加藤 孝子(かとう たかこ)

名取名 藤間勘七孝(ふじまかんしちこう)

加藤 孝子氏
  • 1938年 東京都世田谷区に生れる
  • 1957年 お茶の水女子大付属高校卒、
  • 同年 日本郵船(株)に入社・勤務 
  • 1958年 日本舞踊藤間流の名取となる。
  • 1958年 結婚、二児の母となり、1968年夫の転勤でニューヨークに在住(6年間滞在)。
  • 1972年~1974年 ニューヨーク市立大学 クイーンズカレッジ留学
  • 帰国後、1975年 舞踊の師範教授免許取得し、舞踊活動を始める。
  • 舞踊の指導の傍ら、国立劇場及び川崎及び各地の劇場や能楽堂で舞台出演し、リサイタルも主宰。
  • 海外での各地の国際文化交流を行い、これまでに15カ国、述べ70公演を超す。
  • 2017年 公益社団法人日本舞踊協会より「永続舞踊家」として表彰状授与.

日本舞踊との出会い

1943年、第二次世界大戦の戦局がいよいよ厳しくなり、私は両親と離れて埼玉県桶川市の母方の祖父母の家に疎開した。翌々年そこで小学校に入学したが、その夏終戦を迎えた。
終戦の年、早くも村では秋祭りがあった。その時に初めて見た2人のきれいなお姉さんの『荒城の月』の踊りにあまりにも感動して目に張り付いてしまい、金縛りにあったような衝撃を受けたのを覚えている。これが私が踊りに出会った最初だった。
踊りを全部記憶してしまい、東京に戻って北沢小学校2年生に編入し、学芸会で『荒城の月』をずうずうしくも一人で踊ったのを覚えている。
そして母にどうしても踊りを習いたいと懇願した。お小遣いもおやつもいらないからと・・・。
あまりにも熱心にせがんだので、母は仕方なく母の浴衣を子どもサイズに縫い直して「せっかく習うんだったら途中でやめたらだめだよ。雨の日でもどんな時でもきちんと休まず稽古は続けなさいよ」と言って、やっと習わせてくれた。幸いお稽古場は近くにあった。嬉しさのあまり、学校から帰るとすぐ鞄を家に放り出して走って、月水金、月水金と週3回稽古場に休まず通った。
おやつは自分でサツマイモをふかし、薄く切って屋根の上で干し芋を作って食べた。
只毎年行われていた踊りの発表会にはお金がなくてあまり参加出来ず、客席でひそかに涙を出しながら友達の踊りを眺めていたこともあった。
高校卒業後の進路は、大学進学も目指したが、舞踊の名取になって舞踊に打ち込む気持ちの方が強かった。それにはその資格を得るために費用が必要であり、親には迷惑が掛けられないと思い、日本郵船に入社し勤務しながら、自分でその費用を賄うことに方針を決めた。
努力の甲斐あって19歳の時、藤間流家元より名取『藤間勘七孝』の名を許された。
一方では、働きながら日米会話学院の夜学に通い、英語の勉強に励んだ。
月曜日から金曜日まで会社勤めと夜学に通い、週3回月水金は、夜学の後、舞踊の稽古に通うという非常にハードなスケジュールだった。
こんな日々に体調を崩しかけた時、私の中学高校時代の英語の家庭教師だった相手から結婚の話があり、両親の勧めもあって、まだ19歳だったが結婚に踏み切った。
20歳になったばかりの新妻は、赤子を背負って稽古に通い、夕飯の献立をテレビ番組で学び、毎日毎日が必死だった。

国際交流を始めたきっかけ

結婚10年後、主人の転勤により、一家でニューヨークに移住し、6年間滞在した。暫くは子どもの学校や全く未知の世界の生活に慣れるまで3年を費やしたが、4年目に近くのニューヨーク市立大学クイーンズカレッジに留学した。国際色豊かな大学で、教授や学生、友人達が、日本の歴史や伝統文化、日本人の気質や国民性、習慣など日本に興味を持っていることを知った。
そこで私は、7歳から身に付けた日本舞踊を大学やボランテイア協会で披露したり、近くの小学校でも子ども達に童謡を教えたりした。学友たちは様々な国の人々でそれぞれの文化や歴史、宗教、ものの考え方が異なった学生たちだったが、お互いにそれを理解しようとつたない英語で語り合う機会を持った。

日本舞踊を大学やボランテイア協会で披露

原爆を落とされ、壊滅的な敗戦日本の戦後の驚異的な発展に世界の人々は驚きをもって強い関心を抱き、日本人とはどういう民族なのか?日本の歴史、文化にも当然人々は大きな関心を抱いていた。
「日本人から原爆の恨みを聞いたことがない。どうしてなのか。なぜ原爆を口に出して抗議しないのか?恨めしくないのか?日本人とはどんな人種なのか?」と大学教授からも質問された。私はすぐには答えられなかった。私自身何故だろう?と考えた。そして答えた。「あの原爆投下はあまりにも悲惨で、われわれ日本人には想像を絶する悲劇的な出来事だった。悲しみが大きすぎて人びとはその悲惨さを口にすら出せなかった。むしろ我々の脳裏からその悲惨さを消したかった。忘れ去りたかった。人を恨むより、悲しすぎて口に出すことすら出来ない。<戦争― 争い>はあってはならない。」と言って私は涙を流した。学友たちは黙って聞いていた。その後、学友も被爆のことは口にしなくなった。

そんな中で次第に、「日本舞踊は、まさに日本の心を、日本独自の音楽とリズムで表現する芸術、精神性を表現している芸術」だと気づいた。
日本舞踊は、日本の歴史、文学、生活習慣、日本人の心の喜怒哀楽を網羅し、さらに四季折々の自然への感受性を独特の感性で表現している。
楽器も和楽器と称する三味線や琴、太鼓、笛,鼓など。衣裳の着物も他国とは異なる。
日本は三百年もの鎖国により、他国に影響を受けることなく独自の文化を生み出していったのだと思う。
雅楽、能楽や歌舞伎の芸術性。舞踊の音楽や表現、リズムなど外国にはない日本独特の文化が生まれた。これは私達の大切な文化遺産ではないか?
この日本独自の芸能は、芸術性の高い世界に誇る芸術として私たち日本人が守り、次世代に受け継いでいかなければいけないと認識を新たにした。

日本舞踊を世界に紹介することは 日本への理解、親善につながるという思いが私の中に芽生えた。「日本の心を伝えたい!」

気が付けば、私の外国での舞踊の紹介は、すでにニューヨーク時代から始まっていた。
ニューヨークの小学校で、童謡『てるてるてる坊主』『絵日傘』を子どもたちに教え、文化祭の舞台で発表した。黒人も白人も人種の異なる生徒たちが一緒に揃って日本の浴衣を着て可愛く踊った。
ニューヨークの大学で、世界各国の学生たちが自国の芸を披露する中で、私は日本の「飛梅の賦」を披露した。この踊りは、大宰府に流された学門の神様:菅原道真の有名な歌
<東風吹かば 匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ> 
を元に舞踊化されたもの。優雅で品よく、梅の精が2枚扇を使って華やかに、やさしく道真に語りかける短いながら琴の音が入ったきれいな曲。私の大好きな踊りで、ストーリーが説明しやすく、友人のパーテイーや協会など頼まれる機会あるごとに踊っていた。

ニューヨークで歌舞伎公演
~恩師に再会;日本文化で国際交流に歩みだす 

1972年頃だと思うが、初めてニューヨークで歌舞伎の公演が催された。演目は尾上松緑氏の弁慶による「勧進帳」ほか。
二代目尾上松緑氏は別名「四世藤間勘右衛門」で日本舞踊藤間流のお家元でもあり、私が舞踊名取名「勘七孝」を直々に頂いた恩師だった。思いがけぬ再会の喜びに感激・興奮の一夜であった。日本の伝統文化、芸術を世界の人々に強い関心を持たれていることを満席の観客の反応で知った瞬間だった。

私ははっきりと自分の中に国際交流の夢が芽生えてくるのを感じた。
その中で私の貴重な体験は、ブロードウェイのタウンホールで国際文化祭で、日本代表で長唄『越後獅子』を踊ったことだ。約3000人近くの満席の観客の前で大喝采を浴びた。日本の伝統舞踊が選ばれたのが嬉しかった。衣裳、小道具は全部手作りだった。翌日にはラジオインタビューにも出演した。

長唄『越後獅子』

海外への本格的な国際交流実現の拡大は偶然の出会いから

1974年帰国して2年後、主人はロンドンへ単身赴任。私は受験の子供と共に残り、日本の生活が始まった。
1978年頃、新聞で「国際親善振興協会」への会員募集が目についた。せっかく芽生えた国際感覚も維持できると考え、私はすぐに入会して会合に出席した。
何とそこで出会った最初の外国人が、後に本格的な国際交流を実現させてくれたチェコ人の外交官とその家族だった。この出会いが私の人生を変えた。私のライフワークとなる本格的な国際交流のきっかけとなったのである。

<縁は異なもの>というけれど・・・

出会いの不思議さに感動せずにはいられない。
文化担当の外交官の彼の名はDr.Vladimir Gelbic. 人懐っこくて品がよく、初めての出会いとは思えないほど会話が弾んだ。
数日後偶然にも 私が六本木の歩道を歩いていた時、なんと彼の車が通りかかり、赤信号で止まり、車の彼と目があったのだ。 一度しか会っていない彼と私は不思議にもその瞬間二人ともお互いに認識し、彼が声をかけた。私はすぐに車に招かれて乗せていただいた。
彼は「これから相撲協会の事務所に行く途中で、丁度いいから時間があったら通訳をしてくれないか」と頼まれたのだ。
偶然の出会いとは、こんな風に起きるのか・・・ 二つ返事でOKして国技館へ向かった。
事務所には当時の理事の栃錦関と先代若乃花関がおられて、彼が英語で私を紹介し、私が日本語で自己紹介をした。
九重親方と優勝杯の打ち合わせを済ませて後、特別な貴賓席(天覧相撲の席)で栃錦関と若乃花関同席で私たち二人は相撲を観戦した。後にも先にもあの貴賓席の椅子に座れたのは貴重な体験だった。
このご縁で、彼は私が日本舞踊の師匠と知って、チェコ大使館で大使をはじめ、チェコの外交官員家族の前で「さくらさくら」、「藤娘」、「越後獅子」を披露する機会を作ってくれた。なんと「さくらさくら」のメロディーはチェコのフォークソングにそっくりなのだそうだ。
ゲルビッチさん曰く「日本の経済は高度成長して 日本商品を海外に沢山輸出している。外国人はそんな日本人に関心が強く、日本人がどんな気質なのか、どんな文化を持っているのかを知りたがっている。ビジネスの商品の輸出ばかりでなく、文化も輸出をする時ではないか?チェコの本国にも日本の伝統文化を紹介してもらいたい。僕が手助けしますよ」と熱く言われた。
私はそうは思っても具体的にどうしたら実現できるか全く知識がなかった。が、彼はすぐ実現すべく方法を紹介してくれた。国際交流基金への紹介、新聞記者やスポンサーの紹介等具体的なノウハウを紹介してくれた。

初めは実現できるとは思ってもみなかった国際文化交流が、次第に実現可能に具体的になっていった。私もスポンサー探しや団員を募り、あちこち奔走した。
川崎市の姉妹都市リエカを加えて、チェコの友人の口添えで、ハンガリー、チェコ、東ドイツの東欧4カ国の候補がようやく決まった。あとは肝心の経費の問題である。
国際交流基金から助成金を得ることができ、現地での一切の経費は各国が負担し、各大使館が世話をすると決まった。今思えば、訪問国が共産国だからこそ国の方針が末端まで通り、全てOKになったのだった。
団員は最小限にとどめ、演者5名、スタッフ4名の計9名とした。
演目は2時間公演で、舞踊『さくらさくら』「『藤娘』『黒田節』『越後獅子』『鷺娘』、筝曲『春の海』、尺八『鶴の巣ごもり』とすることに決定した。

ついに私の夢!日本文化をひろく外国に紹介する時が来た!

1986年3月には、本公演は1986年9月から1か月、チェコの<Brno国際音楽祭> 及び ベルリンの<Berlin国際芸術祭>の参加をメインイベントにして東欧4カ国、11か所13回公演と決まったのである。
早速前述の規模で<ふじ邦楽舞踊団>を結成し、本格的な国際親善文化交流1ヶ月間の旅の準備が開始された。

公演にあたっては、衣裳、道具、音楽等本格的な公演にする。その方針のもと、衣裳は松竹衣裳、大道具はプロに頼んで、運搬を考慮して松の大木や雪柳は布に絵を書き吊るし、藤の花房や雪や草を紙製にした。舞台監督青木氏と照明・音響の3人は海外経験豊富でいろいろ工夫して出来るだけコンパクトにしてくれたのは助かった。それでも運搬荷物は楽器や衣裳、かつらも含めてかなりの容積と重量になった。
『鷺娘』は引き抜き、ぶっかえりの本衣裳で踊る。失敗はできないから、後見も外国公演の経験者をわざわざ北海道の舞踊家にお願いした。天井からの紙吹雪の吊り篭も用意した。
舞踊着替えの間を取るために尺八と箏の楽器演奏でつなぐこととした。尺八奏者はMr. John Kizan Neptune。彼はアメリカ人だが長年日本で活躍し、現地では舞台装置の準備に通訳として大いに役立ってくれた。

さて、見も知らぬ外国、しかも共産国での初めての舞台公演で、日本舞踊を初めて披露するので失敗は許されない。責任者の私としては責任重大である。
現地の人との打ち合わせと会場の下見が必要と、自分一人でチェコ(当時はチェコスロバキア)、ハンガリーそしてベルリン(当時は東ベルリン)の各都市の文化庁と打ち合わせに出発した。
怖さ知らずの無鉄砲と言われてしまえばそれまでだが、とにかく公演を成功させなくてはいけないと必死の覚悟であった。
一番有難かったのは、初めてプラハの空港に着いた時、チェコの日本大使館員と友人のゲルビッチさんが空港に出迎えてくれたことだ。彼は転勤で本国に帰国していた。
初めて見るプラハの景色は想像以上に美しく、「中世の宝石、百塔の街」と呼ばれるだけあり、町全体が中世で、まさにタイムスリップに入った心地だった。
Brnoの国際音楽祭の会場はモーツアルトも演奏した由緒ある劇場だった。ただ町全体が暗い。共産国の為か広告がない。街灯もほとんどない。市民は能面のように無表情。メランコリーな国だなあ・・・これが私の初の印象だった。

次はハンガリーのブダペスト。やはり日本大使館員の方が空港に出迎えてくれた。国際交流基金の助成を頂くことは、こういうことなのかと初めて理解できた。私は公演内容を具体的に説明して、きちんとした劇場を用意してくれるよう約束してもらった。

次の視察国ベルリン(東側)では、文化庁長官が、私が女性のみで只一人で来たことに驚き、感心されて、ベルリンフィルのレコードをプレゼントしてくれた。
「ベルリン国際芸術祭」参加の打ち合わせで、二つの劇場で2回ずつ公演すること、「日本の歌舞伎舞踊」は初めてなので市民はみな楽しみにしている」と告げられ、胸が高鳴った。

これで訪問国の様子が全部把握でき、安心して帰国できた。あとは公演内容の確認としてさっそく川崎の市民館で出発前公演を行うことにした。

1986年9月6日、『国際親善 ふじ邦楽舞踊団 東欧への旅』と題して川崎市麻生文化センター大ホールにて出発前の記念公演を開催した。神奈川県知事、川崎市長初め私の住む地元の人々は温かくエールを送ってくれた。
当時国際文化交流は珍しく、しかも共産国の東欧圏で1か月間の公演をすること自体が日本で初めての画期的なイベントだったので皆の驚きは大変なものだった。

『国際親善 ふじ邦楽舞踊団 東欧への旅』

(次回後編へ続く)