薗田 綾子(そのだ あやこ)
株式会社クレアン代表取締役、NPO法人サステナビリティ日本フォーラム事務局長、NPO法人社会的責任投資フォーラム理事
- 1988年、女性を中心にしたマーケティング会社クレアンを設立
- 1995年ごろから、環境・CSRビジネスをスタートし、これまでに延べ約600社のCSRコンサルティングやCSR報告書の企画制作を支援
- 株式会社クレアン代表取締役、NPO法人サステナビリティ日本フォーラム事務局長、NPO法人社会的責任投資フォーラム理事を務める
22歳で起業、苦労の連続の毎日だった青春時代
「人様には迷惑かけたら、あかん。」
「人様のお役に立つことをしなさい。」
この2つが母の口癖でした。激動の昭和の時代を生き抜き、女性でありながら世間の常識に囚われず、自分の生き方を追求した母は、私のもっとも尊敬する人物でした。平成26年4月29日に85歳で永眠するまで充実した人生を送り、家族のために遺したエンディングノート※には「わが人生に悔いはなし」と潔いメッセージを書き残しました。
そんな母の生まれは兵庫県神戸市御影。当時はまだ珍しい建築家の祖父と材木問屋の娘の祖母の長女として昭和3年に誕生。祖父は京都大学卒業後に建築家になり、その評価も高かったことから様々な方面から仕事の依頼が絶えず、裕福な家庭環境の中で少女時代を過ごしました。好奇心旺盛で勉強好きだった母は、いろんな将来の夢を思い描いていたそうです。
ところが、過労のため祖父は29歳の若さで急死。その後、戦後の混乱の中、自立した経験のない祖母と幼い弟の生活を支えるために、苦労の連続でした。向学心にあふれていた母も勉強したかったのでしょうが、2歳下の弟を大学に行かせるために、高校卒業後すぐに御影の酒造メーカー(菊正宗本社)に勤め始めました。小さいころから愛嬌もあって、てきぱきと仕事をこなす自立した女性だったことから上司にも認められて人気者だったそうです。
その後、祖母は再婚したのですが、あまり真面目に働く夫ではなかったので、15歳離れて生まれた幼い可愛い妹の面倒も含めて自分が一家の大黒柱とならなければと起業を決意。昭和25年、母が22歳の時でした。
生計を立てるためには、日銭をかせぐしかないと考え、甲子園球場のすぐ側で小さなお菓子屋オープンを計画。ほとんど自己資金もなく、知り合いからの借金で何とか集めた当時25万円が開業資金でした。戦後の復興もまだまだという時代背景もあり、女性が開業するなんて・・・と周囲は大反対。でも、母の決心は変わらず、野球観戦や阪神パーク(遊園地)で賑わう甲子園の立地にもこだわって、まずは和菓子や冷やしあめなどの飲み物を売り始めました。その後には、たばこの免許も取得し、お菓子やパンなど商品アイテムを増やしながら少しずつ軌道に乗りました。
コンビニエンスストアもスーパーマーケットもなかった時代ということもあり、だんだんお客様も増えていきました。その理由には、雨が降れば傘やレインコートをそろえ、阪神パークのプールに来たお客さんには浮き輪や水着、浮き輪を膨らますポンプまで仕入れ、冠婚葬祭用の熨斗袋や香典袋、他にも切手やハガキ、ポチ袋、色紙やサインペンなどなど・・・とにかくお客様の声に応えたからです。わずか7坪しかない店内には、ところ狭しと商品が並べられ、まるでミニミニ・コンビニのようでした。(本人はミニスーパーと表現していましたが。)
戦争の体験から、感謝することを忘れなかった母
先見の明があったのか、昭和30年代に入ると、阪神パークではヒョウとライオンの子の世界の珍獣「レオポン」が大ブームとなりました。世界中でも阪神パーク以外の成功例がなかったことから、一躍、世界最先端の動物園となり、世界中から学者やマスコミが押し寄せ、やがてボウリング場も併設されて、休日ともなると行列ができる一級行楽地なみの人出でした。
現在は、倫理面が問題視されて、野生動物の異種間の交雑はどこも中止になっています。動物園自体が種の保存に力を入れていることもあり、商業的な交雑も行われなくなりましたが、昭和60年まで生き残ったレオポンは当時24歳で、人間の年齢に換算すると112歳という超高齢だったそうです。ちなみに、関西のおばちゃんたちがヒョウ柄を好む理由はきっと、子供の頃見た立派なたてがみのある、あのライオン風のヒョウ柄レオポンがカッコ良かったからかもしれません。確かに母も、ヒョウ柄が好きでした。
一日も休まず、毎日忙しく働いていた母の日々の楽しみは、とにかくお客さんに喜んでもらうこと。いつもお客さんのいろんな相談に乗っている母の姿は、おそらく今の私にも共通しています。ときには話し込んでしまい、我が家の食卓で一緒にご飯を食べて帰る人も少なくありませんでした。近くの小学校の先生から、甲子園警察署の刑事さん、タバコ組合や切手組合の方々、近所の方々。母の独特のセンサーによって、何か相談があったり、話がありそうな人を見つけると、「お腹減ってたら、ご飯でも食べて行かへん?」と言って、自分の手作り料理を振舞う性格でした。知り合いについついご馳走してしまうのは、この血筋なのかもしれません。お陰で我が家の食卓には、いつでもいろんな人がご飯を食べる姿があり、とても賑やかでした。
母の尊敬すべき点はたくさんありますが、その一つは、忙しい中でもインスタント食品はいっさい使わなかったところ。旬の素材を使った手作りの料理が自慢でした。35歳のときに見合い結婚した父は、会社勤めの真面目でとても優しい経理マン。お酒もほとんど飲まず、いつもきちんと同じ時間に家で夕飯を食べる習慣だったことから、食事メニューはとても充実していました。母の得意料理の天ぷらと鳥の唐揚げとコロッケは私の大好物でした。特に、揚げたての天ぷらは最高のご馳走。肉じゃがやおでんも定番料理だったので、いつの間にか私も煮物が得意料理になっています。
母の昔話の中では、「戦争時代には、食べ物に一番苦労した。」「1日に、手のひらに乗るわずかなお米を家族5人で食べるんで、おかゆにしても足りへん。お金があっても品物がないから、ほとんど何も手に入らへんかったしね。さつまいもや大根を近くの農家から分けてもらっても足りへんから、道端に生えている七草やいものつる、大根の葉をおかゆにいれて、菜っ葉雑炊を作ってたんよ・・・」と。そんな大変な時代だったとか。ふかしたさつまいもが学校のお弁当だったそうですが、たまに白いご飯に梅干をいれた日の丸弁当を持って行ったときは、隣の子供に遠慮して隠しながら食べた思い出などを語ってくれました。
もちろん、空襲の辛い凄まじい話も聞いたことがあります。「空襲は一生忘れられへん。サイレンが鳴り始めたら、すぐに頭の上にアメリカのB29の爆撃機が無数に飛んできて、耳を劈くような音とともに、あっという間に自分の周りは火の海に。本当に生きた心地がせんかったんよ。」と。そんな経験があったからかもしれませんが、毎日生きていること、ご飯が食べられることへの感謝をいつも忘れない人でした。
決断力のある母は、自立した女性のお手本
育児も家事も、また町内会やタバコ組合、切手組合などの要職を生き生きと楽しそうにこなしていた母は、私にとって、自立した女性の身近なお手本でした。ただ、子供のころは、いつも家にいる専業主婦の友達のお母さんが羨ましかったこともありました。両親が共働きなので、小学校のときから夕飯の支度や掃除をはじめ、お店のお手伝いなども何でも自分でしなければならない状況でした。でも、大人になってからは、一通り何でも自分でできるようになったことには改めて感謝しています。
母が弱音をはいたり、不満を言ったりした姿は見たことがありませんが、きっと母にも悩みや苦労もあったことでしょう。でも、母はいつも明るくポジティブで、絶妙な気配りと大人としての責任感、自分よりも周囲の幸せを優先する姿勢など、本当に尊敬できる部分がたくさんありました。
一見、合理的で男勝りだった母の素顔には女性らしさも宿っていて、実は書道、華道、茶道の師範免許も取っていました。毎日忙しい中で、どうやってそんな時間を工面したのか不思議でなりませんが、時間を見つけては頑張った自分のご褒美として、大好きだった宝塚や洋画にも出かけていたようです。
そんな母のDNAを見事に受け継いせいか、私が起業したのも25歳。小中学校では先生の言うことをちゃんと聞く優等生で、クラスの学級委員長もしていたのですが、高校、そして大学時代のいろんな出会いの影響で、今の社会に疑問を持つと同時に、反骨精神が芽生え始めて、社会をもっとよくするために何か影響力のある仕事がしたいと考えるようになったのです。
今のクレアンのビジネスモデルは、社会に大きな影響のある企業に対して、CSR(社会的責任)やCSV(社会との共創価値創造)を推進すること。ここには、母の口癖である「人に迷惑をかけないこと=社会にマイナスの影響を与えないこと」と「人のお役に立つこと=本業を通じて社会のためにプラスの影響を生み出すこと」がつながっているようです。
母の長所は、オープンマインドで、全くと言っていいほど裏表のない明るい性格、誰ともすぐに仲良くなるところ、好奇心旺盛で決断と行動が早いこと、芯が強くて男勝りの負けず嫌い、どんな偉い人にも全く物怖じしないところ、段取りよく先見の明があるところ、などなど・・・自分は母と全く違うタイプかもと思っていましたが、実は知らず知らずのうちに母の影響を受けながら、似ているところも多々あるような気がします。ただ、大阪のおばちゃんの典型的なちょっとずうずうしいタイプだった母の、そこだけは似ないように気をつけたいものです。
幸せな未来を創造するためにクレアンを設立
私は、大学卒業後に広告代理店に勤務。その後、転職して株式会社リクルートに入ってからは、男性も女性も全く差別なく働ける環境も肌にあって仕事が面白くて仕方ありませんでした。若いから多少無理しても大丈夫と思い込み、早朝から終電までばりばりと働いていたことから、過労のため突発急性難聴炎で倒れて1ヵ月近く入院。休養のためにしばらくオーストラリアの友人宅でホームステイをするのですが、その時に、ゆったりとしたライフスタイルの中で「改めて、本当に私の人生でやりたいことは何か、どんなことを死ぬまでに達成したいのか」と、人生設計を見直すいい機会に恵まれました。
「自分のライフワークになる仕事とビジョンを30歳までに見つけよう。」
「ベストを考えるばかりで行動しないよりも、ベターな道をみつけて、まずは行動しよう。」
「人の役に立つことが私の一番楽しいことだから、そのことを追求しよう。」
「女性が自由な発想で、能力を発揮するためにチャレンジできる場をつくりたい。」
「みんなが心豊かに生きるために、社会を大きく変える仕事がしたい。」
そんなことをいろいろと考えているうちに、実現してみたくなってしまいました。帰国後に大学時代の友人や広告代理店やリクルートの先輩たちに相談し、まずは、みんなが自分の能力をフルに発揮できる場づくりをすることを決意。クレアンの社名の語源は「クリエイティブな起業家」というフランス語の造語なのですが、自分の得意なことを生かして好きなことを仕事にしよう、と考えたからです。
1985年に株式会社クレアンを設立したとき25歳だったのですが、周囲は大反対の嵐でした。もちろん、私のことを心配してくれた訳ですが、「女の幸せは、お嫁さんに行って子どもを作って家庭を守ることだよ。」とか、「女性が起業なんてしても、絶対うまくいくはずがないよ。」など反対意見ばかりでした。
そんな中、心から応援してくれたのは、母でした。きっと自分が若いころ反対を押し切って起業したころを思い出したのかもしれません。そのときの母との約束はやはり、「絶対に迷惑かけたらあかんよ。」という一言でした。「絶対、人に迷惑かけへん。それよりも人の役に立つ仕事をするから・・・」
クレアンの目指すビジョンは、「サステナブルな社会の創造」。CSRを基軸としながら、コンサルティングの専門性を生かして、さまざまな環境・社会課題に対して、社会に大きな影響力のある企業から変わることが重要だと考えて、企業のCSR活動支援をしています。創業して26周年を迎える今では、社員も30名に増え、売り上げも5億円を越して、毎年きちんと納税もできるほどに成長しました。でも環境問題、社会問題は山積みとなる一方。私たちが目指している、笑顔あふれる心豊かで幸せな社会像にはまだまだ到達していません。今までに600社以上の企業に対して、環境・CSR報告書作成支援やCSR活動支援を行ってきましたが、これからはCSRやCSVを経営に組み込んだ、統合経営や統合報告書作成に向けて、レポーティングとコンサルティングを同時に加速していきます。また、多様性やステークホルダーとのコミュニケーションを深めながら、多様なセクター間でのエンゲージメント(連携)も進めていく計画です。
「何事にも前向きに取り組めばきっと道は開ける。」
「新しいことにチャレンジするのは楽しい。」
「いつも感謝の気持ちを忘れないことが大切。」
など、私の信条は母から受け継いだものばかりです。人に喜んでもらったり、美味しいものをご馳走したりするのも、母の生きる喜びだったのです。母の気持ちを大事につなぎながら、「世界中の多くの人たちの輝く笑顔のために」これからも未来をサステナブルにする挑戦を続けていきたいと改めて心に決めました。
きっと今でも母は、あの世から私たちのことを応援してくれているのでしょう。ちょっと不思議な感覚なのですが、亡くなったあとのほうが、母の存在を強く身近に感じるようになりました。いつもパワーを注いで温かく見守ってくれているような、そんな気がするのです。
一周忌によせて、大好きだった母を思い出しながら書き綴ってみました。「改めて、お母さん、ありがとう。私はあなたの子どもで本当に良かった。」