濱野 あづさ (はまの あづさ)
フィールドコンサルタント・通訳

- テレビ番組制作・構成作家修行
- バッサー大学で日本語講師インターン
- ニューヨーク大学大学院 メディアエコロジー卒 MA取得
- NYにて日本のテレビ局の番組制作
- 主にNHKスペシャルなどのドキュメンタリー制作
- ラインプロデューサー・取材・インタビュー
- ブロードウェー他の舞台機構通訳
- NY市の恵まれない地域のアフタースクールプログラム:ドラマティーチャー
- 帰国後、高校の新カリキュラム立ち上げ、講演プロデューサー、特別プログラム制作
- 舞台スタッフ他:通訳
多様なキャリアはどうつくられたんだろう
多くの方は、一つの仕事を長く続け、人生を歩まれると思います。しかし私は一つの会社に所属することなく、番組制作、バックステージ専門の通訳、教育プログラム立ち上げと、全く関連のないように見える別々の仕事に携わりながら、日本とアメリカで生きてきました。この様に、一見、全く関係ないような仕事をなぜ私がすることになったのか、私はなぜこの様な巡り合わせの人生を送ってきたのかを、この原稿を書くにあたり考えてみました。
これには結構な時間を費やしました。そして、今回この原稿を頼んでくださった友人にもお願いし、私の半生を聞いてもらい、彼女の感想を聞いたり、励まされたりしながら、わたし自身の確認をして参りました。
その結果、何かを成すために必要だと信じられている「将来の目標」も「なりたい自分像」も「叶えたい夢」といったものは、もとから私にはなかった。だから、わたしが私の人生を送ってこられたのではないかと思い至り、これこそ、今の私が考え得る答えのひとつだと思いました。
もちろん、そのような人生を目指したたわけではなく、振り返れば、このような人生になっていたということです。私の後ろに、一本の道がありました。自分からは積極的にアプローチをせず、自主的に何かの資格を取るようなこともない「積極的に自分からは動かない人生」でした。前向きな人生ではない受け身の人生ですが、私にとっては前向きであり、私のこれまでと言えるのではないかと思います。
「私の好きなものは何ですか?」
この受け身の人生が送られてこれたのには、いくつかの重要なファクターがあった様に思います。
一つは人です。私は、日本でもアメリカでも、とにかく素晴らしい人々が周りにいて、その時々に必要な手を差し伸べてくださいました。
もう一つは自分からは動かなかったとは言え、これまで起こってきたことは、私が選んできたもの、という当たり前のことです。受け身だけれど、ちゃんと選んできた人生だったということです。選べるようになるまで、この部分だけは努力もしました。
この原稿を書くまでは、私は目の前にきたことに「ノー」と言わず、深く考えずに「イエス」言い、新しいことを躊躇せず始めていたと思っていました。しかし、よくよく考えてみると、深く考えなくても、すぐにこれは自分にとって「GO」だと分かる、私にとってベターなものが選べるベースが、自分自身でも気づかぬうちにできあがっていたようです。私はここでまた考え込みました。どうやってこのスキルを持ち得たのか、ということです。そして、いくつか思い当たる事柄を見つけました。多分一番大きなものは、「これは好きかどうか?」と、私自身にデフォルトでいつも問いかけていたことです。きっかけは、20代のまだ何ものにもなっていない、フリーランス時代に遡ります。音響効果や舞台照明の仕事もやりながら、メインにテレビ制作の仕事をしていた頃に、頻繁に聞かれた「あづさは何になりたいの?」という質問です。番組制作の仕事が面白かったので、そちらの方へ進むだろうと私も思っていました。ということはその先にあるのはディレクターかプロデューサーだと、その頃は思っていました。実際のところ、それ以外の様々な仕事があるのですが、世界の広さをまだ知らない私は、ディレクターかプロデューサーになりたいというような、全く違う職種を一緒くたにするような未熟な答え方をしていました。しかし、この答えがしっくりときていなかったのです。色々なところで同じような質問を「大人」からされる、会社員でもない私にとって、それはとても苦しいことでした。
それで、私は何になりたいのか、何者になりたいのか、ということを考え始めました。考えて答えが見つかるようなことでもなく、どう考えたら良いかも見当がつきませんでした。ボーッと考えているうちに、私自身が私自身のことをあまりよく分かってないから、考えが一つも前進しないのではないと思い至り、では私を知るにはどうしたら……と、考えた時に、「私の好きなものはなんですか」という質問が頭に浮かびました。恐ろしいことにその質問の答えは深海から浮かび上がる儚げな泡のように、ポツ、ポツと浮かび上がるだけで、そこから体系立てて何かを考えるには程遠い、フラグメントだったのです。そこで、もっと身近な、具体的な問いが有効かと思い、まずは作るのも食べるのも好きな「食べ物」のなかで好きなもの、次は好きなところ、その次は好きな〇〇と、質問を広げていきました。このようなプレミティブなところから出発したので、努力をしない私がこの一点、「私がなりたいもの」に辿り着くまでに何年かかかりました。この質問は、多分、今でも継続しているかもしれない、もはやハビットと言えるものになっているかもしれません。
ともあれ、たどり着いた私の答えは、職業のことを考えていたにも関わらず、なりたいのは「良い人間」という言葉でした。この言葉を深く説明するのは恥ずかしいので、割愛させてもらいますが、そこから私は「良い人間」を目指して毎日を送ることになりました。「私の好きなもの」を考えた長い時間があったからこそ、その後私の目の前に現れるチャンスを何も考えずに直感で選ぶようになったのだと思います。
突然始まったアメリカ生活
私の人生の大きな転機になった、アメリカへの移住も、そんな風に始まりました。1988年の秋深まったある日、友人のディードラから電話があり、「あづさちゃん、ただでアメリカ行けるんだけれど、行かない?」という破天荒なオファーでした。すでに好きなものがすぐに分かる頃だったので、「行く行く」と即答。
D「ちょっとだけ働かないといけないんだけれど……」
A「何をすれば良いの、ディードラ?」
D「う〜ん、日本語教えることかな」
A「まぁ日本語は喋れるし、読めるから、教えられなくもないよね。で、教える相手はどんな人?」
D「大学生だね」
そこで、はたと私は止まりました。
A「大学生って、まさか大学で教えるんじゃないよね?」
D「うん、大学」
A「私、英語は一言も喋れないの知っているよね。大丈夫なの?」
D「大丈夫。10年前はしゃべっていたって言うから」
浅はかな私は、それで良いのかと思いながらも、ただでアメリカ、それもニューヨークというオファーをこの電話一本で受けることにしたのです。私を昔から知る友人は、学生時代、英語の成績は赤点・再履修常連の私が、アメリカに行くことにしたことに、ビックリしていたそうです。
蓋を開けてみれば、ディードラの出身校は、アメリカでも指折りの名門校、アイビーリーグと同等のステータスを持つ、元セブンシスターズの大学でした。日本との関係も深く、日本で始めて海外の大学を出た大山捨松の卒業校です。学校はニューヨーク州にはありますが、マンハッタンからは電車で2時間かかる、いわゆるアップステーツのポキプシーという小さな街にありました。高いビルの一つもないこの環境にはびっくりしましたが、バーなども併設している、学校の中だけで完結するスタイルの学園生活は、とても興味深いものでした。


学生達は、頭が良くユーモアーに溢れ、自由な気風を心情に、心優しい素晴らしい人達でした。私は彼らのおかげで、最初の1年を楽しく過ごし、契約も1年延長され、2年間バッサーで日本語を教えることになりました。2年目は、自分で短い台本を書き、生徒達にスキットを演じてもらうこともありました。また、Japanデーという、学生達に狂言や日本の踊りや日本語の歌などを鑑賞してもらう催しを企画し、学校のホールをお客様で埋めました。
そうは言っても、私は英語の授業を受けているわけではないため、英語は全く進展がありませんでした。来る前には2年もアメリカにいればペラペラになると思い込んでいたのに、このまま帰るのは残念だと思うようになりました。アメリカに残りたいと思うようになった私に、「学校に行くのはどう?」と勧めてくれた教授がいました。無謀にも、私はその教授に「私は日本で大学を出たので、もう大学には行きたくない。課題をこなすことより、考えることを要求される大学院だったら行っても良いかも」と言うのですが、これはその後大正解の一言だったと、自分を褒めてあげたいと思っています。これは別の機会にお話ししますね。
教授がニューヨーク大学大学院にあるメディアエコロジー学部の学部長、ニール・ポストマン教授に連絡を取ってくれ、会いに行くことになりました。当時、この学部は新しく、これまでの私のメディアでの仕事とも関係がありそうでした。私が彼に会いに行ったのは、授業が始まる2週間前でした。ニールとは何故か最初から馬が合い、その場で入学の許可をいただき、晴れてニューヨーク大学大学院・メディアエコロジー科の学生になりました。この面会ではっきりと分かったのは、英語力とコミュニケーション力は別のものだと言うことでした。
その後私は、辛く苦しい、しかし人の親切に助けられながらの長い4年間(英語ができなかったので2年ほどで終わる過程を4年かかりました)が始まりました。この時、私は32歳。英語・大学院・ニューヨークシティー、てっぺんの見えない大きな壁が目の前にそそり立つ、不可能への挑戦の始まりでした。
