありませんでしたが、接待も必要でしたし、下手でしたが、ゴルフもプレーする必要がありました。男世界で信頼関係を築きあげていくのは大変でした。そんな中、一番力を入れたことは、お客様が質問してくることや欲しいと言う市場のデータ等でした。インターネットのない時代でしたので、調べたり、海外の人に聞いりして、必ず返事をしました。 お客様自身も社内での報告などで、世界の情報等を求めていましたので、「芹澤さんに聞けば何か探してくれる」と言われるようになり、少しずつ営業ウーマンとして受け入れられてきていると感じました。
幸せは長続きしなかった
営業になって2年ぐらいした時、部長に「昼飯でも行かないか?」といわれ、話をされたのが「営業部の広報担当にならないか」という打診でした。自分なりに仕事の仕方が分かってきた頃だったので、言われた時はショックでした。部長曰く、他の営業から「お客は困惑しているし、芹澤さんも営業をやっていて大変らしい」という事をきいていたらしい。いわゆる“ボーイズクラブ”では私のことが話題になっているようでした。私は、「まだ未熟かもしれませんが、営業の仕事をやりたい」と訴えました。結果として、部長は私の意見を取り入れてくれ、営業を続けることができました。その時感じたことは、これはやはり競争の世界で、自分がやりたいことをはっきり言えなければ流されるのだということでした。この時、私にとっての正念場だと思い、再びチャレンジ精神に火がつきました。
仕事が面白くなってきた
段々と経験をつんでいくなか、社内外でも受けいれられるようになっていき、仕事の結果もだせるようになりました。そして8年後、プロダクトマネージャーになったのです。営業マンは営業部長の傘下であり、プロダクトマネージャーの部下ではないなか、担当の製品をもち、会社に貢献できる企画や戦略を進めて行くのが役割です。自分で提案し決断できることはうれしいのですが、ただのアイディアだけでは実行できません。営業担当者に対して説得して、納得してもらわないと誰も動いてくれません。ここでも、また新たな信頼関係を作っていかなければいけませんでした。
一方、日本のお客さんの品質に対しての要求は常に高いものでした。特に国内メーカーとの競争では、品質面、サービス面等国内メーカーはすべての対応が良かった為、お客様のリクエストに対して、米国本社との闘いでした。当社はアメリカではマーケットリーダーとして成功しているが故、日本の細かな要求をなかなか取り入れてもらえませんでした。しかしながら、アメリカの医薬用途でも、世界的にやはり高品質のものを要求されており、日本のスタンダードの高さはアメリカの市場にも影響を与えていました。
アメリカへの転勤
1988年、それは突然来ました。部長から「アメリカ本社でのマーケティングマネージャーのオファーが来た」と。まだアジア人の、そして日本人の海外転勤がそれほど多くなかった時代だったので、びっくりしました。アジア女性としては初めての起用でした。
アメリカ転勤では、本社の営業部の誰も知らない、雇客も知らない、アメリカマーケットも知らない、アメリカ本社におけるプロセスやツールも知らない。ましてやビジネススタイルも知らない。それは新しい仕事場での新しい人間関係作りの始まりでした。アメリカはとてつもなく大きいところでした。26営業所の営業マンは、私の部の5人のマーケティングマネージャーの製品を担当しているので、各マーケティングマネージャーは、営業マンにいかに自分の製品にどれだけ時間を使ってもれえるかの取り合いでした。営業マンに度々会えるわけでもないですし、ましてやその先にいるお客様にもなかなか会えません。プロアクティブなコミュニケーションで、ネットワーキングを広げていくことが大切でした。
アメリカに転勤して一番大きな学びは「Out of Box Thinking (枠のとらわれない)」という事。あるプロジェクトを進めていた時、一人の営業マンがある提案をしました。リーダーの私の即答は「それはできない。会社のルールに反するから」というものでした。その時営業マンが言ったのは、「そのようなルールを壊していかなければ、我々は大きくならない」と。ビックリしました。当時お客様からのクレームに対して化学品業界では「問答無用で返金」等の対応はありえなかった。メーカーはスペックに合った製品をだしているので、お客様のテスト方法が悪いとか、使い方が悪かったのではないかとお客様に問うのが当たり前でした。現実にアメリカではそのようなケースがあったので。当時、我々が販売していたものは医薬用の超高級品であり、自信をもって供給していました。製薬会社の方で品質にうるさく、使う前に細かい受入検査をするので、そこで何等かのクレームがあり、受け入れられないのなら、それはどう転んでもお客様は使えないのだからと判断すべきです。色々質問したり、お客様サイドに落ち度がないか聞くのは、メーカーとしての信頼関係の為にも良くないのだから、「問答無用の返品」を受け入れるべきであると言う結論になりました。それからは、社内の製造、品質管理、物流、経理など各部門を説得に回り、社内で初めてこの製品に限り「問答無用の返品」(Money Back Guarantee!)の新なルールが認められました。法律や規則上、安全上に影響しない社内のルールはチャレンジして変更すべきなのだと思いました。この社内での壁を壊したことは大きな経験でした。その後の私の考え方に大きな変化を起こす結果となりました。
初めてのラインマネージャーに
アメリカでの生活と仕事をエンジョイしているさなか、日本でのラインマネージャーの話が来ました。これまでの日本とアメリカでの仕事では、営業マンは自分の直属の部下ではありませんでしたが、日本では初めて「部」を任され、部下を持つ「部長」職です。この時代では、女性の部長は社内外で受け入れ難かったのですが、「営業部長」として帰国しました。 日本の男性にとって初めての女性の上司となる中、一人の年上の営業マンは会社を辞めていきました。アメリカ本社で勤務したことが、背中を押してくれたので、アメリカ転勤を勧めてくれた本部長に感謝しました。
部長になることはロールモデルも居なかったので怖い部分もありました。部長の責任を考えた時、「責」は「責められる」で、「任」は「任せられる」だから、責任は重く辛いのかなあと。でも英語でいうと「Responsibility」で「Response(対応する)」で、「Ability(能力)」で、上手く対応していくことなのだと自分を説得しました。そして言えることは、課長と部長とでは大きな差あること。社内でも入ってくる情報が違うし、お会いする人たちも違ってきて、今まで見ていたのとは違う視野に立ったと言う事でした。部下の評価・将来性をみることになり、人の話を聞く事がいかに大切かを新たに認識しました。
会社とは、人材とは
部長になると会社の持続性(サステナビリティ)のために、ともかく「利益をだすこと」、それ以上に「人を育てること」が重要だと痛感しました。松下幸之助氏が言ったように、「会社は人なり」で、結果を出すためには一人ではできず、周りの人材がすべてだと思いました。しかし、人材には「将来のリーダー」と思える人には、機会を多く与え伸ばしていく、会社の70-80%の「大切な人材」で会社を支えてくれている人達、しかしながら中には「ミスマッチの人材」もいます。そのミスマッチとはたまたま所属している部や課があっていないので移動が必要な人、会社のカルチャーに合わない人がいるのも事実です。外資系だったので、「ピープルレビュー(人事評価)」は毎年かなり時間をかけてやっており、部下だけでなく、すべてのリーダー達もレビューされました。私自身、アメリカ時代の上司からの人事評価の時間は楽しかったという経験をしていました。上司は、私のすべてについて準備してくれていました。私の仕事の現状、強味、改良点、そして一番うれしかったのは、将来のキャリアについて分析してくれていたことです。会社にはいくつかのチョイスがあり、自分の行きたい方向があれば、今後その方向のトレーニングに参加したり、その関係の人に会って話をするなり、自分が進みたい方向を見つけるために色々なアドバイスをくれました。私は日本で部を任された時、同じことを部の人たち全員に行いました。部下たちは、自分が会社でどのように見られているか、今後どのような方向性を考えたらいいのかなど、自分自身について知りたかったのです。それまで人事評価について、評価方法や部下のことについて時間をかけて話をされていなかったので、信頼関係を築いていくのに大きな助けになりました。
リーダーシップとは
部長職に限らず、どのレベルでもリーダーシップは必要だと思っていました。リーダーシップを遂行するためには決断力と行動力を必要としますが、私が一番需要に思っていたのは「リスクテーカー」であること。不確定なことがあるなか、将来のことを決めることは、失敗することを考えて怖いが、「エイや」とやれなければ前に進まない。リスクを取った時、100%成功するわけでないので、成功しなかった時が正念場です。その時どのようにリカバーしたか、それでも理解・サポートを得られたかどうかが一番大切なことです。
アジアに出たい
アメリカから帰ってきてからずっと日本の仕事をしていたので、アジア地域の仕事をしたいと思っていたところ、ビジネスリサーチを経て、1998年、アジア14ヶ国のカスタマーサービスを統括するディレクターになりました。アジア14ヶ国では、文化、宗教、習慣、食事、考え方の違いなど身をもって経験しました。例えば、インドネシアのマネージャーに電話してもいつも席にいない。何度掛けてもいない。彼は1日7回のお祈りのため、席にいないのでした。ある時、中国人のマネージャーが退職するので、お祝いをもって行きました。それは素敵な置時計でした。彼女に手渡したのですが、あまりうれしそうではありません。中国語で、置時計は「死」と同じ発音の為、おめでたい時にはあげてはいけなかったのだそうです。そして14ヶ国のカスタマーサービス全員が集まることは、夫々の国でその間注文をとれなくなるので、不可能と言われていました。しかし、ある年の5月1日が金曜日で、多くの国がメイデーで祭日であったことから、週末にかけてカスタマーサービス150名ほどがシンガポールに全員集合、大集会を初めて成し遂げました。人と人が出会って、14ヶ国のカスタマーサービスがワンファミリーになり、より強い絆ができました。
私の選択
それまでずっとビジネスに関わってきた私が初めて手をあげて選んだ仕事が、女性活躍推進の「Area Director for Diversity & Inclusion」 (D&Iのアジア太平洋地区エリアディレクター)。このころD&Iの動きが始まり、会社でもグローバルプログラムがスタートして、アメリカ、ヨーロッパにそれぞれディレクターが一人おり、私はアジアの担当になりたく、手を挙げました。 そして、この関わりが私のライフワークになりました。
Women, be Ambitious!
(女性よ、大志を抱け!)
これまで仕事やD&Iをしてきて、一貫していえることは、自分は特別に才能があったわけでもないのに、何もわからず営業の仕事がやれたのは、基本的に「人が好き」だったからだと思います。すべてが「順風満帆」ではなかったけれど、常に前向きに考えようとしてきたこと、楽しんでやれてきたことで、乗り越えてきたと思います。
いままで、「どのようにやってきたのですか?」とか「何がそうさせたのですか?」とか聞かれますが、最後に私として考えていたことをシェアしたいと思います。
自分なりのキャリアを考えるには、
1. 自分自身を知る: 自問自答してみる・人と話してみる。
- 自分の強みは何であるか
- 自分は何が好きであるか
- 何をしていると楽しいか
- 居心地が悪いことは何か
- 何が嫌いか
やはり「好きこそ物の上手なれ」で、好きなことをやっていると楽しいのです。
2. 自分の将来について: 環境は常に変化している
- 自分のチョイス(選択)である
- 自分がやりたいこと
- 努力を惜しまないでできること
- 自信は見つけるもの
自分の将来は自分が自信を持って決める。 それは、変化している環境を見ながら。
3. 自分のキャリアについて: 自分の姿勢
- プロアクティブに対処する
- レスポンシィブ(対応が早い)
- イニシアティブを取る
- リードする
人と同じことをしていては変わらない。 前もって考えるか、即アクションをとるか、新たな提案をするか。自分からリードをするか。これらの姿勢が大切だと思います。
3. 自分のサポーター
- 家族
- 個人的な友だち
- 仕事上の友だち
- 沢山のメンター
自分が仕事を、キャリアを進めているなか、自分へのサポーターの力は必要です。 やはり不安な時もあるし、怖い時もあるし、ガス抜きをしたい時もあります。彼らのヘルプは必ず必要です。そのための信頼のおける人達には常に感謝を。
最後に、水が半分は入っているグラスをみて、「半分しか入ってない」と思うか、「半分も入っている」と思うか、自分自身の考え方次第です。 私は後者を選ぶ努力をしてきました。