北林 利江(きたばやし としえ)
シャレコ株式会社、理授愛株式会社 代表取締役
一般社団法人ダイヤモンドハートスクール理事、相続診断士
- 1965年生まれ。2児の母。
- 「シャレコ」というのは高校の恩師が名付けたニックネーム。オシャレな娘という意味。
- 東京都立富士見高校卒業後、天理大学にて教員免許取得。
- NTTに10年間勤務した後、肌トラブル解消に定評のある化粧品メーカーに転職。美容カウンセラーとして、8年間、薬局にてのスキンケアカウンセリング、スキンケア法のプレゼンテーションなどを行ってきた。その後、支援を受け「シャレコスキンケア(基礎化粧品)」の発売を2004年に開始。
- 2012年3月、本社を千代田区平河町に移転。
子ども時代
小さい頃からアトピーに悩まされ、母に背中を掻いてもらわないと眠りにつけない子供でした。
親はとび職。自分がこうして肉体労働で一生懸命頑張っても生活レベルが上がらないのは、教育を受けられなかったからだと、自分の子供にはそんな思いはさせない!ということから、私は小さい頃から英才教育を受けました。
1週間は7日しかないのに、小学生1年生の頃から6つの塾に、家庭教師が2人。両親は働いたお金を全部子供につぎ込んでいたと思います。
そんな親の切なる願いがわからなかった自分は、表面では優等生。しかし、親への反抗心やネガティブな感情だらけでした。大好きなソフトテニスがなかったら道を外してしまったかもしれないほど、心の中はすさんでいました。
高校の修学旅行の時の写真は、すべてふてくされた顔で映っています。それを見るたび、まざまざとそのころを思い出します。人生なんか楽しくないし、つまんない。いいことなんで1つもない!勉強ばかりしないといけない、いい学校、いい就職しないといけない人生って何なの?と思う日々でした。
大学に進学したかったものの、家庭の都合で就職することに。ところがこれだけ教育を受けて偏差値も成績もよかったのに、就職試験の面接でうまく話せずに不合格。
自分を飾ろうとした結果でした。(当時はなぜ落ちたかわからずに悩みました)
あまりに落ち込み、将来を絶望的に思っていた私をみて両親が大学進学への道を拓いてくれました。
行きたい大学は、唯一続けていたソフトテニスのある学校。ところが、関東の強い学校はすべて推薦が決まっていて、私のような2軍選手は、強い学校にはテニス推薦では行けない状態になっていました。(どうしてもテニス推薦で行きたかったのです。学業成績では多分どこでも選べたのですが、唯一のプライドだったのかも知れません。)
そんな時、たまたま雑誌を見て、天理大学が全国でベスト8に入っていることを知り、天理大学を受けることになりました。ここで不思議なことが起きたのです。
転機が訪れる
高校のソフトテニスの顧問先生に天理大学に行きたいと相談すると、先生の大学時代の先輩が、天理大学の監督をされているのとのことで、すぐに電話をしてくれました。すると、定員3人の推薦が決まっていたのだが、たったいま電話で2人が推薦を断ってきた、あさってが願書締め切りだから、今なら願書を出せば間に合うということで、急遽申し込みをして推薦入学できました。
それで親元から離れ、少しの解放感と好きなソフトテニスが出来ることに喜びを感じて大学生活がスタートしました。
ところが、入ったソフトテニス部の一つ上の先輩から毎日厳しい指導を受けることになったのです。その先輩は、高校時代から日本代表として優秀な結果を残している方で、その人から、毎日のようにシゴかれました。今から思うと成功哲学を伝授されていたのですね。
当時は、どうして私だけこんな目に遭わないといけないのだろうと、先輩を恨むこともしばしばでした。
ところが、その先輩の力を持ってしても、全国で3位がやっとだったのですが、私がキャプテンになった大学最後の年で全国制覇を成し遂げたのです。
毎日、インカレ優勝まであと〇〇日と黒板に書き込んで、練習前に全員でそれを復唱していました。ですので、インカレ優勝まであと一日、翌日には優勝するものだと思っていましたから、当日はどんなにピンチが来ても怖くありませんでした。今日優勝するのですから。そう努力した結果でした。先輩から学んだ成功哲学のおかげだったのですね。
成功哲学というのは、おそらく「素直さ」だったのです。私が素直に学ぶ姿勢を持てば結果はついてくる!思考は現実になる!と教えるため先輩は毎日ご指導くださったのでした。
その結果、当時、株が恐ろしいほど暴騰した人気企業No,1のNTTのスカウトの方が、インカレの決勝をみていて、私をスカウトしてくださいました。
NTTという新世界でなにがあったか
私は、YONEXなどのメーカーに入り、より一層、社会人でもトップになりたかったのですが、そのNTTのスカウトの人が親のところへ先に出かけ交渉終了していたもので、私はまたもや親のいいなりで就職することになるのです。
しかし、天理大学もベスト8から優勝まで行けたのだから、NTTも毎回ベスト8の実業団だけど、私がいれば・・とおごった自分がいました。
結局、おごりのある私とチーム環境のギャップで、いつも負けてばかり。最高でも全国2位までがやっとでした。恋愛でも、付き合っていた人がある日突然、知人と結婚してしまったり、不幸のどん底になっていました。
そこから逃れるように、東京に戻りました。幸い、私の就職を面倒みてくれていた人が、お声をかけてくださり、東京の本社に配属となったのです。
ところが、そこでも上司からパワハラを受けたと思い込み出社拒否(きっと私が悪かったのだと今では思います)。過呼吸になったりと、自分でどんどん落ち込んでいきました。人生ジェットコースター状態です。電車を見ると飛び込みたくなるので、ホームはできるだけ中を歩くようにしたりしていました。今でもたまにクセがでてしまいます。
そんな時、また救いの手が差し伸べられて、その上司と少し離れたポジションにつくことになりました。
そして、水を得た魚のように働きました。当時タウンページの表紙に写真を掲載したり、新しい生活シーンに分けたインデックスをつくったりと、アイデアをすべて形にしてもいいという上司に恵まれて、自分の願いどおりの電話帳を作らせてもらっていました。すごくやりがいのある日々でした。
ところがここでまた、上位ポジションをめざせと転勤になります。そこはコールセンターでした。必死に仕事をしても、電話帳の時のような解放感がなくなり、息が詰まるような日々で、体調を悪くしていきました。
自分で選んだ道ではなく、ネームバリューだけのNTTにしがみつく必要がなかったのでしょうね。このままでは、どんどん自分がダメになると、NTTをやめることを決意し、親を説得しました。親は生涯安定した会社で働けると喜んでいたのですから当然悲しみましたし、大反対でしたが、ここでようやく【自分らしく生きるための選択】をするのです。
本当は、吉本興業でお笑いになりたかったし、スキーのインストラクターにもなりたかったのですが、親がすぐにどこかに就職しなさいというリクエストがあり、とにかくつなぎのためにと、自分が使っていた化粧品会社に就職を希望。面接をしていただきアルバイトのつもりが正社員で採用されました。冬になったら山にこもってスキーするから、しばらくしたら辞めようと思っていましたが、編集の仕事で電話帳と同じようなことができるので、とても楽しく仕事が出来ました。
この仕事は私に合っていると喜んでいたときに、その部署の責任者の方々が会社とのトラブルで6名ほど退職してしまい、突然そこの責任者に抜擢されてしまったのです。
始めのころは、ずっと前からいた先輩の抵抗にも遭いましたが、チームをまとめたり、プランを考えるのは好きだったので、だんだんと支持してもらえるようになり、いろいろな経験をさせていただきました。
性格は基本ネガティブのままでしたが、そつなく何でもこなせていたので、新オフィスの立ち上げを3店舗させていただき、その場でチームづくりをしてくることができました。今から思えば、実地で起業の準備をさせていただけていたのだと思います。
当時は、付き合っていた人がストーカーになってしまい!!刃物で太もものところを刺されそうになったりと恐怖も味わいました。
新たなパートナーを得た!そして起業
ようやくそこを断ち切り、数年後今の夫と結婚。夫は、哲学を深く学んでいる人なので、知識の宝庫でした。あるとき、同じ本を読んでいた(中村天風:運命を拓く)時に、じっくりと将来について話をする機会がありました。私は化粧品会社で高給を頂いているけれど、もっと自分が望む化粧品を造りたい!と胸のうちを語り、夫の後押しで起業することになりました。
資本金は、私がOL時代にためていたお金400万円と、江戸川区からの融資200万円のみ。化粧品メーカーは、初回ですので少量制作はしてくれず、5アイテムあったので、納品になったときは、手元に12万円しか残っていませんでした。
ホームページは、1年間、毎日睡眠時間3時間でホームページビルダーでつくりました(シャレコ美肌カレッジ http://www.shareco.jp/)。まだ2歳だった娘が、夜中に起きて泣いていたのにも気づかずにホームページをつくっていたほどでした。お客様ゼロからスタートだったので、増やす方法はメールマガジンを出すことと学び、まぐまぐで配信。読者が増えず悩んでいたときに手元に残っているお金のうちの11万円の広告で読者1万人保障というのがあり、そこに全部つぎ込みました。(まるで博打のような感じでした。後で考えたら恐怖でした)1万人保障ですのでちゃんと読者が出来て大喜び。これで商売もうまく行く!と思っていたものの、それはプレゼント欲しさにただ入力しただけのメールマガジンの内容には興味のない人だらけの読者数だったのです。せっせとメールマガジンを出して、半年後にはシャレコスキンケアをオープンしたものの、初月は2940円のクレンジングが1本売れただけだったのです・・・・こんなに山のような在庫があるのに、たった1本。普通だったら落ち込むか、迷うかだったと思うのですが、私には唯一肌トラブルを解消するアドバイス力だけを前職のおかげで培わせて頂けていたので、そこに専念することとしました。アドバイスした人の肌が良くなるということで、次の月に数本売れてとなっていきました。それでも山ほどつくった化粧品ですから、消費期限があるので、あっちこっちに協賛しました。ただ、協賛もお金をとるところばかりなので、ただで配ってくれるところは奇跡でした。ご縁あって、そういった形でずっと進めてきたのがシャレコです。
ある融資組織は、女性にやさしいと言われていたので、事業計画書を出したところ、「化粧品業界に参入するなんて無謀だよ!!無名のところが売るなんて難しい!!」と担当者に言われとても悲しい思いをしました。その時、同じく融資を断られたという人がブログでコメントを残してくださいました。「私もそうでした。でも、今何年か経ってみて思うことはあの時断ってくれて本当によかったです。経営や売り上げは本当にそんなに甘いものではなく、たくさんのお金を借りてもそう簡単に返せなかったと思うからです。どうぞ、自力で頑張ってください!」という一言でした。
その時は、ピンとこなかったのですが、同じ思いをしている人もがんばって成功しているのだから、【きっと私もできる】と自分に暗示をかけて日々過ごしました。見も知らない人のコメントで本当に助けられたのです。
起業してしばらくすると、その意味がよーくわかりました。自分が予想した販売計画書や企画書がどれだけ理想の理想だったか!現実は甘くないというのをイヤというほど思い知ることができたのです。2年間はほとんど無給料でした。なんとか食べさせてくれていた夫の両親に心から感謝しています。
その後、初めてのお給料は2年数か月たって5万円が出ました。あの時は感激でした。起業のノウハウなどは、今のような起業塾と言われるものがあっちこっちにあったわけではないので、本を読んで勉強しながらでした。
私の起業の根幹は?
私は敏感肌だったため、化粧品をセールスされて何度も失敗した経験があるので、自分が販売するときはセールスは一切しない!と決めていました。セールスしないで化粧品を販売するにはどうしたらいいのか?それはただ、自分が今まで苦労した肌のこと、心のことを同じ悩みの人の立場に立ってサポートをすることだ!と決めて、化粧品をすすめるのではなく、肌相談をとにかく受けることにしました。
ですので、今まで10年間で一度もセールスはしていません。お使いの化粧品の中で、どのアイテムがトラブルの原因になっているかを見極めてご案内し、それをどう上手に使ったらいいかをお知らせします。
すると結果も出やすく、とても信頼してくださり、化粧品も使ってくださるのです。ずっとこのスタイルで来ました。
私は、相手の立場に立ってこうしてもらうと嬉しいということをしてきただけです。だからものすごく成長したという訳でもありません。同時期に女性起業家の方で、化粧品を販売されて大成功された方もいらっしゃいます。
最初は正直うらやましいな~、自分とどこが違うのだろうか?とか思う時期もあったのですが、今は年商が、売上がだというだけの判断ではなく、どれだけの人がシャレコを使って幸せになってくださるか?が大切だと考え、それが私に与えられた使命だと思い、日々スタッフとともに精進しています。
毎日の相談で、私やスタッフたちも人間ですから感情でゆさぶられてしまいそうになります。しかし、自分がその人だったらどうだろう?思いを深く考えられる人間になることが大切なのではないかと人間力を磨くための修行のようなものだと思っているのです。
肌の悩みはとても深刻です。実は肌が原因で引きこもったり、うつ病になったりされる方は本当に大勢いらっしゃいます。
肌は心と身体の状態そのもの【10万人の肌相談に応える】
肌が原因と先ほど申し上げましたが、実はご本人は肌が原因と思っていらっしゃいますが、肌は心の鏡と言われていて、胃腸、自律神経と関連しているので、自分の気持ちが原因のことが多いのです。完璧主義や頑固、人のことばかり気になる、競争意識などが自分を苦しめていらっしゃることに気づいていなく、それが肌に「身体も心も疲れすぎだよ!」と教えてくれているのです。まさに若かりし私のこと。
私は、スキンケアアドバイスや使い方をご案内するだけの人ですが、人生ジェットコースターの中で鍛えて頂いた経験をお伝えしながら、その方の心に刺さってしまっているピンを抜くお手伝いをしています。
それこそ、お一人の方と500回以上のメールをした経験もあります。でも、その方は社会復帰されました。
私たちの年代は競争社会というか、人より頑張ることで幸せが手に入るというような風潮があったからか、この年代の方は、他人との比較、競争で苦しんでいる人があまりに多いように感じています。
自分をほめることができない人が多いのです。もっと頑張らないと!強迫観念にとらわれてしまっています。もう十分に頑張っているんですよ。とお伝えすると電話越しに泣かれてしまうこともしばしばあります。
こうして、肌トラブルに悩む方を十数万人のケアを積んできて、結果を出していくことができるようになりました。すべてが学びです。心が元気になり、肌のトラブルもなくなっていくと、人は不思議なくらい自分のステージを見つけて、活躍されていくのです。
こうしてアクティブに輝く人たちに触れていくことができ、これからはこういった自分らしさを見つけ、輝きたいと心から願っている女性を10年の起業で学んだことからもサポートしたいと考えて、アクティブ女性応援プロジェクトを開始しました。
個人事業主の人、フリーランスの人、元アスリートの方とともに、「日本の女性が輝く~私の中の花を咲かせる」をテーマにみんなで、アクティブになるためのマインドの共有や情報を発信していこうと思っております。
10年の経験をさらに活かしてネクストステージに向かうために日々努めています。