岸本 幸子(きしもと さちこ)
公益財団法人パブリックリソース財団 専務理事
- 東京生まれ。シンクタンク勤務、留学を経て、2000年パブリックリソースセンター(現組織の前身)、2013年現財団を創設。
- 寄付文化の刷新を目指し、個人や企業が社会貢献活動を行う際のコンサルティングや実施支援、NPOの寄付適格性評価、社会的活動のインパクト評価などに携わっている。
- 共著に「寄付白書2017」他。
1.きっかけは子育て
私は現在パブリックリソース財団という公益財団で、フルタイムの理事として、「社会を変えるお金の流れを創ること」をミッションに、遺贈の推進やオリジナル基金の創設、ネット寄付「Give One」の運営を行っています。日本に寄付文化を醸成し、誰もが持てるものの1%を寄付する社会の構築を目指しています。
パブリックリソース財団の前身NPO法人パブリックリソースセンターの活動から数えると、このような非営利活動に従事して20年となります。振り返ってみると、もともと、私がNPO活動に携わるきっかけとなったのは、子育ての体験です。子どもがいなければ、こうした仕事にかかわることはなかったかもしれません。長らく、私のアイデンティティはずっと「ワーキングマザー」であったと思います。「ワーキングマザー」として、仕事と家庭とコミュニティという三つの領域でバランスを取って生きるライフスタイルを実現するにはどうしたらいいのか、それを考えてきたといってもいいでしょう。
大学で国際関係論を専攻して卒業したときには、商社に入って、食料の輸入の仕事に携わりたいと考えていました。当時の私は、食料輸入国の日本で安心して食卓を囲んでいられる風景こそが「平和」の象徴だと感じていただけで、南北問題を真剣に考えたことすらない、恥ずかしいほど単純な学生でした。
1980年当時、女性の総合職などというものはなく、商社と名のつくところには片っ端から電話したのですが、全部門前払いでした。ただ一社、トーメン(06年、豊田通商に吸収合併され解散)に勤めていた先輩がいて、20年後にはおそらく女性の管理職が必要となる時代がやってくる、といって採用してくれました。「自立した女性」として一生働き続けたいと思っていた私には、とてもありがたい話でした。
ところがいざ入社してみると、どの部署でも私の扱いに困って、結局社長室直轄の調査部というところに配属されました。調査部というのは国際経済や為替レートを予測するセクションなのですが、その仕事も最初のうちはやらせてもらえず、上司のエコノミストの秘書をしていました。入社して3か月くらいまでは、名前を呼んでもらえず、「お嬢さん」と呼ばれていました。それが私の職業人生の始まりです。
入社して2年後に結婚しました。ちょうど結婚する前後に、ようやく営業部門で私を引き受けてくれるという話が持ち上がりました。しかし、突然、人事部が「新婚さんを営業部門に置くわけにはいかない」と言い出しました。思ってもみなかったことで、「結婚しても仕事を続けることは夫とも話しあっており、業務に支障をきたすことはない」と何度も説明しましたが、どうしても受け入れてもらえず、結局そのまま調査部に残ることになりました。
調査部在勤中に私は出産し、産休を取り、職場復帰することになります。当時、トーメンでは子どもを産んで職場復帰した例はなく、私が第一号だったと思います。働きながら子育てをするには、日中子どもを預かってもらえる場所を探さなければなりません。しかし、私が子どもを産んだ1980年代前半の行政サービスは、現在と違って本当に限られたものでした。例えば、私の最初の子どもは一月生まれなのですが、それを聞いた福祉事務所の人には開口一番「あなたは無計画だ」と怒られました。というのも、当時公設の保育所では新生児は生後四か月になってから受け入れていました。保育所の受け入れ数が少数だったこともあって、四月の新年度になったときには既に保育所は四か月になった子どもでいっぱいでした。一月生まれだと、一年三か月も待機児童状態が続いてしまいます。「働くお母さんだったら、もっと計画的に十一月までに産んでいます」、そういわれました。また、民間のサービスでも、家政婦派遣所に「一日三時間、毎日私の代わりに子どもを迎えに行ってくれて、私が帰るまで面倒を見てくれる方を派遣して欲しい」と相談したら「そんなサービスはこの世にない」といわれるような状況でした。「家政婦さんというのはそれで生計を立てている。従って、基本は住み込みの仕事でなければならないし、一日フルタイムで働くものである。あなたのように一日三時間ずつ細切れに自給で払うなどといっていたら、家政婦さんの生活が成り立たなくなってしまう」と諭されました。
結局、ようやく見つけたのが共同保育所です。同じような問題を抱える母親たちや現状に疑問を持つ保母さんらが一緒に運営する保育所でした。もちろん利用料を払いますが、利用料と行政からの少額の補助金だけでは運営ができないので、週末には自分たちでリアカーを引っ張って廃品回収を行い、それをバザーで売ったお金を運営資金の足しにしていました。今から振り返ると、それがのちにコミュニティ・ビジネスとかNPOとか呼ばれるものとの最初の出会いでした。
私の経験に則すと、何か社会的な問題に気づくのは、第一に当事者であり、次にそのごく周辺にいる人々です。社会の変化はそうした身近な場所から始まります。そして、問題のボリュームが周辺の人々では支えきれなくなったとき、はじめて社会問題として顕在化します。そこからようやく政策形成に向けての議論が行われ、行政側からも民間からもサービスが出てくる。ワーキングマザー支援に関しては、現在では、行政サービスも充実し始めたし、営利のベビーシッター会社も多様に営業しています。NPOも力をつけて病児保育のような様々なニーズに対応できるようになっています。しかし、それまでに四半世紀以上かかったわけですね。
私はNPOなどの非営利セクターの一番大切な役割というのは、社会の周辺の当事者間でしか把握されていない新しい問題を顕在化し、社会に対して働きかけていくということだと考えています。社会の変革は常に社会の周縁部から始まるのです。私は子育てという自分の体験からそうした確信を得ました。私の原点というべきものがあるとすれば、これがそのひとつなのかなと思います。
2.NPOという言葉との出会い
一人目の子どもを産んだときは、働きながら子育てをしましたが、二人目の子どものときは会社を辞めざるを得ませんでした。国際経済は二十四時間目まぐるしく動いていますから、二人の子どもを抱えながら仕事を続けることに私はハンディを感じていました。それで、三年後には社会復帰しようと決めて、一旦会社を辞めることにしました。
上の子を幼稚園に入れる際に、はじめてどの幼稚園がいいか、自分で選ぶという機会を得ました。保育所は区内で空いているところに入るしかなく、選ぶような状況ではありませんでしたから。私はものすごくはりきり、住んでいる地域の幼稚園の園長先生を面接して回りました。その中に「うちの園ではどのような障壁のあるお子さんも引き受ける」と話す園長さんがいました。「子どもに最初に教えなければならないのは、世の中にはいろいろな人がいるということだ」と。実際、その幼稚園では重度の脳性まひのお子さんもいらっしゃいました。たまたまそのお子さんを抱っこしました。「生きているだけで持っている存在の温かさ、重さ」というようなものを感じました。我が子を抱っこしているときには気がつかなかった「命の重さ」「尊さ」を逆に教えてもらいました。子どもにも最初に学んでほしいことはこれだと思い、ここでお世話になることにしました。
この時期の私は「地べたを這うような活動」に取り組みました。というのも、先ほどの園長さんが実は全共闘世代の生き残りで、幼稚園を拠点に区の教育委員の準公選運動を展開したり、砂糖の国際価格の大暴落で島民のほとんどが仕事を失い、深刻な飢餓が発生していた「砂糖の島」ネグロス島を救済する「ネグロス・キャンペーン」の事務局を担ったりしていました。影響を受けた私は、専業主婦の傍ら、ビラ配りや募金活動、まちづくり活動などに奔走する毎日を送りました。その後、再就職先に、住信基礎研究所を選んだのも、まちづくり活動に興味をもっていたからです。1989年のことです。
NPOという言葉にはじめて出会ったのも、住信基礎研究所に再就職した直後でした。アメリカのアーバン・インスチテュート研究員だった上野真城子(現、関西学院大学教授)さんの里帰り講演があって、聞きに行った時でした。
その講演で、アメリカではまちづくりなどを行う市民の活動は「Non Profit Organization」としての法人格を持ち、税制上の優遇措置も受けているという話を聞きました。アメリカの建国はむしろこうした市民によるコミュニティの活動から始まったと。また、上野さんは、営利センター、行政センター、行政セクターに次ぐ第三のセクターとしてNPO(非営利セクター)があると位置づけ、NPOは、企業・行政と対等の立場で契約を結び、事業を行っていることを話されました。保育所や幼稚園で私がずっと続けていた地べたを這うような、小さな地域活動が、いつか企業や行政と対等に渡り合えるようになるなんて、信じられないぐらい、とても大きなヴィジョンだと思い、非常に感動したことを覚えています。
3.日本初のNPO実態調査
上野さんの講演にヒントを得て、日本のNPO—当時はNPOではなく市民活動団体といっていました—の実態調査をしたいと研究所に提案したところ、多額の研究資金をいただくことができました。それまで、福祉とか環境とか、ある分野に限った部分的な調査はありました。しかし、分野横断的かつ全国的な市民活動団体の実態調査というのは、私たちが行ったものがはじめてだったと思います。その調査を通じて、非営利セクターのキーパーソンの方々とも出会うことになります。
80年代の後半から社会活動には明らかな変化が起きていました。いわゆる左翼系の抵抗型の「運動」から提案型・事業型の「活動」へと、運動のあり方そのものが明確に変わりつつあったのです。私たちはその実態とボリュームを明らかにすることで、一部の変わり者がやっているのではなくて、普通の人々によって担われている重要な社会活動が、確かにそこにあるということを示したかった。当時全国には約九万の市民活動団体があるという推計を出すことができました。
しかし、同時に、その調査で判明したことは、残念ながら、ほとんどの団体は非常に小規模であるということ、そして財源の不足が一番の問題であること、また寄付金もほとんどないということです。これは現在でも変わりません。
4.「寄付」というものの重みを知る
私が現在のパブリックリソース財団の活動に繋がる「寄付」という行為に特別な関心を寄せるようになったのも、この頃でした。研究所でNPOの調査を行いながら、同時に住まいのある地元でまちづくりの活動も続けていました。そのひとつに、区の公園予定地の空き地を借りて、チューリップを5000本植えるという活動がありました。地域でもきれいだと評判になり、名所にもなっていました。
ある日、空き地の掃除や草むしりの作業を行っていたところ、1人のおじいさんがやってきて私の肩を叩いたのです。彼はチューリップを指でさして、あなたたちがこれをやっている人かと聞きました。どうやら口がきけないようで、身振り手振りでチューリップのことを褒めてくれているのですが、よだれ掛けをしているおじいさんを見ながら、失礼なことに「認知症で徘徊しているのかもしれない」などと思っていました。すると、突然、彼はジャケットの内ポケットから札入れを取り出して、私の手に1万円を握らせたのです。1万円というのは大金ですから、私はびっくりして、お断りしました。すると彼は、涎掛けをまくり手術後が残る喉を見せ、次に自分の胸をたたいて、「これは私の気持ちだから」ということを示して、そのまま去って行かれました。
私は浅はかにもその瞬間は「ラッキー」と思っただけで、これでチューリップの肥料が合えるとかそんなことを考えていたのですが、その出来事は心の中にずっと引っかかっていました。考えてみれば1万円というのは、簡単な気持ちで出せる金額ではありません。おそらく、その方は退職なさり、ご高齢となり、気管支切開して声も出ない状況にありながらも、自分も社会に貢献したいという気持ちを抱えていらっしゃったのではないでしょうか。彼にとって、その1万円は単なるお金ではなく、自分も寄付という行為を通じてその活動に共感して参加するという意志の表明ではなかったか。そういうことに次第に気が付き、ある日、自分の胸にすとんと落ちたのです。
先ほど私はNPOの財源が脆弱であることが問題だといいました。もちろんその通りなのですが、それはあくまでNPOの側の問題です。一方で、あのおじいさんの例が教えるように、個人にとって寄付とは何かという問題もあります。私たちは常にその両面を考えていかなければなりません。寄付とは個人の社会的意志の表明であり、それ自体社会貢献活動のひとつなのです。世間では、寄付はもうひとつの税金だという言われ方もするのですが、私は寄付とは税金なのではなく「投票」なのだと考えています。投票するのが権利であるのと同じように、寄付というものは義務ではなく権利なのです。現在、日本では寄付金額が少ないということが問題にされていたりもしますが、それは個人が寄付という権利を行使する機会を奪われているということです。私たちが目指しているのはこの状況を変えることです。
5.荒野に街を一から作る
96年に、夫がアメリカに赴任することになり、私も研究所を辞めて、渡米しました。日本のNPOの実態を知り、ファンドレイジング(資金調達)で苦労している状況を何とかするためにも、これを機会にアメリカでNPOのファンドレイジングについて勉強をしたかったからです。
私が通っていたMilano Graduate School は夜間の社会人大学院ですが、NPOのマネージャークラスや企業の社会貢献の部門の担当者とか、行政の担当者とかが夜間に遊びに学びに来て、そこで修士号を獲得してキャリアアップするという非常にプラティカルな大学院でした。しかし、そこで教えられているファンドレイジングは、すでにアメリカという国が歴史的に蓄積してきたリソースを暗黙的に前提としていました。例えば、ファンドレイジングをするには、まず、「ファンドレーザーを置け」と教えられる(笑)。また、「ドナー(寄付者)データベースを作れ」とも教えられるのですが、それをどう作るかというと「データベースソフトと名簿を買う」と。また、米国では住んでいる地区によって明確な所得格差があり、郵便番号から高額所得者層を絞り込むこともできます。しかし、日本では今でこそドナーデータベースを作ろうという話をしていますが、90年代後半の日本ではそんなものはありません。
結局ここで教えてくれるのは、ニューヨークのような街に住んで、その街をいかに使いこなすかというノウハウである。それに対して、私がしなければならないことは、荒野に街を一から作ることでした。そこに気づいて、私はファンドレイジングのノウハウを学ぶことよりも、アメリカの非営利セクターの歴史を勉強することに重点を置きました。アメリカがどのようにして非営利セクターを発展させてきたのか、その歴史を知ることで、日本でNPO活動を発展させていく方向性が見えるのではないかと思ったのです。
非営利セクターの歴史を勉強する中で、面白いことに気が付きました。例えば、ニューヨークに摩天楼ができた1910年代から20年代、つまりアメリカで資本主義が確立するころ、カーネギーやロックフェラーといったアメリカの資本主義の基礎を作った人々が、同時に財団のシステムも作り上げていることです。財団が成立するということは、篤志家が施しを与える素朴な段階から、企業経営のプロフェッショナルに寄付金の運営を任せる仕組みができていたということです。このような資源の再配分のシステムが摩天楼を作りあげたのと同一の人物によって、同じ時期にできあがるというのが、非常に面白い。
また、同じ時期に、コミュニティ・チェストという、中間階層の募金のシステムが作られます。その起源は、第一世界大戦と第二次世界大戦の戦間期に遡ります。アメリカは移民の国なので、大戦で疲弊した故国・ヨーロッパを助けたいというのがコミュニティ・チェストの運動の発端でした。これはさらに地域の富裕層が主として遺産を寄付するコミュニティ財団という仕組みに発展していきます。
さらにユナイテッド・ウェイという、ブルーワーカー層の寄付を集めて再分配するシステムが発達してきます。現在では、ユナイテッド・ウェイはYWCAやYMCAと同様に全米のほとんどの主要都市に広がり、ブルーワーカー層だけでなく、広く職場募金のシステムとして地域福祉に貢献しています。
このユナイテッド・ウェイに対して、80年代に起こったのが、オルタナティブ・ファンドという運動です。オルタナティブ・ファンドという名称は、ユナイテッドに対してのオルタナティブという意味です。ユナイテッド・ウェイが、企業などの「資金を出す側」が運営する組織であり、寄付先も赤十字を中心とする決まりきった福祉団体に限定されているのに対して、オルタナティブ・ファンドは80年代に新しく出てきた、環境・女性・人権団体など「資金が必要な側」が連帯して運営し、自ら寄付金を募る運動でした。
90年代後半からは、主としてIT産業の成功者たちの間から、ベンチャーキャピタルの手法を寄付に導入したベンチャーフィランソロピーという動きも出てきました。明確な目標設定をして継続的に資金支援をするだけではなく、経営支援も行い、事業体を育てて社会的な成果を上げるようという考え方です。投資の考え方をいれたハイブリッドな社会貢献のお金の使い方です。
このように、アメリカの非営利セクターの歴史を眺めていると、それが非常に重層的なものであることが分かります。それだけに、日本では共同募金のシステムくらいしかないということが身にしみました。そこで私は、こうした複数の手段・システムでもって、公共のリソースを拡充させていく、そのための仕組みを日本で作りたいと思いました。それが、現在のパブリックリソースセンターです。
6.パブリックリソースセンター、パブリックリソース財団の設立
99年に帰国して、アメリカのコミュニティ財団に相当するような寄付システムを日本で作りたいといったときには、みんなに無理だと言われました。そういう組織は一定の土壌があらかじめあったうえで、はじめて構築することができるというのが大多数の意見でした。
できることから、一歩ずつ始めなければと思い、計画を作りました。私たちはまったくゼロから始めるほかない。従って、最初は調査と情報だけが武器である。まず調査を行い、どれくらい日本に隠れたリソースがあるのかということを表に出す作業が必要となる。その調査の成果が、「パブリックリソースハンドブックー市民社会を拓く資源ガイド」(行政2002年)としてまとまりました。
第二ステップとして取り組んだのが、当時注目を集め始めていたSRI(Socially responsible investment 社会的責任投資)ファンドでした。SRIファンドでは、投資銘柄の選定に際して、従来からの財務的評価のみならず、社会的・環境的評価を組み込みます。当時は、SRIファンドといっても環境問題くらいしか注目されていませんでした。そこで、環境だけでなく、人権問題、情報開示、地域社会への貢献などについて企業の取り組む姿勢などを審査し、高い評価を得たグッドカンパニーを投資先として選んだ国内初の本格的なSRIファンド「あすのはね」の開発をし、後にはモーニングスター社と組んで、モーニングスター社会的責任投資株価指数を作成しました。金融機関との協働、企業審査・評価を通して企業のCSR部門との関係性を築くことができました。
第三ステップとして、経済同友会の中に研究会を設立し、NPOやコミュニティ財団に関する情報を提供しました。NPOに関心を寄せる企業経営者の方々とともに、ニューヨークの寄付仲介組織であるニューヨーク・コミュニティ・トラストを視察に行ったりもしました。
こうした活動と並行して、私たちはオンラインで寄付を募るサイトの構築にも取り組みました。それがオンライン寄付サイトの「Give One」 です。誰もが所得の1%を寄付する社会」の実現を目指して作ったサイトですが、かつての私がそうであったように、忙しくて家庭と地域と仕事の間のバランスが崩れている人、社会貢献を行いたいと思っていてもその時間がない人など、それぞれの事情を持った人たちが、手軽にクレジットカードを用いて、寄付という活動に参加できるシステムの構築を目指しています。「Give One」 では、当初は寄付という商品に対してクレジットカードを用いることの理解も得られず、最初のクレジットカード決済はドル決済でした。現在では「Give One」には約180の団体が掲載されており、一口1000円から寄付ができ365日、24時間いつでも決済できるシステムになっています。
2011年の東日本大震災の時には、発災した3月11日の午後4時から、「Give One」では寄付を募り始めました。かつてなかった、ものすごい勢いで寄付とメッセージが「Give One」に寄せられました。またアメリカの日系人コミュニティからは多額の寄付を東北復興のためにお預かりし、被災地復興の進行に合わせて、助成金として配分する役割を担うことになりました。
東日本大震災で多額の寄付をお預かりすることになったことを契機に、NPO法人パブリックリソースセンターは、寄付を管理運用するために最適な法人格の検討を始めることになります。2010年に公益法人制度の改革が行われ、公益財団の設立がしやすくなったことも、法人格検討の材料となりました。最終的に私たちは、公益財団の設立を選択し、2013年1月、内閣府認証の公益財団法人パブリックリソース財団として、再出発しました。
パブリックリソース財団は、寄付者の社会貢献の意志の実現を支援する「あなたの財団」です。「寄付をしたいが、どの団体を応援したらいいか分からない」「どの団体が信頼できる寄付先だろうか」「遺産を活かす寄付をしたい」など様々なご要望に対し、フィランソロピー(社会貢献)に関するコンサルティングを行い、実行に至るまでご支援しています。
7.「空白の20年」を短縮するために
1983年に「高齢社会をよくする女性の会」という団体が設立されています。介護の社会化の問題―高齢化社会における老人介護を家庭内の問題としてのみならず、社会全体の問題としてどのように受け止めるべきか―を提起した最初の団体です。その後にも石川浩江さんが1987年に設立された「ケア・センターやわらぎ」(2000年にNPO法人格を取得)の行った、介護保険制度の原型となるような先駆的な試みもありました。しかし、介護保険法が成立したのは2000年のことです。
また同様に、全国でDV被害者の女性の緊急避難所となるシェルターの開設が始まったのは1980年代の前半ですが、配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律(通称DV防止法)が成立したのは2001年です。
最初の問題提起から法整備まで20年近くかかっている計算になります。私たちはこの20年間を「空白の20年」と呼んでいます。
前述したことともつながりますが、私が共同保育所でリアカーを引いて廃品回収をしながら子育てを行っていた時代から、現在のように行政や民間の保育サービスが整うまでにも同じくらい長い時間がかかっています。その間にも、私たちがなんとかやってこられたのは、身近な人々の助力に加えて、小規模ながらも私たちをサポートしてくれる団体があったからです。
先に変革は周縁から始まるといいましたが、私はこうした変革の最初の段階を下支えする役割を果たすものとして、寄付というものを考えてみたいのです。社会の片隅で起こる新しい問題が「社会問題」としてクローズ・アップされ、政策や制度に反映されるまでには長い時間がかかります。その時間をいかに短縮して、社会変革を早めていくことができるのか。そのために寄付という「想いを持ったお金」が果たす役割は非常に大きいと思います。
パブリックリソース財団はそのために活動してきましたし、これからもそうです。私たちの活動はまだまだ発展途上ですが、「空白の20年」をできるだけ短縮し、社会変革を促進するという大きな課題に向けて全力で取り組んでいくつもりです。