林 妙子(はやし たえこ) 

NPO法人JKSK理事
株式会社コスモシルバ 副社長

  • 1956年 東京生まれ  共立女子大学文芸学部卒業 
  • 株式会社インターグループ(通訳・翻訳・国際会議)入社 
  • イギリス・ブリストル留学 
  • JTB子会社、株式会社国際会議事務局入社 
  • 株式会社ベネッセコーポレーションで派遣社員として勤務 
  • 株式会社スペースウッズ 代表取締役社長 
  • 株式会社オフィスTEN 西本智実 公演制作担当 
  • アジア・太平洋女性連盟国際会議(2023年東京開催)副議長 
  • 株式会社コスモシルバ 副社長 

[活動]

  • 「パスポートを持ってコンサートへ行こう」などの特殊なコンサート開催 
  • 東日本大震災後2012年福島にて「楽器を持って集まろう」コンサート開催 株式会社オフィスTENにて西本智実・イルミナートフィルの公演制作に携わる 
  • アフリカ最高峰キリマンジャロ山へ登頂 
  • 母親の読み聞かせの会「ピコの会」代表を25年務める 
  • アジア・太平洋女性連盟東京会議(FAWA)副議長として「Women as the Key Force~For Change in the Asia Pacific Region~」のテーマで女性のための会議を主催 夫主催の国際会議(ICDERS2003、 IWDP2026)を事務局としてサポート 

「女に学問は不要」「25歳はクリスマスケーキ」――そんな時代に、私は生きていた。 

「女に学問は要らない」「四大に行けば嫁の貰い手がなくなる」。 
 そんな言葉が当たり前のように飛び交っていた時代があった。結婚適齢期は24歳まで。25歳を過ぎれば「25日のクリスマスケーキ」、つまり「売れ残り」と呼ばれた。 
 私の父も例外ではなかった。娘は「お嬢さん学校」に入り、短大を出て一流企業に就職し、良き伴侶を得て不自由なく暮らす。それが女子の幸せだと信じていた。 
 けれど私は従順な娘ではなかった。「女は三界に家なし」――幼少は親に従い、結婚したら夫に従い、老いては子に従う。そんな人生、まっぴらごめんだと思っていた。 

 高校からは一応「お嬢さん学校」と言われる女子高に入学した。普通は付属の短大へ進み、大手企業に就職するレールが敷かれていたが、無謀にも私は思い切って宣言した。 
「国立大学を受験します」 
 担任は真っ青になり、「推薦枠がいくらでもありますから」と必死に止めた。温室のような環境で育った私には一般受験は不利だったが、「親の敷いたレールは走らない」という反発心が勝り、結局は浪人することになった。 
 友人と二人、予備校に通いながら「女子でも浪人する」という気概に燃えていた。浪人はまだ当たり前の時代ではなかった。まして女子が、となると周囲からの目が痛かった。 
 それでも私は「女子はこうあるべき」という考えに徹底的に反発していた。 

社会に出て

「雑誌の編集者になりたい」――この夢を胸に社会へ飛び出したが、現実は甘くなかった。 
大学卒業後、私は雑誌の編集者を志して出版社や新聞社を受けた。しかし大手出版社は浪人していることを理由に、書類選考で落とされた。「寿退社」という言葉がある。24歳が結婚適齢期なら入社しても1~2年で辞められるのではと、企業側が思って敬遠されてもしかたなかった。 
 編集者は空きが出るまで待つのが常識だと聞いていた私は、のんびり構えていた。だが卒業式が近づくと、友人たちは皆就職先が決まっているのに、私だけは無職――。焦り始めた3月半ば、新聞の求職欄で見つけた会社に履歴書を送り、1週間の見習いを経て4月1日から正社員になった。 

 その会社は国際会議の運営と翻訳の編集を行っていた。私は編集担当で入社したが、実際に与えられたのはタイピストが打った英語原稿のスペルチェック。思い描いていた編集の世界とは大きく違っていた。
 1年後、国際会議部へ異動した。これが、のちの人生を大きく左右することになる。だが当時の女性は、あくまでも男性のアシスタント。組んだ男性社員の失敗の尻拭いばかりが仕事だった。
「このままでは先が無い、英語も身につけたい」
 そう思った私は、長年の夢だった海外留学を決意した。まだ女性が仕事を辞めて留学するなど前例がほとんどない時代だった。
 26歳。婚期を逃すのではないかと迷った(すでに25日のクリスマスケーキだったが)。けれど――「やりたいことはやりたい」。自分に正直に生きようと決め、日本を飛び出した。 行き先は、イギリス南西部の港町・ブリストル。

「自分の人生を決めるのに、家族に左右されるの?」 

 異国の地で待っていたのは、夢よりも先に「孤独」との戦いだった。イギリスに渡って1か月ほど経った頃、私は強烈なホームシックに襲われた。毎夜空の月を見て、同じ月を日本でも見ているのだろうと泣いた。公衆電話ボックスにクォーターを握りしめ、小銭が尽きるまで日本へ電話をかけた。今のように携帯もパソコンもなく、頼れるのは手紙だけ。寂しさのあまり毎日誰かに手紙を出していたので、毎日数通の返信が届き、家主を驚かせたほどだった。 
 イギリス生活にも慣れ3ターム目を迎える頃、母が体調を崩した。私は帰国を決意したが、クラスメートから投げかけられた一言に衝撃を受けた。 
「自分の人生を決めるのに、家族に左右されるの?」 
 当たり前だと思っていた家族を大事にする東洋の考え方と個人を大事にする西洋の考え方の違いに目を開かされ、このことはその後の私の生き方に大きな影響を与えた。 
 結局私は帰国し、同種の国際会議運営会社にアルバイトとして入社。1年後、試験を経て正社員となった。そこは男女差別のない会社で、女性がリーダーとして活躍できる環境だった。 
 私は国際会議の運営を任され、海外添乗業務にも携わるようになった。女子という差別はなく、一人の人間として仕事を任される――その喜びを胸に連日終電まで仕事をしていた。まさに思い描いていたキャリアウーマンの道を歩みはじめていたのだ。 

結婚と葛藤

「仕事を続けたい」「家庭も欲しい」――欲張りな夢を抱いた私に、思いがけない出会いが訪れた。 
 仕事を続ける傍ら、「いつかは家庭も持ちたい、仕事で出会う大学の先生の伴侶として国際会議に関わるのも悪くない」と密かに思っていたことがあったが、ある日海外添乗から戻った翌日、お見合いが設定されていた。偶然にも相手は大学の研究者だった。 
「結婚しても君は僕の飯炊き女房になる必要はない。君は君の人生を生きればいい」 
 そう言われ、私は結婚を決めた。私たちは1か月で婚約し、3か月後には入籍。4か月後には国際会議への同行を兼ねた新婚旅行に出かけた。 
 しかし現実は甘くない。彼の赴任先・名古屋に移り住むと、私の勤めていた会社の支社はなく、仕事を続ける道は閉ざされた。専業主婦になるしかなかったのだ。 
それからの10年間で3人の子どもを育て、2度の海外赴任にも家族で同行した。 
 けれど、私のテーマはずっと「女性の自立」だった。専業主婦を楽しみながらも、経済的には夫に依存する自分に、心の底でいつももがいていた。 

50歳からの起業

「このまま派遣で終わるのか」――50歳を前にして、私は新しい扉を開いた。 
 子育てが一段落したころ、夫の赴任に伴い東京に戻った。仕事を探すが、一度キャリアを離れた女性には正社員での道は厳しかった。しかたなく派遣社員として働き始めた。けれど派遣はどれだけ努力しても会議にも出られず、3年ごとに契約更新。年齢を重ねるごとに「次は更新してもらえるか」という不安が募っていた。 
 そんな時、自宅に海外の音楽家をホームスティさせた縁で音楽企画会社を立ち上げることになった。夢は「クラシックコンサートの垣根を低くすること」。しかし現実は厳しかった。地元での企画はいつも赤字、「儲かっていないのだもの、どうせ主婦の趣味でしょ」と言われ、悔しい思いをしながら都内の音楽事務所でアルバイトをして企画の勉強を重ねていた。 
 そんな折に東日本大震災が発生。たまたま、その直前に知り合った女性は福島の人だった。しばらくして「大丈夫ですか?」と尋ねた返事は「いいえ、頑張っての言葉に疲れました」だった。 
 こんなやり取りから私たちは「そろそろ自分で立ち上がろう」と奮い立ち、【楽器を持って集まろう!】という復興支援コンサートを企画した。風評被害を受ける福島に全国からアマチュア奏者を呼び、一泊して演奏し、福島を応援する試みだった。 
 指揮者を探す、会場を探す、と至難の連続だったが、「復興」を合言葉にみんなで頑張った。その音楽会で指揮をして下さったのが、指揮者の西本智実さん。以後、私はそれが縁で彼女の音楽活動に関わることになり、ヴァチカン国際音楽祭やバレエ公演、オペラ公演と大規模公演の裏方を経験することになる。 
 素人同然だった私が、いつしか数千万円規模の公演を任されるようになっていった。仕事を思いっきり出来て楽しかった。 

新国立劇場楽屋でのバレエダンサーたちと

夢を現実にする

「無理だ」と思った瞬間、夢は遠ざかる。――けれど「叶うかもしれない」と思えば、現実は動き出す。 
 やっと経済的に自立し、仕事に明け暮れて10年近くたち還暦を前にしたある時、ジェームス・スキナー著『100%』という自分の可能性を引き出す実践書に出会った。 
「叶えたい夢を100個書き出せ」 
「その中から一番不可能に思える夢をひとつ選べ」 
 そこには、そう書かれていた。「それを今までに誰がどうやってやったかを調べろ」とも。 
 私が選んだ一番不可能に思えた夢は、20歳のころに夢見た「キリマンジャロに登ること」だった。仕事、結婚、子育てでとうに夢は諦めていた。調べると、日本からのツアーがあり、費用は50万円。荷物はポーターが持ち、ガイドもつく。――これなら、体力と資金を準備すれば私にも登れる。そう思った瞬間、夢が現実に近づいた。 
 還暦で登ろうと決め、逆算して準備にかかったが、仕事が忙しく延び延びに。 
「今行かなければ、もう一生行かれない」。そう思って4年後の62歳、辞表を出した。それは未知の世界への挑戦だった。 
 初めての海外登山。しかも富士山より高い山に登ったことが無い(これが一番心配だった)。9月に登るのに8月まで仕事をしていたため、準備も加え激務が続く。加えて、高山病の心配、海外の知らない人と組むツアー、初めてのアフリカ。しかも、出発の半月前、トレーニングのやりすぎで膝を痛め、階段も登れなくなった。湿布と痛み止めと安静で対処。 
 自分でも気づかないうちに不安の嵐に襲われていて、ストレスからか心臓が苦しくなった。体力的にも精神的にも知らない世界へ、経験のない世界へ踏み出すのは勇気がいるものだ。でも「止める」という選択は、思い浮かばなかった。 

 現地で集まったのは、イスラエル人2人、ドイツ人1人、日本人2人、ガイド4人、ポーター20人のパーティー。これから彼らと1週間を共にする。登山口を出発する際も、彼らと一緒に登れるのか、本当に6000mに登れるのか不安と高揚で胸はドキドキと高鳴っていた。 
 そして5日後、私は本当にアフリカ大陸最高峰キリマンジャロ(5,856m)の頂に立った。しかし、登頂寸前に私は「もうここまでで良い」と弱音を吐いていたのだ。マイナス17度の寒さと強風。一歩を出すのに数秒かかる酸素の薄さ。 
「ここまで来られたのだから、十分だ」と。 
 しかし、そんな私の背中を押したのは、ずっと付き添ってくれたガイドとパーティーの仲間だった。「あと20分、Taeko頑張れ」と。 
 頂上で朝日に染まるアフリカの大地を見下ろしたときは号泣した。そして心の底から実感した。 
「叶わない夢はない。諦めなければ」 

キリマンジャロの山頂にて

国際会議を自ら主催する

「思ったことはいつか現実となる」 
 若い頃、国際会議に携わったのは他人の会議、仕事としての運営。 
「いつか、自分も主催する立場になり、自分が参加する会議を運営したい」――そう願った夢を、私は長い間忘れていた。NPOに所属して沢山の女性会議などにも参加して来たが、2023年、その夢が現実となった。 
 アジア・太平洋女性連盟国際会議と初めて出会ったのは17年前。東京で開催する国際会議の内容を何も分からずに、ただお手伝いしたのがきっかけである。その後NPOの一員としてアジアで開催する同国際会議に参加してきた。そしていよいよ日本で開催する主催者側になったのだ。 
 準備は一年。資金集め、プログラム編成、海外との調整。何度も心が折れそうになった。けれど、ボランティアとして同じ志で働いてくれた良き仲間がいたからこそ乗り越えられた。つくづく「人は宝」であると思った。 
 会議当日は三笠宮寛仁親王妃信子妃殿下にもご臨席を賜り、会場に集った300人のアジアの女性たちの熱気を前に、胸が熱くなった。そして今は夫のサポートとして2026年に開催の国際会議に向けて歩みを進めている。 

2023年のアジア・太平女性連盟国際会議にて

 人生は予想もつかない方向へ広がっていくものだ。その面白さを、私は噛みしめている。夢は時間がかかっても、忘れていてもいつか必ず現実となってくる。 
 若い時から私のテーマは「女性の自立」だった。 
 自立とは何か。 経済的、精神的、社会的、その都度、その時代で私の自立は違った。しかし、一貫して言えるのは、「自分の人生は自分で選ぶ」だったように思う。 
浪人も、留学も、結婚も、起業も キリマンジャロも ――すべては自分で決めた選択だった。たとえ失敗しても、自分で選んだ人生には後悔が無い。そのすべてが、今 の私を作っている。 
 一介の女性の遍歴がどなたかの役に立つとも思えないが、 
「思っていたことは必ず現実となってやって来る」 
「諦めなければいつか夢は叶う」 
女性の自立を求めて生きて来た私の人生の中で、これだけが得られた確信である。