橋本 妙(はしもと たえ)
白沙村荘 橋本関雪記念館 名誉館長
1943年 京都生まれ。ノートルダム女子大学卒。昭和42年に橋本関雪の孫にあたる橋本歸一と結婚し、得意の語学を活かして関雪の遺邸である白沙村荘の運営に携わる。華道、茶道にも通じ、国内外の来客をもてなす技術に定評がある。2000年9月より、白沙村荘 橋本関雪記念館の館長として活動。2024年より名誉館長。
相続税をどうするか……
命に拘る暑さというのに池のハスは活々と咲き、見る者に力を与えてくれている。ここ銀閣寺畔に百年以上も前に出現した白沙村荘、橋本関雪の地上に描いた理想郷の池にたった一本の蓮根から、わずか三年で池一面の蓮畑となった。
橋本関雪は、大正から昭和にかけて沢山の名作を描いた日本画家で、私の亡き夫の祖父である。関雪は東山の大文字を望むこの地が気に入り、三〇才の頃から水田の広がっていた千坪余りの土地に土を盛り石を据え、そして木を植えて自らのデザインで作庭をし、アトリエ、住居を次々と創り始め、六一歳で突如世を去るまで、画を描きながら庭園を広げ続けた。
私が嫁いできた時はこの庭園の制作者である関雪翁はもちろん亡く、主人の両親も義母だけで、彼はまだ卒業間近な京都大学の学生だった。
この広大な手入れの行き届かない屋敷をどうするか。主人と姉、様々な識者が智恵を絞っても何の解決法も出なかった。そのため、主人は大学院へ進むことも、就職することもできず、先ず膨大な相続税をどうクリアするかという問題に毎日頭を悩ませていた。
私の協力がどうしても必要だと、当時同じく大学生であった私もかり出され、庭の掃除を始めてから庭園の公開に踏み切った。確か、成人一人百圓、抹茶百圓だったと記憶しているが、私の得意であるお茶やお花でお手伝いができるならと、安易な世間知らずの女子大生がどっぷりこの難儀な家にはまってしまったのである。
考えてみれば関雪翁は三〇年、義両親は何年か分からない、主人は五〇年。結果、私が一番長くここに住んでいることになる。おかしいな、私は兼高かおるさんのように世界をかけ巡る夢に向かって学生生活を送っていたはずなのに。大学を卒業した途端義父が亡くなり、ますます主人の肩にどっしりとのしかかってきた家屋敷。毎日毎日手伝って知らない間に食事を出したり、催し物をしたりあっという間に半世紀以上も経ってしまった。
悲願の美術館を建設
経営や運営的なことについては全くの素人ばかり、そして主人は研究者気質。だからこそ実に色々な方に応援していただけた。関雪翁の意匠のままに大切に守ってきた歳月、その集大成として三代に亘る悲願・関雪の美術館「白沙村荘 橋本関雪記念館 」を建てることができた。
今、私の手元には沢山のありがたい交流、励ましやお褒めの言葉があり何よりの宝物となって残っている。
コロナの大打撃からようやく少しづつ立ち直りつつある昨今、毎日庭を手入れしながら来し方お会い出来た方のご健勝を、関雪翁のコレクションである鎌倉期の地蔵菩薩に祈り、これからも大勢の方々の憩いの場として愛されるよう、お力をお貸しくださいとお参りをしている。
難儀なこと、苦しいことは数多くあるのだけれど、本当に沢山の方々に出会えた幸運は何よりの原動力であり、幸運なことだったと感謝のほかは何もない。