白石 紀子(しらいし のりこ)
国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構 H3プロジェクトチーム ファンクションマネージャ
- 1978年 東京都生まれ
- 2002年 東京都都立科学技術大学(現:首都大学東京)大学院修士課程修了
- 同年 宇宙開発事業団(現:国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構)入社
- 2009~2012年 H-IIBロケット打上げの発射指揮者として試験機、2号機、3号機の打上げを行う
- 現在 H3ロケットプロジェクトチームにて2020年度に打上げ予定の新しいロケットを開発中
ロケット発射指揮者の仕事
「X-60分ターミナルカウントダウンを開始します。」地下の発射管制室の中に私の声が響く。100名を超える作業者がそれぞれの担当する操作卓やPCの画面を確認しながら1時間後に迫ったロケットの打上げに向けて黙々と作業をしている。正面に並んだモニターには発射場で燃料を充填し、打上げを待つH-IIBロケット試験機が様々な角度から映っている。私はモニターと作業者が見渡せる1番後ろの席で、分厚い手順書をめくりながらインカムを通じて決められた時刻に決められた作業の指示を出して行く。張り詰めた空気の中、時間は刻一刻と打上げの瞬間に向かって進む。
「X-280秒」打上げ270秒前からは自動カウントダウンシーケンスが始まる。それまで作業者が直接準備作業をしていたが、ここからは全て機械が自動で操作し打上げまでに必要な作業を行う。私はそのシーケンスを開始する『発令』と書かれたボタンのスイッチを押した。実質の打上げ発射ボタンだ。この後は何も問題がなければロケットは打上がる。ただし、問題が見つかった場合は打上げを止めなければならない。異常があるままシーケンスが進むと打上がったロケットが爆発するなどの事故に繋がるからだ。私は立ち上り自動カウントダウンシーケンスを中止する『緊急停止』と書かれたボタンに手をかけながら、管制室内の空気を読み取るように集中した。異常があれば誰かが何か特別な動きをする。それを即座に感じとり、緊急停止を依頼するコールを受けた瞬間にはボタンを押さなければ手遅れになる可能性があるのだ。冷静な判断ができるように繰り返し訓練してきたが、それでも心臓がドキドキする。
「X-10、9、8、7…」打上げが数秒に迫る。「MEIG(メインエンジン点火)」モニター画面の2基のLE-7エンジンから燃焼ガスが吹き出す。「0」4本の固体ロケットブースターSRB-Aが点火し、モニター画面は噴煙に包まれた。「リフトオフ確認」発射指揮卓の画面に表示されたリフトオフ信号を見て私がコールする。ロケットが打上がった証だ。すぐに後処置の手順に移る。
ロケットは打上がって成功ではない。荷物を宇宙空間に届ける任務を果たして初めて成功と言える。でも、打上がった後は私達はもう何もできない。ロケットが自ら任務を果たすまで、送られてくる各種のステータス信号を見ながら見守るしかないのだ。「1段エンジン燃焼正常、高度xx」信号を見ている担当が状況を伝えてくれる。「SRB-A燃焼終了、分離」「フェアリング分離」「1段エンジン燃焼終了」「1、2段分離」「2段エンジン点火」…ロケットは燃焼し終わった部分を切り離し軽くなってさらに加速し、秒速8kmまで速度を上げながら宇宙に出て行く。「2段燃焼終了」「HTV分離」管制室内に拍手と歓声に包まれた。H-IIBロケット試験機の打上げが成功したのだ。私もほっとして強張っていた顔が緩むのを感じた。
H-IIBロケットは2009年に初めて打上げられた新しいロケットだ。それまで打上げ実績のあったH-IIAロケットを改良して大型化し、国際宇宙ステーションに物質を届ける補給機HTV、通称「こうのとり」を打上げるために開発された。短期間、低コストでの開発であったが開発は成功し、その後現在までH-IIBロケットは7回こうのとりを国際宇宙ステーションに届け、宇宙飛行士の生活や宇宙での実験を支えている。
空への憧れから
私は東京都中野区で生まれ育った。父はサラリーマン、母は専業主婦、2歳年上の姉と私の4人家族。子供の頃の私はこれと言って特技もなく、楽しいこともあれば嫌なこともある毎日を平凡に生きていた。小学校高学年から中学になる頃、考えていたのは「私はなんのために生まれて来たのだろう?」と言うこと。今思えば産んで大切に育ててくれた親にはとても聞かせられない悩みだが、当時思春期の私は自己中心の受け身的な考えから自分には生きている意味がないようにも思っていた。そんな頃、学校の帰り道に空を見上げて、「あの高さまで飛んで行って地上を見下ろし、行きたいところに行けたらどんなに気持ち良いだろう」と思った。都内の空は高い建物に阻まれて限られた範囲しか見えなかった。そんな狭い地上で生きている自分が大空に羽ばたくことができたら…と想像すると気持ちが軽くなった。
空への憧れを頼りに自分から一歩を踏み出したのは中学2年生の時。転校することを決めた。空を飛びたい、でも、どうしたら飛べるのか?飛行機を作ったら飛べるかも、でも、飛行機の作り方がわからない。じゃぁ、飛行機の作り方が分かる大学に行って教えてもらおう。当時の私は小学校から短大まである私立に通っていたが、その学校の短大には工学部はなかった。このまま進んでも学びたいことにはたどり着けない、行きたい大学に行くには進学率の高い高校に行く必要があって、そのために高校受験するならここにいちゃダメだ。そう思って中学3年から公立中学に転校した。親は私が決めたのならと少しも反対しなかった。
大学に行って飛行機の作り方を学ぶ、そのために大学受験できるだけの知識を身に付けなければならない。中学や高校時代はそれなりに楽しいことも嫌なこともあったけれど、大きな決意が常に自分の中にあったお陰で勉強には前向きに取り組むことができた。大学は東京都立科学技術大学を選んだ。都内の国公立の中で1年生から航空宇宙工学を専攻できることが魅力だった。大学での講義は本当に楽しかった。これまで知りたいと思っていたことを教えてもらえる環境で履修できる限りの単位を取得した。
大学で飛行機の作り方を学んだ私だったが、飛行機を作ることはなかった。その理由は、大学時代に始めたハンググライダーにある。自らハンググライダースクールを探して通い、1人で空を飛ぶことができるようになってみると、それは私が幼い頃に想像していた空を飛ぶことだった。難しい知識や複雑なエンジンがなくても空は飛べたのだ。高校時代に担任だった物理の先生が進路相談の時、「あなたの場合は飛行機を作りたいんじゃなくて、飛びたいんじゃないの?」と軽く言っていたのが正に真実で、私の空への憧れはハンググライダーによって満たされた。今でもたまに空を飛ぶが、上空から地上を見下ろす時、生きる意味を探していた頃に比べて自分が自分らしく生きていることを実感できる。
ロケットとの出会い
私が専攻した航空宇宙工学部では飛行機のことだけでなく宇宙機(ロケットや人工衛星など)のことも学ぶことができた。私が就職を意識し始めた頃、日本の純国産ロケットH-IIが連続で失敗し、新しいロケットH-IIAが開発されていた。その様子をテレビや大学の特別講義などで聞き、ロケットはまだ安定していない、宇宙に行くというのはまだ難しいことなんだと知った。飛行機はライト兄弟が初飛行に成功してから100年経った今では当たり前のように利用できる。同じようにロケットもいつかは当たり前に宇宙に行ける時代になるのだろう、でも、そのためには誰かが努力しなければいけない。それなら今の時代に生きている私がやろう。その思いからロケット開発ができる宇宙開発事業団に入った。
入社して初めの勤務地は鹿児島県の種子島宇宙センター。ロケットの打上げが行われてる場所だ。大学でロケットの勉強はしていたが本物のロケットを知らなかった私は、現場で本物を見ながら学ぶことを希望し、発射管制課というH-IIAロケットの打上げを担当している部署に配属された。女性では初めての配属だった。ロケットが運び込まれ、組立て点検が行われて打上げられる。その作業を見ながら現場の技術者や作業者と会話し、たくさんのことを学んだ。ロケットがない時は打上げのための設備のメンテナンスを行い、開発中の固体ロケットブースターの地上燃焼試験の手伝いもした。発射指揮者の仕事を知ってなりたいと思ったのもこの頃だ。何もかもが初めてのロケットの世界に飛び込んで、がむしゃらに働きたくさんのことを経験して吸収した。種子島での4年間は私の仕事の基盤となっている。
この時期の一番貴重な経験は、ロケットの打上げ失敗だ。H-IIAロケット6号機は、入社2年目でアシスタントの発射指揮者になり私が初めて地下の発射管制室に入った打上げだった。リフトオフは正常に行われてホッとしていた矢先、管制室内に「ロケットはミッション達成が困難なことから指令破壊されました」という放送が入る。ロケットは飛行中に異常が起きると地上からの信号で地上に被害が出ないうちに破壊される。この破壊信号は私達ロケットを打上げる部署とは独立した飛行安全の部署が担当している。放送を受けて状況を確認し、固体ロケットブースターの1本が分離せずロケットが所定の高度に達しなかったことを知った。ロケットの開発と打上げには多額の税金が使われている。技術への挑戦によるハードルよりも、失敗に対するメディアや国民の批判の方が辛かった。それでも、ロケット開発に携わる人達の宇宙を目指す思いは強く、たくさんの人達が失敗の原因究明と打上げ再開に向けて積極的に働き、1年半後にH-IIAロケット7号機の打上げ成功を達成した。私もその中に揉まれ、ロケットの打上げを成功させるために必要なことを学んだように思う。H-IIAロケットは7号機以降、現在40号機まで打上げ成功を続けている。
種子島勤務の後は筑波宇宙センターの勤務となりH-IIBロケットの開発に携わった。試験機から3号機の打上げでは念願のロケット発射指揮者を任され、打上げに関わるたくさんの人達と一緒に力を合わせて打上げを成功させる貴重な経験をした。
その後、少しロケットを離れて広い視野が持てる東京事務所勤務を希望し、広報部に異動となった。父が他界し1人になった母と一緒に暮らしたいという理由もあった。3年間の広報部時代には、世の中の女性活躍推進の影響もあって社内に新しく男女共同参画推進室を立ち上げることになり、その活動にも従事した。女性初と言われてもあまり特別なことはなく男女差なくロケット開発をしていた私だったが、この活動を通じて、世の中の動きを知り、女性活躍のための制度やロールモデルの提示が必要なことなどを認識し、自分が女性だからこそできる生き方や働き方を考えるようになった。
現在はロケット開発の部署に戻り、2020年度に試験機1号機を打上げ予定の新しいロケットH3の開発に従事している。
子育てという挑戦
広報部に異動した年に結婚し、すぐに妊娠した。結婚したら子供は欲しいと思っていたが、仕事にかける気持ちに変化はなく、広報部でもロケット打上げをメディアを通じて情報発信することを使命と感じて週単位の出張もしていた。そんな中、16週の検診で胎児の成長が止まっていることを知った。すぐに入院して死産した胎児は、まだ人の形には至っていない白い物体だった。それでもなぜかその物体は私に天使を連想させ、「ごめんね」と涙が出た。胎児が育たないことは珍しいことではないと聞くし、自分を責めるべきなのかもわからなかったが、ただ、この経験は私に新しい命が生まれて来ることは数々の幸運に恵まれた奇跡なんだと教えてくれた気がする。
幸い翌年には再び妊娠して長女を出産した。男女共同参画推進室での情報から保育園に入れるかが仕事復帰のハードルと聞いていたので、妊娠中から保育園を探して申し込んだ。認可は落選したが認証保育所に入園許可をいただき、0歳4月から預けて5月に復職して、育児と仕事の両立生活が始まった。長女は健康に育ってくれたお陰で、数回病児保育を利用しただけで仕事に大きな穴を開けることはなく、逆に限られた時間で働くので集中して効率を上げることや、いつでも休めるように周囲と情報をシェアすることなど新しい働き方を見出だすことができた。長女が1歳になってからロケット開発の部署に異動の辞令が出た。筑波までの片道2時間通勤の生活では、朝は全て夫に任せて出勤し、夕方は延長保育を利用してなんとかフルタイム働ける状態を作った。残業できない働き方は独身時代の自分からは想像できなかったが、身に付けたプロジェクトマネジメントを活用し、試行錯誤しながらなんとかそれなりに仕事でも成果を出すことができるようになった。
40歳が近づくともう1人子供が欲しいと思うようになった。理由は色々あって、夫婦は2人なんだから子供は2人以上が少子化対策と祖母に進められたこと、長女をこのまま1人っ子にして良いのかと考えたこと、自分が次女なので親が姉を育てて1人で十分と思っていたら自分は生まれていなかったのかもという思いなど。仕事を理由に子供を作らないのは楽だけれど妥協に思えて嫌だった。そんな思いに応えて次女は私の41歳の誕生日に生まれてきた。姉妹の育児は予想以上に大変だが、長女も一緒に家族が増えたことを喜べることは何よりの幸せだ。次女も0歳4月から保育園に預け、4月から復職する。H3ロケットの打上げまで2年を切り、ロケット開発の仕事は日に日に忙しくなっている。そんな中に0歳児を育てながら戻ることが適切なのか、不安はある。それでも自分なりの挑戦を続けていくしかないと思う。ロケット開発の部署にまだまだ女性は少ないが少しずつ増えているし、共働きの男性や育児に関わる男性も増えている。変化する時代の中で前例がないことをやらない理由にはしたくない。
ロケット開発にかける思い
宇宙と聞いて自分には関係のないものと思う人はまだまだ多いかもしれない。でも、宇宙利用はすでに私達の生活に浸透している。海外からのライブ中継を可能にした放送衛星、毎日の天気予報の精度を上げている気象衛星、カーナビに使われているGPS、災害時に地球規模の情報を伝えてくれる地球観測衛星など、宇宙を利用することで私達の暮らしはより便利で快適になっている。宇宙飛行士が国際宇宙ステーションに滞在していることは普通になったし、その無重力環境を使った新薬の開発も行われている。はやぶさのような探査機や各種の望遠鏡を積んだ科学衛星が提供する情報によって、宇宙の謎が少しずつ解明されてきた。着実に宇宙は私達に身近なものになりつつあり、月や火星に人が住む日も夢ではない。
でも、これらの宇宙での活動ができているのは、ロケットという宇宙空間へのアクセス手段があるからだ。このロケットが失敗しないだけでなく、より頻繁により安価に打上げられるようになることがこの先さらに宇宙を身近にするためには必要になる。ロケットの開発は今よりももっと良い時代を作ることに繋がると信じて、私はこの仕事を続けている。