木住野 佳子(きしの よしこ) 

ジャズピアニスト

  • 1995年、名門レーベルGRPより日本人初のインターナショナル・アーチストとして世界デビューを飾り、現在まで21枚のアルバムをリリース。演奏活動は日本以外にもニューヨーク、ミラノ、パリ、スウェーデン、上海、北京、台湾、韓国などで行い、人気、実力ともトップアーティストとしての地位を築く。スイングジャーナル誌のゴールドディスクを過去4度受賞。 
  • 2025年、CDデビュー30周年記念アルバム「Reminiscence」リリース。  

 3歳からピアノを習って音楽大学に入り、ピアニストになりました。 
と言うと、まるで英才教育を受けたように聞こえますが、まるで違うんです。いわゆる外れた道を歩んできました。 

 音楽大学に入学する皆さんは、お母様がピアノの先生だったり、ご家族が音楽家だったり芸術家だったり、その様なご家庭がほとんどなのですが、我が家は母が音程を取るのが苦手で、しかも泳げない、自転車にも乗れないと言う人だったので、母は自分と同じようになっては困ると私が3歳の時からピアノ、水泳、そして自転車の練習をさせました。 
でも子供の頃は、ピアノのレッスンに行くたびに居眠りしてしまう母と、あまり練習してない私は、先生から怒鳴られてばかりでした。それでも私は「ピアニストになる」と大それたこと言っていたそうです。しかも、うちはお金持ちでも何でもなく都営住宅の団地に住んでいて、当然ピアノもなかったので、3歳の時はピアノの鍵盤が書いてある紙に手を置いて練習していたそうです(音が出なくて、どうやって練習するんだ)。 
そして幼稚園に入って、初めて小さいオルガンを買ってもらい、アップライトピアノを買ってもらったのが小学校高学年の時でした。でも何せ団地なのでもちろん防音など無く、母が近所の人に頭を下げながら音楽大学入学まで練習していたのです。 

 今考えてみると、迷惑だったろうなぁ。だって受験の時はショパンのスケルツォを弾いたから、あれを毎日聴かされていたご近所の方は何度か引っ越そうと思ったに違いない。しかも、初めてやる声楽の練習までしていたから。 

6歳のころの発表会にて

ピアニストが育つ環境でしょうか⁉

 話はかなり戻りますが、私が赤ちゃんの時からウチの家族は都営住宅の団地に住んでいながら、ビッグバンドのジャズのレコードをかけて親戚一同で踊り狂っていたらしいんです。しかも叔母が大のビートルズ好きだったので小学校の頃からビートルズを聴きながら育ち、中学の時にはすっかりロック少女。母も私が好きなロックを聴き始め、目覚ましにはディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」のレコードをかけるというめちゃくちゃな家庭でした。 

 はい、そうなんです。そんな家庭環境の中で育った私が、まっとうなクラシックの演奏家になるわけがない。と、母も言っていました。なので、中学2年の時には仲良しの女友達とバンド結成して、ビートルズのコピーバンドをやり、高校生の時には学園祭で色々なバンドに参加しながら、1人で渡辺貞夫やチック・コリアのコンサートを聴きに行っていました。そして近所迷惑な受験の練習が実って桐朋学園大学に入学。 

 しかし! ここでまた一つ道を外します。実はピアノ科ではなく声楽科に入ったんです。別に隠していたわけではありませんが、CDでもライブでも一曲も歌っていないのでプロフィールに載せるわけにもいかず、隠れ声楽科出身という黒歴史。どうしてそんなことになったのかと言うと、私が高校3年の時に前述のピアノのレッスンで母が寝ていると怒る(当たり前だが)厳しい先生に「あなたにはピアノ科なんか無理! 短大を受けなさい!」と有無を言わせぬ口調で言われてしまったところから始まるのです。(その先生はクラシック以外の音楽が大嫌いで、バンドをやってた私など論外だったみたい)。 
そう言われたらしょうがない、短大受験の準備を始めたところ「声楽」という科目が必須と知り、紹介していただいた声楽の先生を訪ねました。初めてお会いする歌の先生の前でモジモジしていると「何か歌ってみなさい」と言われ、クラシック歌曲など知らない私はユーミンの「ひこうき雲」を弾き語りしました。普通ここで呆れられるところなのですが、何故かその先生は「君は声が大きいから、声楽科を受けてみなさい」とひっくり返りそうなことをおっしゃったんです。既に試験日まで半年しかないのに……。そんなわけで何故か声楽科を受験することになりました。 

 そして受験当日、区立高校3年生の私はセーラー服を着て受験会場に行って、にわか覚えの歌曲(何を歌ったのか覚えていない)を歌ったらなんと合格。浪人までして受験している方に申し訳ない、と友人に言われました。 

 ここで余談ですが、声楽家は声が出るための身体が出来上がってくるのが30歳くらいらしく、音大側も18歳のひよっこ達の受験は歌自体よりも雰囲気や存在感を重視していたと言う話も聞きました。ホントにそれでいいのか。 

 というわけで、副科(本科の他にやらなければならない)のピアノではきっちりショパンのスケルツオを弾き「あの子、声楽科を受けにきたのにピアノ上手ね」なんて言われながら通い始めた桐朋学園大学。大学に入ってからは、やはりどうもオペラを歌うのが苦手で歌には力が入らず、早稲田や明治大学のバンドのキーボードをやりながら、夜はロック喫茶でアルバイト。親切な友人が授業の代返をしてくれたおかげでギリギリの出席日数で何とか卒業したのです。

アドリブの勉強からジャズへ

 と、学生までの話が長くなりましたが、そんな私がどうしてジャズピアニストになったかというお話しを。 

 大学時代から、ホテルのラウンジなどでアルバイトでスタンダード曲や映画音楽などを演奏していたのですが、メロディを演奏するだけだとすぐ1曲が終わってしまう。メロディーの後にアドリブができたら、と思うようになりました。 

 そしてアドリブを勉強するのだったら、ジャズ。当時演奏していた全日空ホテルのバーラウンジに、月に1回、先輩のベーシストをお呼びして、自分のギャラをその方にお渡しして練習させてもらっていました。そうしているうちに、少しずつジャムセッションなどに参加するようになって、ジャズのベースとやドラムと一緒に演奏する楽しさが分かってきて、少しずつライブハウスにも呼ばれるようになっていきました。 

 最初は、歌やサックスの伴奏やBGM演奏などが多かったのですが、当時は、現在出演させてもらっているブルーノートのようなおしゃれなライブハウスは少なく、地下への階段を降りて重い扉を押すとタバコの煙がモクモク。中に座っているおじさん達が振り返って、ジロっと顔を見られる、そんな、勇気を振り絞らないと入れない怖いジャズクラブが多かったです。 
しかも今より圧倒的に女性ミュージシャンが少なかったので、珍しがられたこともありましたが、セクハラも当然のように。でもそんな中でも私は作曲をするのが大好きだったので、自分の曲を演奏すると評判が良く、やはり自分のグループを作って演奏したいと思い始めるようになりました。 
そしてかれこれ40年近く前になりますが、初めての自分のグループを作って月に1回ライブをやると決意。最初の1、2回は親戚や友人が来てくれて満席になったものの、だんだんお客さんが減っていきました。メンバーへのギャラの支払いも大変になってきたこともあり、1年経ったところで自分でCDでも出してライブ活動はお休みしようかと思っていました。 

 実際、何が大変だったかと言うと、当時は携帯電話も無く、雨の日も風の日も公衆電話を探してライブハウスに電話をして「ピアニストの木住野佳子と申します。そちらに出演させていただきたいのですが、お願いできますでしょうか?」と出演交渉します。もちろん断られて心が折れそうになることもありましたが、何より当時一緒にやってもらっていたメンバーが、今なお一線で活躍している素晴らしい方達ばかりで、演奏するのがとても楽しかったから続けていられたんだと思います。そしてライブ開演前に客席のお客様の数を見ては、胃が痛くなっていた頃、某有名ジャズシンガーの方の事務所が声をかけてくださり、レコード会社の方からも気に入ってもらい、私も憧れていたアメリカのGRPレーベルと言うすごいレコード会社からデビューすることができたんです。 

デビューが決まる

 デビューは今から31年前のことになりますが、当時はシンデレラ物語と言われました。自主制作で1枚でもCDが出せればいいやと思っていた矢先の出来事で、私もビックリでした。目まぐるしい環境の変化で、デビューアルバムはニューヨークの超一流スタジオで、全員にサインをもらって走り回りたい位の素晴らしいミュージシャンと一緒に、私が作ってきた曲やスタンダード曲を録音。レコーディングスタジオとしては珍しくハドソンリバーが見える窓があるスタジオでのレコーディングは、今でもはっきり情景が浮かぶ夢のような出来事でした。 

 それからは、毎年アルバムをリリースして、コンサートや全国ツアー、そして海外でのコンサートなどにも出演させていただき、2025年にはCDデビューしてから30周年を迎えることができました。 

 本当に感謝の気持ちでいっぱいです。 

プレイ中の様子

ピアノに出会えてよかった

 実は私は全く器用ではなく、どちらかと言うと不器用な方なので、何でもソツなくこなす、と言うことができないんです。それがコンプレックスでもありましたが、だからこそ自分の音楽だけを30年間追求できたのかなと、今はそう思っています。 

 そして、こんな私でも1つだけ取り柄があるとしたら「続けること」。 
3歳から始めた、母が苦手だった水泳も自転車もそしてピアノも、今でも60年以上! 続けています。好きな言葉は「継続は力なり」 
もちろんワクワクすることを見つけるのが1番大切だと思いますが、何をやっても嫌なことや辛い事は絶対にあると思います。そんな時に、ちょっと歯を食いしばって乗り越えることで、もっと大きな喜びが見える事もあると思います。困難に勝る喜びを見つけるためには継続することが必要なんじゃないかな、と私は思います。 

 ピアノに出会えて本当に良かったです。これから先は、衰えていく自分と自然体で向き合いながら、また新たな音楽を作っていこうと思っています。 

◾️Live情報

2026 8月22日(土)
YOSHIKO KISHINO Special Quintet -Live @ Blue Note Tokyo-
木住野佳子 スペシャル・クインテット

場所: Blue Note Tokyo
時間:[1st]Open3:30pm Start4:30pm [2nd]Open6:30pm Start7:30pm
料金:¥8,000(税込)