濱野 あづさ (はまの あづさ) 

フィールドコンサルタント・通訳 

  • テレビ番組制作・構成作家修行 
  • バッサー大学で日本語講師インターン 
  • ニューヨーク大学大学院 メディアエコロジー卒 MA取得 
  • NYにて日本のテレビ局の番組制作 
  • 主にNHKスペシャルなどのドキュメンタリー制作 
  • ラインプロデューサー・取材・インタビュー 
  • ブロードウェー他の舞台機構通訳 
  • NY市の恵まれない地域のアフタースクールプログラム:ドラマティーチャー 
  • 帰国後、高校の新カリキュラム立ち上げ、講演プロデューサー、特別プログラム制作 
  • 舞台スタッフ他:通訳  

 NY大学で大学院に入ったことは、私にとってはとてもラッキーなことでした。その頃、まだ英語ができない私が大学院に入学できたのは、アメリカに渡ってきた時と同じようなきっかけでした。1992年の8月も半ば、9月にはビザが切れるので帰国をしなければならない中、私の英語はペラペラには程遠いものでした。

 渡米した時は「2年もアメリカで生活すれば英語はペラペラになるはず」と信じて疑わなかったのですが、ペラペラどころか来た頃とそう変わっていませんでした。このまま帰国するのは残念でしたし、それよりも何よりも恥ずかしいという気持ちが大きく、漠然と残れないかと考えていました。そんな私の状況を知っていた、バッサー大学の教授が、NYUのメディアエコロジーの学部長が私に会うと言ってくれていますよと、話を持ってきてくれたのです。その教授も、私が日本にいる時にテレビ番組制作の仕事をしていたので、メディアエコロジーとは何かを知らず、メディアが付いているからきっと大丈夫だろうと、なんともいい加減な仲介でした(もちろんその教授に大変感謝しています!)。

 2時間ほど電車に乗り、NYUのニール・ポストマン教授に会いに行きました。
ニールは、テレビ出演も多いのにユーモアーいっぱいにテレビ批判をする、いわゆる名物教授でした。入ってから分かったのは、当時メディアエコロジーという学問は、アメリカのNYUとカナダのトロント大学にしかなく、アメリカのニールとカナダのマーシャル・マクルーハンが中心になって進められていました。

英語力を補ったのはコミュニケーション

 夏の暑い日にニールを訪ねた私は、すぐにニールと意気投合します。30分くらい話をしていたと思いますが、話の終わりには、NYUのメディアエコロジーで学ぶことになっていました。英語ができないと言っても、話す力はあったのだろうと皆さんが推察している様子が目に浮かびますが、誓って英語はできませんでした。「英語力とコミュニケーション力は別物」だったとしか言いようがありません。

 これは私にとって大きな教訓であり、勉強を続ける頼みの綱にもなりました。コミュニケーション力をフル回転させて、NYUを卒業したと言っても過言ではありません。この学科では、社会に存在するあらゆるものをメディアと捉え、そのメディアを構造的、多面的に理解し、メディアが及ぼす、社会・文化・政治など私達の生活への影響を考察する学問でした。そして私達がメディアに及ぼす影響も、新たな角度として学問に取り入れられ始めていました。

 最初の授業は、本の読み方についてでした。今さら本の読み方と驚かれるかも知れませんが、この授業は英語ネイティブの学生達もギブアップしてしまうほど大変な授業でした。そんな授業に私がついていけるわけがありません。が、しかしついていくしかないこの状況を切り拓いてくれたのが、頼みの綱のコミュニケーションの力でした。

 1学期目の授業は、アドバイザーが私の力量を考えて、週一コマの授業でした。しかし私は、親切な先輩達に課題のヒントを教えてもらうため毎日学校へ行きました。アドバイザーのジャネットに至っては、毎日、日に何度も私の相手をしてくれました。彼女がいなかったら、卒業できなかったと断言できます。次第に授業の駒数も増え、私の学校詣にも拍車がかかります。授業の前か後には必ず担当教授に会いに行き、私が今何を考え、どの程度授業を理解できたかなどを必ず伝えるようにしました。最初は勇気が入りましたが、コミュニケーションの力を信じて努力しました。

夜中までいた図書館

思い切った試験対策

 私にとって多くの難関があったNYUでしたが、最難関の一つが、テストのある必修科目でした。「書く・聞く・話す」の中でも書くことが一番苦手だった私は、答えが分かったとしても、それをちゃんと書ける自信はありませんでした。教授にその旨をお伝えし、科目をパスしたかどうかだけが記録に残り点数は記録に残らない、パス&フェールという採点方式をとりたいと、学期の最初にお願いに行きました。2年目だったので、教授も私のことは聞き及んでいたようで、「君はちゃんと試験を受けるべきだし、出来ると思う」と根拠のない(しかし、暖かくてありがたい)自信を私に対して持ってくださっており、パス&フェールは却下されました。しかし私も必死ですし、何より自分のことは自分が一番知っています。答えが分かったとしても、テスト中にそれを文章として書き終えることは不可能だと確信していました。教授に「ならば、テストを受けるけれども答えが書けなかった時点で、口頭で答えても良いですか?」と申し入れ、教授はOKを出してくださいました。

 さて、テスト当日。問題は三問。最初の問題の答えを3行書いたあたりで、私は書くことをあきらめ、答えを考えることに集中。考えがまとまったところで、立ち上がり、教授のところへ行き、「教授、覚えていらっしゃいますか? 書けない時は、口頭で答えても良いとおっしゃってくださったこと」と言いました。教授はちょっとびっくりしていましたが、「覚えていますよ」とおっしゃってくださいました。「では」と、私は教授の耳元で答えを小声でしゃべり出しました。

 教室の中は静かで、クラスメイトのカリカリとペンを走らせる音と、そして答えを言う私の小声。ちょっとシュールな雰囲気でした。クラスメイトも驚いていましたが、彼らも真剣。ペンの音が止まるようなことはありませんでした。テストの結果は三問とも正解。成績もAをとることができました。この前代未聞な申し出を受けてくださった教授の度量に、今でもとても感謝しています。

 英語が高校1年生レベルという逆境の中、私がNYUでマスターを取ることができたのは、逆境には逆境における努力の仕方があったからだと思います。自分の得意な分野を駆使し(私の場合はコミュニケーション)、「ラ・マンチャの男」のドン・キホーテのように自分の思うあるべき姿になるべく、地道に、積極的に精進すれば、それなりの(私は通常の2倍の時間がかかりました)成果が得られるという事です。

 後年、アドバイザーだったジャネットに聞いた話ですが、英語のできない私が、最初の難関授業をパスできたことは、その後、伝説のように語られるようになり、「あの英語ができないAzusaがパスしたのだから、あなただったら絶対にできる」と、多くの学生達は勇気づけられたそうです。これを聞いた私も、ジャネットと大笑いし、大変だった時を懐かしく思い出しました。

ニールやジャネットと共に写る私(中央)と両親(両端)

いろいろな視点を持って思考する

 私が鍛えられたもう一つの力は、一つのことを様々な角度から見ること、思考する癖でした。

 1986 – 7年ごろ仕事で、放送作家の卵として週5日のバラエティー帯番組の企画を、毎週毎週、企画会議に出していた時があり、リサーチ・思索思考という企画の千本ノックの筋トレのように鍛えられました。その頃に、企画が通りオンエアーされた番組の一つに「ビール」と言うお題がありました。ビールの歴史を紐解き、世界のビールの歴史と日本のビールの歴史、泡の秘密、達人の神業とその方の人生など、様々な切り口があり、どう取材すれば興味深い話が引き出せるのか、模索と試行錯誤を繰り返しながらの取り組みで、これには裏方がニマッと笑うオマケ話がありました。

 当時、日本のビール企業は5社しかなく、発売されているビールの種類もそう多くはありませんでしたので、全てのビールをスタジオに持ってくることはそう難しいことではありませんでした。それで、日本のビールとして紹介する一コマを作ることができました。ラベルは見せてはいけない公共放送ですから、銘柄の単体ではかなわないことです。裏方にとってはなんとも痛快な、ちょっとした遊び心です。しかし、番組内容よりも、ラベルが映ったこの一コマが玄人ウケしたのは、喜んで良いのかガックリくるべきか、心境は複雑でした。

 この様な体験を10年近く経験したことが、観点を変えながら物を見、それをどう読み解いていくかという、考え方のベースとなりました。

人生の先輩たちから学んだおかげで

 そしてこの思考を育ててくれたのは、それまで出会った人生の先輩達です。とくに、狂言の師匠から受けた影響は計り知れないものがあります。会うたびにお酒を酌み交わしながら、芸術・政治・社会・恋愛や食べ物など文化や四季についてのほか、社会を変えて来た先達の話も加わり、師匠が経験してきたことや考えていることを、楽しく、豪快に笑いながら話してくださいました。例えば、師匠が若い頃、戦争の影響もあり、能狂言の存続が危ぶまれた時期の話です。能狂言師仲間で画策し、それまでの公演は決まった家と組むことが伝統だったのを、決まった家以外とも共演するようになりました。このように伝統を変えたり、様々な努力をしてきた師匠は「茂山千之丞破門か⁈」という見出しで、新聞にとり上げられました。この画策が行われたのが、新宿駅前にあった「五十鈴」という居酒屋です。私も連れて行ってもらい、そこで伝統芸能の既成概念を打ち破った、若かりし頃の師匠達の話を聞かせてもらうのです。殺風景な居酒屋さんをぐるりと眺めながら、ここであの大物達が熱弁をふるい、気勢をあげていたのかと、感慨深く師匠とお酒を酌み交わしました。

 もう一つ私を鍛えてくれた場所が、ゴールデン街です。ここは言わずと知れた「文化人」と言われる人々が、夜な夜な徘徊する街だったのですが、その末席に若輩者の私も混ぜてもらい、喧々諤々と議論する様子に聞き耳をたて、たまには議論に参加し、面白い話に驚いたり笑ったりでした。彼らの文化活動も多岐に渡り、テレビの世界しか知らなかった私にとって良い勉強の場となりました。私の修士論文は、この街で見聞きした議論から感じていた不思議が発端となりました。

 番組の制作現場では、科学番組、教養番組、スペシャル番組など、番組の作り方を学ぶ機会も多く、視点を変えて見る方法や誠意あるもの作りの姿勢を学びました。インタビューさせていただいた俳優陣、経済人、科学者、小学生、シニアの方々など、年齢もバックグラウンドも全く違う人々から、直接話を聞けたことは大きな財産となりました。

 こうして私の目の前にそびえ立ったNYUのマスターという高い壁は、登るのでも迂回するのでもなく、壁に向かって歩き続けた結果、気づいたら壁の向こう側にいたというのが本当のところです。
 難解なメディアエコロジーの学問を終え、スクールカラーである紫のガウンを着た私が、シンボリックなバグパイプと楽曲「威風堂々」の音色に合わせて、ワシントンスクエアパークを行進できたのは、自分自身にとっては奇跡だと今でも思っています。