室伏 香縁(むろふし こうえん)

「二十一世紀詩歌朗詠懇談会」会長

室伏 香縁
  • 5歳で長唄・三弦。10歳で吟詠界の巨匠、伊藤長四郎師の吟詠と舞に入門。中学生の頃より、毎年吟詠コンクールに入賞し、クラウンレコード専属となり、若手吟詠家として活躍。
  • NHKオーディションに合格し、ラジオ・テレビに出演。長四郎師亡き後、34歳で独立し、朝日カルチャーセンター講師として邦楽部門に「詩と歌の吟詠教室」を開設。
  • 吟詠を通して「健康で幸せな人生をクリエイトする呼吸法・発声法」を普及することに情熱をかける。以後、3教室を17年間続ける。NHKオーディションに合格し、ラジオ・テレビに出演。
  • 39歳で『日中吟詠交流団』団長として訪中したのを機に、漢詩を中国語で味わう運動」を展開し、漢詩を中国語で作曲・朗詠し、毎年日本と中国で漢詩朗詠会を開き、漢詩朗詠に新しい道を拓いたと高い評価を受ける。
  • 北京大学、首都師範大学で「漢詩と短歌の講座」を続け、中国の若い人に漢詩と短歌の心を紹介し、日中文化交流・友好の大切さを伝える。
  • 「北京大学良寛研究会」副会長、「北京大学中日比較文化研究会」副会長に任命される。北京大学日本研究センター特別研究員就任。上海復旦大学でも「漢詩と短歌の講座」を開く。中国の若い学生たちは、自国の漢詩を改めて見直し、日本の短歌の心を知り、御互いの心と心の交流の大切さを実感できたと喜ばれた。
  • 和歌朗詠を通してニューヨーク、パリ、ブザンソン【フランス】、イタリアなどで『日本の伝統文化―短歌に詠われた日本人の心』を紹介し、日本人の美意識、感性の素晴しさに感動したとの評価を得る。
  • 「二十一世紀詩歌朗詠懇談会」の会長として漢詩と和歌の後援会を毎年開催し、漢文学者の石川忠久先生と京都冷泉家の冷泉貴実子さまとの交流を深め、和歌と漢詩という日本の伝統文化の普及に努めている。

1. 邦楽との出会い

私は五歳の時、長唄・三弦の世界に入門したのが、私と邦楽との出会いであった。 私はお三味線が大好きで、お三味線を弾いていればご飯を食べなくてもいいと思った。よく舞台にも出していただいた。五歳から邦楽を学んだことが、今日まで私の邦楽の発声と間(ま)というものの土台となって生きている。

2. 吟詠の巨匠に入門

十歳からは吟詠界の巨匠、伊藤長四郎師の直門として、舞と吟詠に入門することになった。長四郎師は薩摩琵琶の名手でもあり、琵琶芸で磨き抜かれた格調高い吟詠で、風格と優しさを備えた師の元には数千人の門弟が集まっていた。当時は吟詠が盛んで、長四郎氏を頂点に素晴らしい先生方で輝く華やかな世界であった。戦後間もないころで、私は母と二人暮らしをしており、母が生け花の家元として何とか生計をたてていた。華やかな芸事の世界に娘を入れる程裕福ではなかったはずだ。
私の家は、戦前は父が大きな海苔問屋をしており、小僧さんや女衆がたくさん居て、母も財産家の大奥様で裕福に暮らしていたらしい。ところが、戦争ですべてを失い、父も病気で亡くなり母の生活は一変した。女手一つで三歳の私を抱えて生計を立てねばならなくなった。母は自分の体験から「人生はいつどうなるかわからない。女と言えども何か一つ身を立てるものを身に着けなければいけない」という思いが強かったようだ。五歳からの長唄・三弦、十歳からの舞と吟詠という稽古事は、趣味とか楽しみでやらせたわけではなかったのだ。母は苦しい中で、私に一人前の芸を身につけさせようと一生懸命だったのだ。

3. 芸の厳しさ生き方の厳しさを教えられる

まだ小学生の頃、吟詠の稽古日が大雪になった。当時は交通も不便で、稽古場までは歩いて四十分はかかる。いつもは何の苦もなく張り切って行くのだが、さすがに大雪で寒いし、こたつから出がたくて「今日はこんな大雪だから休みたい」と言った。すると母は、「こんな大雪の中を先生は見えるんでしょ! 弟子のあなたが休んでどうするの!」と物すごい剣幕であった。私は半ば追い出されるように外に出た。寒い雪道を歩きながら、私は母の本当の子ではないのかもしれない、と悲しくて涙が出た。子供を雪の中へ出す母の方がつらかったのかもしれない。それでも母は「芸の道はそんな甘いものではない。暑いから、寒いからと休んでいては身に付くものもみにつかない。弟子は自分の事より、師匠の事を第一に考えなさい」、という芸をやるものの厳しさと、師弟関係の在り方を教えてくれたのであった。このことは、その後の私の人生に大きな教訓となっている。これは芸界だけでなく、ビジネスでも何の世界でも同じだと思う。本当に真剣に物事に取り組むときには、暑いの寒いのと言っていられないし、自分の事ばかり考えていると相手が見えない。まず相手の身になって考えると、何をすべきかが見えてくる。相手を思いやることの大切さを痛感する事は今でも多い。子供にしっかり教えたい。

4. 独立後のあれこれ

私は師匠が亡くなって三年後に独立した。独立と同時に「朝日カルチャーセンター」の邦楽部門の中で講師として迎えていただいた。
「朝日カルチャーセンターは新宿住友ビルの中にあり、四百数十種の講座を有し、各界の一流の人が講師として名をつらねた、当時の花形であった。私は吟詠を一般社会で邦楽として認めて頂きたいと強く願っていたので、邦楽部門で、講座を持てる事は本当に嬉しかった。四十八階の六十人入りの防音装置の部屋で、私の「詩と歌の吟詠』教室がオープンした。六十人の席は満席を超えて、二人掛けの椅子に三人掛けするほどの盛況であった。” バブル“に向かってエネルギーに溢れていた。

5. 歌や漢詩吟詠を通じて正しい呼吸と発声法を

私は単に歌を教える先生ではなく、たくさんの和歌や漢詩を楽しく歌いながら、正しい呼吸法、自然な発声法を身に着けて、一度しかない大切な人生を健康に、幸せにクリエイトして頂く為の吟詠教室にしたいと思ってその事をチラシに書いたのがよかったらしい。「上手に歌うのではなく、立派な歌を目指して下さい。立派な歌を歌うには、上手に歌おうと意識しないことです。」すると上手に歌う自信のない人たちが、上手でなくていいのなら、と安心して声を出すようになっていく。歌えるようになると積極的になっていく。正しい呼吸と発声が身に付くと背筋が伸びて、若々しくなる。色々な詩を歌っていくと、今まで見えなかったものが見えてきたり、新しい発見をしたり、季節の移り変わりに敏感になって、春の風、秋の風を感じたりと日々の生活が豊かになっていく様子を見て嬉しくなる。歌がこんなに皆を変えるのかと驚く。私は『歌は人生を変える』ということを確信し、私自身のやり甲斐もますます大きくなっていった。
私は何か活動する時に、すこしでも社会に貢献できることや、特に「使命感」を感じられることには突っ走ってきたように思う。「思えば叶う」「継続は力なり」を心に持ち続けたい。