濱野 あづさ (はまの あづさ)
フィールドコンサルタント・通訳

- テレビ番組制作・構成作家修行
- バッサー大学で日本語講師インターン
- ニューヨーク大学大学院 メディアエコロジー卒 MA取得
- NYにて日本のテレビ局の番組制作
- 主にNHKスペシャルなどのドキュメンタリー制作
- ラインプロデューサー・取材・インタビュー
- ブロードウェー他の舞台機構通訳
- NY市の恵まれない地域のアフタースクールプログラム:ドラマティーチャー
- 帰国後、高校の新カリキュラム立ち上げ、講演プロデューサー、特別プログラム制作
- 舞台スタッフ他:通訳
ニューヨークで働き出した私は、ここでもラッキーな運命に巡り合います。ニューヨークで仕事をするということは、「就労ビザ」を持たなければなりません。これを持たずに働くと「不法就労者・不法滞在者」として強制送還されます。罪人になってしまうわけです。
外国での就職活動は、日本でのものとは全く違う異次元の難しさがあります。メインのタスクはビザのサポートをしてくれるスポンサー企業を探すことになりますが、これが一番の難関だと思います。それを卒業後6ヶ月(だったと記憶しています)の間に見つけなければなりません。その期間を過ぎてしまうと、仕事はおろか長期滞在も不可になります。
ストレスマックスで胃がキリキリする就職活動ですが、その間にも単発の仕事をオファーしてくれた前職の仕事仲間達がいました。そこから、全く面識の無いところからもオファーが来るようになり、なんとその中の一プロダクションが、私のサポートをしてくださる様になりました。
不思議な繋がりとご縁を得て、番組制作の現場に戻ることになりました。
晴れてNYで独り立ちです。私をずっと応援してくれた両親を、やっと安心させることができました。
私にとって、仕事は最高のエンターテインメントです。誤解を恐れずに言えば、最高に素敵なおもちゃの様な宝物なのです。そして私のコミュニケーション力も磨いてくれました。
取材をし、新しい発見や考え方を受け取り、紹介し、それが私達の生活にどう影響していくか、どう影響して欲しいと思っているのか、これらを形にしていくのが、職種は違っても私がやってきた仕事だと思います。これ、いわゆるシャーロックホームズの様な探偵の仕事に似ていると思うのです。
新しいことを知る喜びは子どもの頃から
小さな頃から推理小説を読むのが好きで、クイズ問題を解くことが好きで、新しいことを知ることが好きだったからこその、結果としての仕事と言っても良いかもしれません。
私は10歳頃まで体が弱く、幼稚園は3分の一くらいしか行けず、外で遊ぶこともあまりできませんでした。せっかくいただいたお遊戯会での「お役」も他の人に代わってもらい、当日は見学の傍ら飛び入りでダンスを踊りました。今でもその役の歌を覚えていますから、きっと一生懸命練習したのだと思います。
お尻に注射をする毎日でしたが、気持ちはいつも元気でした。そして、なぜかこの環境を辛いと思ったことはありませんでした。これが私の日常、スタンダードでした。両親には苦労をかけ、たくさん、心配させたことと思いますが、私が楽しくいられる様に工夫してくれたおかげで、お友達とは少し違う日々を過ごすことが私の日常でした。
小学校に上がってからも、外で遊ぶよりは、家で本を読んだり、ドリルブックを解く方が多い毎日でした。ドリルブックは私にとって、強制される勉強ではなく、遊び、クイズのようなものでした。新しいことを知り分からなかったことを理解するのが楽しく、また問題を解くのが面白く、ドリル1冊を買ってきた日に全て終えてしまいました。すぐに母から、1日5ページ以上やってはいけないという「戒厳令」が出たという落ちも付きましたが、これが知らないことを知る楽しさを味わってしまった、私の知識欲の原点だったと思います。
そんなわけで、読書も私の最大の楽しみの一つでした。特に推理小説、その中でも本格的な話が好きでした。シャーロック・ホームズや、エラリー・クイーンの作品など、彼らに会わない日はないほど、毎日読んでいました。犯人探しの楽しさもありますが、一番は沢山の選択肢の中から論理的な推理を重ねていく謎解きが面白く、私の推理や想像を超えたドンデン返しのサプライズにも心躍りました。
これが後に、有る事無い事を思い描きながら新たに何かを創造していくことにつながったと思いますし、思考が自由に、方向を定めないフリーフローの様な形で進められるようになった要因だと思います。そしてホームズが示したように、観察とそれに伴う洞察力が、物事や人物の本質を見極める助けになり、私が手がけてきた取材やインタビューの手法となりました。相手の思いを受け取り、そこにこちらの思いをのせ、緩やかでどこか暖かな言葉と思いのやり取りです。
制作の奇跡
もう一つ大切に思っているのが、インタビューなどでお話を伺っている時に、自分が理解できない事柄が出てきたら、すぐに質問をするということです。深く耳を傾け理解していくことに注意を傾け、お話しの神髄に私の理解が届くよう、その場にしっかりと在りながら真剣にキリッと勝負をさせていただく感じです。例えるならば深く真空の様な海の底に潜っていく感じでしょうか。
駆け出しの頃は、自分が何を理解していて何を理解していないかの狭間をはっきりと見極められず、素晴らしいお話を聞くせっかくの機会を、ぼんやりとしたものにしてしまったことがありました。その反省を踏まえた一期一会の対峙です。この真摯な気持ちは相手にも伝わるようで、心を開いてくださり、底の方から湧き上がってくるような思いをお話ししてくださる方がいたり、これまで誰にも話したことの無かった「痛み」をお話しくださる方もいらっしゃいました。また、話すことで多角的視点に立ち新たな見方ができたり、目標を持ったりと、老若男女関わりなく、その方達の溢れてくるものを、一緒に受け止めさせていただく瞬間を体験することが多くなりました。
ドキュメンタリー制作を続ける中でも、インタビューと同じように培われていったものがあります。
それぞれの主題や目的を、分かりやすく説明するために、この映像が必要、あのドクターにこの治療の話を聞きたい、などマストに近い要求が出されます。そうなると、とにかくその形になるように努力し、関係者を説得し、素材を集め、それらをまとめることが不可欠です。いや、そうだと思っていました。
そしてある時、全く思った通りに物事が進まず、もう頭を切り替えて、そこにあるもので進めて行くしかない状況になりました。私はガックリと肩を落とし、それでもなんとか作品を完成させようと四苦八苦していた時、私の目の前で奇跡の様なことが起こりました。まるでパズルのピースがパタパタとあるべき位置に置かれて行くように、素晴らしい話の流れが出来上がっていったのです。それは、私達の浅知恵で考えたものの何段階も上をいくような、素晴らしいものでした。作品制作の過程で起きた「受け取る」という奇跡の手法でした。不可能を力まかせに可能にするのではなく、可能な形を「待つ」、「持ってきてもらう」ことを学びました。私の仕事は、その後スムーズに進み、クオリティーも上がっていきました。
次にお話しすることも、本当に奇跡の様なことなのでした。
アメリカ同時多発テロのドキュメンタリー
テレビの生中継でご覧になった方も多くいらっしゃる「9.11」ですが、その日ニューヨークには、名だたる戦場カメラマン達が世界中から集まっていました。
それぞれの理由はあるのですが、一つは、ロバート・キャパも所属していたマグナムフォトの世界会議がニューヨークで開かれており、世界中からカメラマン達がその会議のためにニューヨークに来ていました。また、別のゴールデンキャパ賞を何回も受賞しているカメラマンは、友人の仕事の穴埋めのため、前日にヨーロッパからニューヨークに帰り、その日の朝、南米に向かう予定でした。自宅がグラウンド・ゼロの近所だった彼は、すぐに機材を持って現場に向かい、ビルの崩壊に巻き込まれます。しかし、ビルが崩壊した時、彼は隣のホテルの、たまたまドアが開いていたエレベーターに逃げ込み助かりました。
当時のニューヨークでは、「自分家の裏庭が攻撃された」と多くの人が感じていました。言うなれば自分たちの街が戦場になったということです。そこにたまたま世界の名だたる戦場カメラマン達が奇跡的いて、そのおかげで、貴重な報道写真の数々が残されたのです。
私達は2ヶ月後の11月に、これらのカメラマン達のインタビューと写真、そこに起こった多くの奇跡をドキュメンタリーにしました。グラウンド・ゼロの隣に位置するビルの屋上100階から、グラウンド・ゼロを覗くと、上ってくる熱気で顔が熱くなったことを覚えています。地中では、いまだに建物の残骸が燃えていたのです。
もし、私達が取材対象を絞り、ターゲットを決めていたら、この奇跡のような一連の出来事には巡り会えなかったかもしれません。私達の取材がオープンだったので、当時のマグナムのマネージャーとも打ち解け、ワールドミーティングのことも教えてもらえ、何人かのカメラマンを紹介していただけたのだと思います。
受け取れたこと、また受け取る準備が出来ていたこと、来るもの拒まず受け入れられたことが、点をつなぎ、線となり、線をつないで、面となり、厚みのある、多面的な切り口を持ったドキュメンタリーに繋がったのだと思います。小さな、一つずつのつながりが奇跡であること、そして感謝に値するギフトであることを、素晴らしい形で学ばせてもらえました。

玉川学園にて5年間キャリアフォーラムのコーディネータを務めた。
次々とつながるプロジェクト
思わぬ贈り物は、ドキュメンタリー制作だけではなく、プロジェクトを立ち上げる時にもありました。一つずつ独立したフラグメントに、違った角度から光をあてることで、バラバラなものにつながりができます。
ユニセフなどの国連機関、NPO、国際機関から講師をお招きし、約120回の講演をシリーズを5年間かけてプロデュースしたことがあります。第一線で活躍する方ばかりでしたので、そのお話は具体的で、そのお話は具体的で、世界各地で起こっている内戦の厳しさを肌で感じられ、最後の砦となる医療機関の方達が撤退しなければならない緊迫した状況や、危険な地域に行くのでお顔をネットに公表することが禁止されている機関など、厳しい世界を垣間見ることができ、また考えさせられる仕事でした。
その流れで、UNHCR(難民高等弁務官事務所)共催の写真展を開催しました。講演は主に高校生を対象としていましたが、写真展は、幼稚園から大学までの一貫校というユニークなセッティングを活用し、年齢の違う生徒・学生さん達が隣同士で、このパワフルな難民の写真を見る機会を作るというコンセプトを掲げていました。年齢も何もかもを超えて共感し合うような、素晴らしい機会になるのではないかという思いがあり、キャンパスの何箇所かでの同時開催でした。また学外の方達も巻き込みたいとの思いから、キャンパスの外にあるギャラリーでも写真展を行い、大きな、迫力満点の作品群を沢山の方にご覧になっていただけました。様々な年齢の人々が同じ写真を見ながら、その空気感を共有でき、何かを感じられた写真展になったと思います。これも、多くの方々の賛同と惜しみない協力を得られたからこそ実現した展覧会でした。
いくつかの違う仕事をキャリアにしてきた様に見える私の歩みですが、自分ではほとんど同じことをしてきたと思っています。コミュニケーションを大切にし、その発信と受信に心をくだき、誠意を持って真剣に取り組みました。来るもの拒まず、自分の「好きを自覚」し、「正直な選択」をするという、この形が私の仕事の在りようなのだと思います。
多くの、本当に沢山の善意あふれる人々から手を差し伸べられることで、不可能だと思えた事が可能になり、奇跡的な場面に立ち会え、人々の中にある人間的なものに触れる機会を多く持てました。
この原稿を書かせていただき、私がどれほど多くの人々に助けられ、愛ある援助に恵まれた人生を送って来れたのかを、改めて心に深く刻む機会となりましたこと、心から感謝いたします。
ありがとうございました。
