ジェンナ

NGO ゴスペルひろば 代表

ジェンナ

「自分のための職業を作る」というテーマで活動をはじめ、現在では賛同者2000名。
アジア、アフリカへ6年間で1000万円超の寄附を。
著作:大和出版「声に出した瞬間、あなたを幸運に導く48のことば」


経歴概要

10代の頃の私は、「歌うことが好きだから歌手になりたい」という思いと、「アフリカに憧れて異国の地でボランティアをしたい」という思いが入り混じって進路選択に常に頭を抱えていた女子高生でした。32歳の現在、私は全国展開するゴスペルクラブを主宰しています。2000人の仲間と共に年間を通して様々なステージで歌う一方で、その活動収益を国際協力に活用し、6年間でアジア、アフリカ7か国に1000万円を超える寄付をしてきました。

プライベートでは、一番の親友でもある同い年のニュージーランド人の夫と、3歳の長男の子育て真っ只中。年に1度、1~2か月間ニュージーランドの田舎に滞在するという生活をしています。

道のり:思い立ったら一歩を踏み出す

これまでの人生で痛感していることは、「一歩踏み出せば次が見える」ということ。頭の中だけで考えたり悩んだりしていても、何も始まらないのですよね。

私とゴスペルの出会いは、高校生の時に見た「天使にラブソングを2」という映画でした。それまでに見たことのない、大勢でハーモニーで歌う楽しさに惹かれ、高校在学中は仲間と共に見よう見まねで様々な曲をコーラスアレンジして楽しみました。ゴスペルの本場に憧れてアメリカ留学を試みるも、様々な理由でどうしても道が開けなかったので、もっぱら私のフィールドは自分の高校でした。そんなとき、校内でのコンサートを観に来てくださっていた保護者の方から、「社会人向けにイベントでゴスペルを教えてくれないか」というオファーを突然いただいたのです。そのイベントとは、東京の米軍基地からプロのゴスペル歌手を招いたクリスマスコンサート。そのイベントを通して私はアメリカのゴスペル歌手の方と知り合うことができました。さらには、その方を通じて、基地にある、いわゆる「黒人教会」と呼ばれるゴスペルの本場に足を踏み入れ、教会のゴスペルクワイヤ(聖歌隊)に当時唯一の日本人メンバーとして入れていただくという光栄な機会をいただきました。19歳のときです。

黒人教会では、「大衆音楽」としてのゴスペルの魅力に魅せられました。ゴスペルという歌が生活の一部にあり、嬉しい時も、苦しい時も、皆で歌って分かち合えば最後は皆がハッピーになるという「歌の力」にどんどんハマっていく自分がいました。ちなみに私はたまたまこの前の年に全く違うきっかけで教会という場に行くようになり洗礼を受けていたので、ゴスペルの世界に出会ったのはそういう意味でも良いタイミングだったのかもしれません。

その一方で、もうひとつ私には「途上国でのボランティア」という夢がありました。最初に行動を起こしたのは18歳の夏。西アフリカのトーゴという国で、3週間のボランティアプログラムに参加しました。憧れだったアフリカの文化に生で触れられた感動と同時に、やはり現地は貧しく、生まれた場所が違うだけでこんなにも背負う運命が違うのかというショック、そして「何か自分にできることをしなければ」という使命感を感じて帰国しました。この時感じた思いが、今の私の国際協力活動の原点です。

「貧しい」ということも、本やTVで見聞きするのと、実際に現地に行って、地元の人と友達になって、その人自身から貧しさを語られるのとでは全然違うのですね。自分を突き動かすくらいのモチベーションをくれるのは後者なのです。だからやはり、実際に一歩行動してみることが、次のステップへつながるということなのだと思います。

2000年8月

帰国後、早速トーゴのNGOと奨学金プロジェクトを企画してその寄付金集めに奔走しました。とはいえ、それが最初の挫折となりました。何しろ10代の何の経歴もない女の子が手書きのチラシを配ったところで、誰もお金を出してはくれません。熱意だけでは何もできない無力さを痛感しました。

そんなときにふと、自分の好きなゴスペルと国際協力を掛け合わせることを思いついたのです。ただでは出してくれないお金も、ゴスペルを習いに来る「参加費」としてだったら快く払ってくれるのではないか、と思い立ち、地元の公民館で「チャリティー・ゴスペルワークショップ」を開催しました。すると、あんなに寄付金集めに苦労した私が、ポンッと3万円を手にすることができたのです。1000円x30人ですね。それも皆が笑顔で大満足で帰っていく。「これだ!」と思いました。

そのときの経験をもとに、今の活動ではこんなキャッチフレーズを使っています。「楽しい時間のために使ったお金が、別の場所で大きな力になる。」私が今現在運営するゴスペルクラブでは、会費の一部から年間100万円以上をアジアの子どもたちへの奨学金や職業訓練センターの運営、アフリカへの井戸ポンプ寄贈などにあてています。

あの挫折がなかったら、ゴスペルと国際協力を掛け合わせることも思いつきませんでした。だから、それもやはり、やってみたことに意味があったのでしょう。

独立:「ゴスペル」という仕事を創る

次の挫折は黒人教会の中にありました。黒人教会という世界に入って2年も経った頃、私は教会の通訳スタッフとして働かせていただくようになっていました。ゴスペルブームも手伝って、音楽を目的に教会へ足を運ぶ日本人がたくさんいました。その中で通訳や様々なコーディネートをするのが私の仕事だったのですが、伝道を目的とする教会リーダーたちと、ゴスペル音楽ファンの日本人との間には大きな壁がありました。ゴスペルの楽しさや感動を日本の人たちにも広く伝えたいという情熱が私にはありましたが、「伝道」をゴールとしないゴスペルは、当時の教会のリーダーたちには認められないものでした。結局1年以上対立や揉め事が続いた末、私は「反逆者」として教会を去らざるを得なくなりました。

その時の私はとても傷ついて、もう二度とゴスペルと関わりたくないとさえ思いました。突然進路が絶たれ、この先どうしようと考えたとき、教会で曲がりなりにも通訳を務めさせてもらった経験から、プロの通訳を目指すという新たな目標が生まれました。2年間通訳養成学校に通った後、就職したのは外資系の小さなIT企業でした。まったくの未経験分野です。まだ通訳としては未熟だったので、英語を使うマーケティング部署への配属でした。

初めての正社員生活。平日は一日中パソコンに向かい、家に帰ったら寝るだけ、という時間にゆとりのない毎日が、私にはすぐにストレスになってしまいました。というのも、やはり「音楽」が好きだったのですね。何か音楽をやりたいのに、全くその時間がない。そこで初めて、「人生とは、お金とは、仕事とは」ということを真剣に考えるようになりました。生活するためには仕事を持ってお金を稼がないといけないけれど、結局その仕事のために大半の時間を費やすことになります。つまり仕事=自分の人生になってしまう。何か自分が没頭するほどやりたいことがあるのならば、仕事にしない限り、それをするための十分な時間が持てないのだということを2年間の会社員生活で思い知りました。

また、その頃には「ゴスペル」に対する見方も少し変わってきていました。教会の外へ出てみると、まだまだゴスペルを歌ったことのない人が多い。そして、私がゴスペルの話をすると皆「楽しそう」「天使にラブソングをの、あれでしょ?やってみたい。」と言ってくれるのです。それに、ゴスペルの持つスピリチュアルで前向きなメッセージが、様々な局面で私自身の心の支えになっていることにも気づきました。「神様が守ってくれる」「試練の分だけ報いがある」「あなたは価値のある、愛されている存在」そんなことを訴えてくれる歌は、やはりゴスペルしかないのです。

その頃の一番の相談相手は、同僚のニュージーランド出身の男性。この彼が、今の私の夫です。背中を押してくれたのが彼でした。「そんなに好きなら、それをビジネスにしなよ。」独立志向の強かった彼は、起業や経営に関する本をたくさん貸してくれました。誰もやったことがないことでも、自分で創ればいい、そう思えるようになりました。ちなみに今は彼も自分の会社を経営しています。

ゴスペルはそれまで、日本では音楽教室でボーカル講師が片手間で講座を開いたり、プロのミュージシャンの方や、アメリカ滞在経験のあるシンガーの方などが個人でグループを主宰したり、もしくは教会が伝道活動の一環でゴスペル教室を開いたりというケースがほとんどでした。そんな中、初めて「ゴスペル専門クラブ」をチェーン展開するという手法に挑戦しました。

新聞社や雑誌へのプレスリリース、Web広告、全てビジネス参考書を見ながらの手探りで広報をしてのスタート。6年経った今も試行錯誤ではありますが、成果として私自身を含め何人ものスタッフが「ゴスペルを仕事にする」ことを実現できました。そして宗教の伝道活動とは一線を画した「楽しむためのゴスペル」という場が生まれました。今後は音楽制作活動にも力を入れて、宗教や人種にとらわれないハーモニー音楽を創っていくことが私の夢です。

コンサートでで指揮を振る(2014年)

毎日好きなゴスペルのことを考えていられることが幸せです。どんなハードスケジュールでも、好きで選んだ仕事なら楽しいと思えます。一度きりの人生、「好きなことを仕事にする」ということに、ぜひチャレンジするべきだと思いますね。

ちなみに、英語の勉強も大好きだった私ですが、通訳への道を諦めるきっかけをくれたのは、ある通訳者との出会いでした。会社員時代に一緒に仕事をさせていただいたベテラン通訳者の彼女は、英語と、彼女の専門分野であった金融の世界が心底大好きな人でした。その熱意を見たときに、「私はそこまで打ち込めない」と悟りました。自分は音楽が好きだったから、音楽を辞めてまで英語の勉強に夢中になることはできない、でも英語を辞めて音楽漬けになることだったらできる、と思いました。それが、「好き」という思いの証拠なのですよね。

それでももちろん、英語の勉強も何一つ無駄にはなりませんでした。今の仕事をしていて、本場アメリカのシンガーとやりとりすることは日常茶飯事。ときには英語の契約書も交わします。そんなときに、「ビジネス英語を勉強しておいてよかった」とどれほど思ったかしれません。何事も、やりたいと興味を持ったことはとりあえずやっておくことです。

家庭との両立:よそと比べることはない

家庭のことに話を移すと、私は26歳で前述のニュージーランド出身の男性と結婚し、29歳で男の子を出産しました。妊娠したのは、ちょうどNGOゴスペル広場を設立して3年が経ち、メンバー数が1000人を超えた頃でした。

妊娠しても出産しても、仕事中心の生活。妊娠9か月目の12月には16本のステージに立ち、出産後のベッドの上でも仕事、病院内でもミーティング…と、完全な「産休」は一日もなかったように思います。講師としても3か月目には復帰し、子どもを保育園に終日預けて出産前と変わらないスケジュールをこなしていました。

行き詰ったのは子供のほう。1歳になる手前の頃、喘息の発作を起こして突然入院することになってしまいました。1週間ほどの入院が3度続き、その度に保護者は「24時間付き添い」。私の生活が自分中心になっていたことに、子どもが気づかせてくれたのはそのときでした。

保育園の先生がこう言ってくれました。「私は仕事を持つお母様方のためにこの仕事をしていますが、本当は保育園なんてないほうがいい。赤ちゃんにはお母さんに代わる人はいないのです。お母さんと子どもとの関係が、その後のその子の人格を、ひいては人生を決めるのですよ。」その言葉を聞き、極端ですが保育園を辞めてしまいました。このご時世、一度辞めたらもう入れません。幼稚園が始まるまでの2年間、一日数時間だけシッターさんに預けて集中して仕事をし、その後はたっぷり子どもと過ごす、という「子ども中心」の生活にシフトしました。スタッフの協力を得られたからこそ実現できたことで、スタッフには感謝の気持ちで一杯です。

今は幼稚園に入り、また少し生活が変わりました。17時までの延長保育もあるのですが、できるかぎり14時過ぎの時間にお迎えに行き、日の明るいうちに子どもと遊びます。そして夕方にシッターさんに来ていただくなどしてもう一度仕事をしたり、講師の仕事に出たり、という毎日です。

両立には今でも悪戦苦闘しています。週末はイベントが入ったりしてしまうので、家族でお出かけという休日が我が家にはほとんどありません。ときには複数のシッターさんのハシゴという日もあります。仕事の現場に連れまわしてばかりで子供に申し訳ない、と言う私に、夫はこう言ってくれました。「そんなこと言ったって、一年のうち1か月もニュージーランドに住める日本の子どもはそうそういないよ。うちにはうちの良さがあるんだから、いいんじゃない。」

本当にその通りだと思います。比べたって仕方ないですよね。仕事に連れて行くのにしたって、プロのミュージシャンやシンガーの演奏を生で聴けて、それ自体も他の子どもにはできない経験になっているはずです。それをその後の人生にどう生かすのかは、その子次第ですよね。

私と夫は考え方がとても似ています。それは、まず何より「家庭第一」という原則。どんなに仕事が好きでも、一番大切なのは「ファミリー」だと言い切れる。だからこそ、多少お互い忙しくても、夫婦や親子の関係が良好でいられるのだと思います。それから、「やりたいことはやる」ということ。夫は自分のビジネスで海外出張もするし、趣味で週末はスポーツをしたりもします。それを私がサポートする代わりに、私も夜や週末に仕事を入れたときには、夫がサポートする。お互い自分のやりたいことを我慢していないから、ストレスがない。それも大切だと思いますね。やはり家庭と仕事の両立には、夫婦のチームワークが不可欠だと思います。

座右の銘:私のために神様が用意してくれたもの

ゴスペルがメッセージ性のある音楽だということは前に触れましたが、私が出会ったゴスペルの歌詞の中で、座右の銘となっているフレーズがあります。

「What God has for me, it is for me.」

(神様が私のために用意してくださっているものそれは私のもの)

どんなに周りの人が自分を差し置いて成功していってしまうように見えても、神様にはあなたのためだけに用意しているものが必ずあって、それはあなたが回り道をしようが歩みが遅かろうが誰にも取られることはない、という意味の言葉です。

歌が大好きで歌手に憧れていた高校生の頃、宇多田ヒカルや小柳ゆきをはじめ同世代の才能あるシンガーたちが次々と華やかにデビューしていきました。当時は焦ってばかりいた気がします。でも今、「ゴスペルX国際協力」というライフワークを手にして、温かい家庭にも恵まれた私の人生は、心から「これでよかった」と思えるものになっているから不思議です。

スリランカに裁縫センター
【職業訓練所】をオープン【2008年】

とはいえ、音楽業界への挑戦もまだまだ諦めてはいません。今の私が創る音楽は、10代の私にできたものとはまったく違うものになっているはずです。今の私だからできることがあるはず。いくつになっても、遅すぎる挑戦なんてないですよね。

神様が、自分だけの人生を用意してくださっている。そう信じて、皆さんも唯一無二の自分らしい人生を開拓していきませんか。