細田 満和子(ほそだ みわこ)

博士(社会学)、専門社会調査士

細田 満和子
  • 博士(社会学)、専門社会調査士、二児の母
  • 星槎大学副学長、同大学大学院教育学研究科教授
  • 世界社会学会医療社会学部会理事、日本保健医療社会学会理事
  • 公益財団法人がん研究会評議員
  • 1992年に東京大学文学部社会学科卒業、同大学大学院修士・博士課程を経て、日本学術振興会特別研究員(PD)
  • 2005年からコロンビア大学公衆衛生大学院アシエイト、2008年からハーバード公衆衛生大学院フェロー、2012年より星槎大学へ。
  • 専門は社会学、医療社会学、公衆衛生学、生命倫理学。著書に、『脳卒中を生きる意味―病いと障害の社会学』(青海社)、『パブリックヘルス 市民が変える医療社会』(明石書店)、『チーム医療とは何か』(日本看護協会出版会)、『グローカル共生社会へのヒント』(星槎大学出版会)等。論文多数。

子ども時代

この度、自分の生き方について書く機会を得て、改めてこれまでの人生を見直す作業をすることになり、今まで思い出しもしなかったような子ども時代の記憶が蘇り、それがきっと自分に大きな影響を与えていたのかもしれないと思ったので、ここから書き始めます。
私が生まれてから小学校6年生の夏まで過ごしたところは、栃木県鹿沼市という地方の小さな町でした。家の裏は小高い山になっていて、梅や柑橘系の樹木がまばらに植えられており、学校から帰るとよくひとりで散策していました。本を読むことがとにかく好きだったので、そうした場所で物語を思い浮かべ、ひとりで白昼夢を楽しんでいたような気がします。
そんな子ども時代を思い返すと、ひとりでいることが多かったというか、ひとりで過ごさざるを得なかったように思います。その理由として考えられる出来事として、小学校2年生の時のこと、校舎脇にある低学年用の遊び場の灌木の陰で、同級生たちが何人か集まっている場面に出くわしたことが挙げられます。今でもその場面を思い出すことができますが、近寄ってみるとそれは今でいう「いじめ」の現場で、一人の女の子に動物の糞を触らせることを強いていました。当然その子は拒否していましたが、力づくで触らせ、「菌」呼ばわりして、「菌がうつる」と言ってはやし立てていました。女の子は、色の白い綺麗な顔立ちのほっそりとしたおとなしい子でした。
大人になった今、あの時その子をかばってあげればよかった、先生に言って介入してもらえばよかったと思いますが、その時はできませんでした。そして、自分はそんなことをされたくない、人と関わることは怖いという印象を持って、同級生たちとの交わりを避けてきたように思います。その結果としてなのでしょう、クラスで孤立した存在となっていました。学年が上がるにつれ、日常的な話をしたり放課後に遊んだりする友人はできましたが、心を許し自分をさらけ出すことはないまま過ごしてきました。
自分が仲間に入っていかなかったこともありますし、周りが受け入れる環境になかったこともあるでしょうが、長い間、人を信用することができなかったように思います。自分の気持ちや意見を表明することを恐れていましたし、周囲からの規範の押し付け―女の子らしい振る舞いをする、よい成績を取って偏差値の高い学校に行くなど―に囚われていた側面もあります。

社会学との出会い

高校では理系クラスでしたが、成績は伸び悩み、高3の2学期から文転し東京大学文科Ⅲ類に入学しました。大学の授業は玉石混合でしたが、2年生の時にとったゼミのひとつに社会思想史があり、輪読のテキストとして初めて社会学の専門書を手に取りました。それはハンガリー生まれであるカール・マンハイムの『イデオロギーとユートピア』で、そこには「知識は存在に拘束されている」、「知識社会学は、様々に分化した個々人の思考を徐々に生み出すところの歴史的・社会的状況の具体的な仕組みをとらえ、そのなかで思考を理解すべく努める」といったことが書かれていました。なるほど私たちは、歴史という縦糸、地域という横糸が織りなす複雑な編み目からなる社会の中で生きているのだ。だから、それぞれ異なる社会の中で個々人は一定の集団に属し、その立場から影響された(=に拘束された)視座構造(=パースペクティブ)で社会を見ているのだと知り、新たな地平が開けたような気がしました。
また社会学からは、社会の規範に過剰に同調し、自分を見失ってしまう「過社会化oversocialization」という概念も学びました。まさにこれまでの自分のことだったと思い、目の前の霧が晴れたような気がしたのを覚えています。さらに社会学は「社会問題」や「公共性」を扱う学問であり、他者と交わることを恐れ、個に埋没していた私にとって、社会の様々な問題に関心を持つ学問に接して、現実の社会問題に関わろうとする学生や院生たちと交流することは、公的な世界に目を向けるきっかけを作ってくれました。きっと自分にこうした視点が欠けていたからこそ、社会学に関心を持つようになったのだろうな、と今思ったりします。2年の秋にある進振り(進学振り分けの略)の際には、迷わず文学部社会学科を希望しました。

芸術社会学から医療社会学へ

社会学科に進学して最初に関心を持ったのは芸術社会学の分野でした。旅行や絵画鑑賞や音楽が好きだったので、国内外の美術館やコンサートホールに足を運んでいたのですが、いつも疑問なことがありました。どうしてある特定の絵や曲が、価値あると考えられたり、特別な場所で展示されたり演奏されたりしているのかということです。昔は壁を飾るものであったり、共同体の祈りであったりした絵や音楽が、いかにして「芸術」として認識されるようになったのか。こうした疑問を持ち、深く調べてみたいと思いました。そこで、この変化には多分に社会的な要因が影響を与えているだろうと仮説を立て、検証してみました。その結果、18世紀末から19世紀近代にかけての、国家が威信を誇示するための美術館・博物館政策、美術マーケットの誕生、コンサートホールの登場、市民階級の台頭が、一定の絵や音楽を「芸術」たらしめている装置であったことが明らかになってきました。そして、この研究で卒業論文を書きました。
ただし卒業論文を書いている間も、一応就職活動はしてみました。バブル崩壊が始まろうとしている中、社会学科の同級生たちがよく行くマスコミ、シンクタンク、商社、広告なども一通り回って先輩の話も聞きました。しかし、朝から深夜までという働き方を自分ができるとは思えませんでしたし、一生続けてゆくほどの魅力は感じられませんでした。幸い大学院の入学試験に合格したので、進学することにしました。大学院に進んだことが、その後の人生への大きな一歩だったと思いますが、でもその頃は漠然としていて、具体的な将来構想はあまり持っていなかったように思います。

出会いに導かれて

大学院の修士課程では、芸術社会学で修士号を取りました。博士課程にもそのまま進んだところ、突然の進路変更がありました。そのきっかけは、准看護師制度問題と出会ったことです。看護師の資格には、正看護師と准看護師の2種類がありますが、この二重構造が元となり、制度上や待遇の面で様々な矛盾が生じてきてしまう問題が生じていました。そこで1996年に厚生労働省が准看護師の実態の全国調査に乗り出したのですが、ひょんなことからこの調査を担うことになったのです。
調査の過程で、私の社会学におけるテーマが芸術から医療に大きくシフトしました。准看護師問題を通して、医療における人々の関係性に関心を持ち「チーム医療」について研究することになり、やがて患者の皆さんや患者会とも出会い、医療者からではなく患者から見た病いや健康について研究することになりました。そしていつの間にか医療社会学の研究者となり、脳卒中になった方々へのフィールド調査を元にした研究によって、東京大学大学院から博士号を授与されました。
医療社会学は面白い分野で、超高齢化社会の中で社会的必要性も高いはずですが、日本では研究者もまだそれほど多くなく、手掛けなくてはいけないテーマが沢山あります。また、こうしたテーマを追及するには、社会学だけでなく、生命倫理学や公衆衛生学や健康科学や心理学や医事法学や医療史などの、隣接領域にまたがるような理論や方法論や知見を援用することが極めて重要なことになってきますので、そうした分野にも越境しながら研究を進めてきました。
なぜこうしたテーマに力を注ぐようになったかというと、一言でいうと患者や障がい者と呼ばれる方々と出会ってしまったからなのでしょう。こうした方々の病名を挙げると、脳卒中、脳性麻痺、ハンセン病、ポリオ、筋痛性脳脊髄炎、悪性肉腫など、なんだか難しい病気のように見えます。でも私の場合、どちらかというと「病人」というよりも「本人」に先に出会い、その人柄に惹かれ、活動に共感したことがまずあって、そこから研究や調査に入っていったように思います。共感できる人や尊敬する人が、たまたま病気や障害を持っていたという感じなのです。だからそうした方々が、社会に対して伝えたいこと、社会から受ける不当な扱いに異議申し立てをすることに、自分の専門性を利用して貢献したいという思いで、研究教育という分野での仕事をしてきたのだと思います。それは正義の味方を気取るわけではないし、いわゆる弱者保護とも違う、現代社会における市民的公共性という観点からの正当な作業だと、私自身は認識しています。

アメリカでの7年間

患者運動が盛んで健康や医療に関して包括的な研究が行われているアメリカの現状をもっと知りたいと思い、2004年から2007年まではニューヨークのコロンビア大学、2008年から2011年まではボストンのハーバード大学で研究を続けましました。こんな風に言うと聞こえはいいのですが、そもそもの渡米のきっかけは循環器内科医で心筋細胞再生の研究をしている夫が、アメリカで研究職を得たことがきっかけでした。5歳と0歳の娘たちを連れ、私も留学することにして、在外研究の助成プログラムにせっせと応募し、何とかほぼ毎年どこかに採択してもらい、学術振興会特別研究員、ファイザーヘルスリサーチ研究員、タケミフェロー、アベフェローを渡り歩き、アメリカでの研究を続けていきました。
このアメリカでの生活は、私にとって大きな転機になったと思います。世界中から集まる同僚は、自国で、また世界のどこか別の他国で、いのちと健康を守るための実践的研究をしていたので、医療社会学の分野を背景に、この社会がいかに人々のいのちや生活を守ってゆけるかを探求していた私は、大いに刺激を受けました。また、自分から発言をしてゆくこと、意見が異なっても関係性はそんなに壊れないことも、アメリカに住むようになって学びました。当たり前のことかもしれませんが、日本社会にどっぷり浸かっていた引っ込み思案な私にはとても新鮮で、行動変容を起こさせるような環境でした。
行動変容の産物なのかもしれませんが、ボストンでは2009年に「ボストン日本人女性研究者の会」を発足させました。これは会員が持ち回りで自分の得意分野から話題提供をし、みんなで有意義なことを楽しく学ぶという趣旨の会でした。その後、ボストン在住の日本女性のお茶会を定期的に開催していた音楽家の友人と共同創設者となり、2010年5月に「ボストン日本女性の会」(Japanese Women’s Club in Boston:JWCB、以下「女性の会」)を誕生させました。「女性の会」の会員資格は「自律していて向上心を持ち、他者を尊重できる女性であること」であり、2015年現在の会員は80人以上、活動はレクチャー・シリーズ、お茶会、東北支援を3つの柱としています。レクチャー・シリーズはほぼ毎月開催され、会員や会員の紹介者等に講師を務めて頂き相互学修をし、レクチャー後はポトラックで手作り料理を持ち寄るパーティをしていました。2011年3月11日の東日本大震災の際は、直後に会員が集結し、東北復興のために様々な活動をし、それは現在でも続いています。
ニューヨークとボストンでの仕事や生活については、紙幅の関係でここには十分に書けませんが、ご関心のある方は拙著『パブリックヘルス市民が変える医療社会』(明石書店)や『グローカル共生社会へのヒント』(星槎大学出版会)などをご覧になっていただければと思います。

パブリックヘルス 市民が変える医療社会
グローカル共生社会へのヒント

日本への帰国と就職

研究を続ける中で、本を書いたり、査読付き論文(和文と英文)を書いたりしてきました。これはかなり地味で地道な作業で、座りっぱなしでキーボードをたたいているので、ぎっくり腰になったこともあります。執筆作業をするのは、ほとんど明け方で、子どもたちを寝かしつける時に一緒に寝て、夜中の3時とか4時に起きていました。書き物の仕事は、なかなか先の見えずに苦しい時もありますが、健康や医療に関する諸問題を同定したり、分析したり、解決のための活動を考察したりすることは、重要な意味があると思いますし、研究成果を求めている人もいますので、なんとか頑張ってきました。
多くの大学では、博士号を持ち、著書や論文が一定数あり、教育力がある人物を大学教授として採用することを規則として定めているようです。私も一応、博士号があり、著書も数冊、査読付き論文も10本以上あり、社会学を教えてきた経験もあったので、アメリカから日本に帰ってきて直ぐに、現在所属している星槎大学で教授として採用されることになりました。星槎と最初に出会ったのは、2011年5月に震災支援で向かった福島県相馬市においてでした。原発事故でメディアも行かず物資も届かなくなった場所だからこそ、率先して支援に入ったのが星槎で、創設者の熱い志の下、共生を核とした理念を持っており、とても共感できました。
ずいぶん長い間、学生や研究員の立場にいたような気がします。40歳を超えても定職のないままでいることは、なかなか自分を納得させるのに難しいものがありましたが、研究をすることで患者さんが救われるのではないか、医療が改善されるのではないか、世の中が良くなるのではないかという思いがあったので、なんとか心折れずに続けられたのではないかと思います。ある程度、開き直りも重要な要素かも知れません。

ワーク・ライフ・バランス

私は博士課程の時に結婚し、二人の女の子にも恵まれ、ニューヨークとボストンで約7年間、子育てをしながら研究をすることができました。アメリカでの子育ては、親にとっても、子どもたちにとっても、大変貴重なもので、いい思い出になっています。ただし子育てと仕事の両立はそんなに簡単なものではなく、どこかで諦めたり、割り切ったりする必要がありました。優先順位を付けて、できることはする、できないことはしょうがない、と思うようにしましたが、こんな時、研究というのは自分の好きな時間に、どこででもできるので、子育てをしながら続けやすい仕事かもしれないと思いました。
物理学の用語に「レジリエンス」という言葉がありますが、これは弾力や跳ね返す力を表しています。ここから着想を得て、心理学の分野でも、外力による歪みであるストレスに対して、その歪みを跳ね返す力として、折れない心や逆境力などが「レジリエンス」として注目されています。ワーク・ライフ・バランスには、まさにこの「レジリエンス」が必要であると思います。そしてこれまでの過程でも、「レジリエンス」は不可欠だったと思います。厳しい状況においても、ネガティブになって落ち込んで自己否定に陥ったりせず、楽しいことや小さな幸せを見つけてポジティブに過ごすことが、とても大切だと思います。

現在の仕事

2012年から星槎大学専任教授となりましたが、2013年から任命された副学長としての仕事では、大学運営の面白さを味合うことになりました。例えば、現代社会のニーズに合うような新しいカリキュラムを考えたり、公開講座の企画を検討したり、高等教育の在り方や、ひいては日本の教育全体についても、考えたり議論をしたりする機会を持てるようになりました。また、大学附属国際交流センター長もしているので、海外の姉妹校(ブータンのロイヤルティンプー大学)を中心とした国際交流を行い、留学案内や海外研修引率などもしています。星槎グループ内には高校も複数ありますので、高大連携の一環として高校生に話をしたり、自由研究に対するアドバイスもしたりしています。
以上で、だいたいではありますが今のところの人生を振り返ってみました。まだ何かを成し遂げた訳ではないので、業績といえるほどのものはありませんが、仕事というのは、与えられた環境において、求められたことに対して精一杯できる限りのことをする、ということなのではないかと思ったりします。
ひとりでいることの多かった子ども時代と打って変わり、今は、人と関わることで人生が形作られていることを、日々実感しています。その時々に出会った方々の影響を多分に受けているので、現在の仕事はかなり雑多なことになっているなと思います。この頃は医療や教育だけでなく、環境やエネルギーについても関心を持ち、多くのことを学ばせていただいています。これは東日本大震災の被災地、福島の皆様との交流がきっかけになっています。一見するとそれぞれはバラバラのようですが、幸福や豊かな社会とは何かといったことに、どうやら繋がっていくのではないかと思っています。
最後になりましたが、夫や子どもたちから教わることもたくさんあり、家族がいるからこそ、仕事もできています。私の人生は、家族なしには語れないと思うくらい、心から感謝しています。