川上 敦子(かわかみ あつこ)

ピアニスト・道東基礎工業株式会社代表取締役

川上敦子 氏
  • 横浜国立大学経済学部卒業後、渡英。ピアノをベンジャミン・キャプラン氏に師事。
  • 2001年、演奏不可能といわれたリスト作曲「超絶技巧練習曲1837年版」日本初演にてデビュー。「音楽現代」誌にて、「稀代のリスト弾き。きらびやかでメリハリの付いた演奏、見事な換骨奪胎」との評を得る。
  • 2004年5月、伊福部昭氏より献呈を受けた「日本狂詩曲」ピアノ独奏版を、氏臨席のもと初演。2012年9月にリリースされたCD「伊福部昭ピアノ曲集」は、「レコード芸術」誌にて、「伊福部作品の生命感と土俗性をよく活かした見事な演奏。作曲家のお墨付きを得ただけのことはある、十分にニュアンス豊かな、堂に入った表現。力強い鋼のようなタッチが、生命の根源的な響きと言えるような原始的な力強さを与えている。」と評され、特選盤に選ばれる。
  • 2016年4月に行った東京、大阪、釧路、音更の全国4カ所、及びニューヨーク カーネギーホールに於けるリサイタルツアーでのシューマン&ブラームスプログラムは、「ショパン」誌にて、「自在感と感性の冴えを感じさせるスケールの大きな演奏。豊かな音楽性を支えとした精妙な表現」と評される。
  • 2011年、道東基礎工業株式会社代表取締役に就任。

北海道の原野にいの一番に乗り込み、構造物の礎を築く  

弊社、道東基礎工業株式会社は、北海道は十勝に構える大型土木基礎工事の専門業者です。保有する最大200トンのクレーンや杭打機を使って橋梁やダム、高速 道路、ビルなどの基礎となる鋼管杭を地中深く打設するのが主な業務です。
初対面の方は、音楽家と土木建設業の社長という二枚の名刺をお渡しするときまって驚き、興味を持ってくださいます。しかしこれは自分にとっては当然の成り行きかつ、立派に両立しているわけではないので、いつも恐縮してしまいます。

ロンドンで得難き師にピアノを学ぶ

93年、大学を卒業した数日後に、私は5年半の留学生活を送ることとなったロンドンへと旅立ちました。音大には行かず、経済学を専攻した私がピアノ留学するというのは奇異なことでしたし、私自身、留学を決めた当初は語学とピアノを少々学んで一年で帰国し、お見合いをして結婚しようなどと思っていたのです。
そんな私の考えを覆し、進む道を決めたのは、世界的な名教師と呼ばれたベンジャミン・キャプラン先生との出会いでした。日本を訪れたキャプラン先生のレッスンを受け、その音楽性と人間性の虜になった私に、先生は「ぜひ、ロンドンへいらっしゃい。」と言ってくださいました。

ロンドンでの初めてのレッスンの衝撃は、今も忘れられません。ショパンの一曲のノクターンが課題でしたが、この日に進んだのはたった数小節だけだったのです。音量、音色、音の長短に関し一音一音に意味を持たせ、和音を構成するそれぞれの音や、今弾いた音と次に弾く音の違いと関係性を明確にする、例えば、音量は100をマックスとすると一つの音は50でもう一つの音は55なのか、はたまた48で52なのか、同じ8分音符でも各々の切れ味の差は、音色の差は、加えてペダルの踏み方は、といった、それほどの細部にこだわったレッスンだったからです。いったい私は今まで何をしていたのだろう、果たしてこの曲が最終小節まで辿り着くのはいつなのだろうか。そうした不安や焦りよりも大きかったのが、木が森となるように、一音一音への入魂があって初めて一つの音楽となることを知った感動でした。キャプラン先生について行こう。そう決めた瞬間でした。
ピアノは、一台でオーケストラを表現出来る唯一の楽器と称されるだけあって、その楽譜は非常に複雑です。いくつもの旋律が同時に書かれています。 初めて見る楽譜に向き合った時、私たちはまず「譜読み」をします。「譜読み」とは、音符を読むことだけを意味するのではありません。作曲家の思想や意図を、自分の持ちうる知識と思考を駆使して分析し、その時自分に出来うる、考え得る、最上の音楽を構築する作業。それが「譜読み」です。これは例えれば、俳優が、他者が書いた脚本から何を読み取りどう演技するか、といったことでしょうか。さらに不可欠なのは、これらの分析に基づいて構築された音楽を実現させるための、高度な技術です。

読譜力と身体技術を身につけるための徹底基礎訓練

これらを成就させるためのキャプラン先生の教授法は、誠に緻密で的確でした。
初めの三ヶ月間に習得した、音楽を形成する三要素である音量、音色、音の長短を操る様々な技術を強化するためのメソッドは、以下のようなものでした。
手の平を常に身体の外側に向けたフォームで腕と指を動かすことの徹底。鋭く短い音を鳴らすための指の動きの鍛錬。一音一音を独立させ、かつ切れ目なくつなげて弾くための腕の向きと運指、指使いの理解。Fall downと名付けられた、頭の上から完全に脱力した状態で腕を落とし狙った音を鳴らす訓練。その他、あらゆる手法が盛り込まれていました。
このメソッドの習得と共に、レッスンの主な内容は「譜読み」のための能力、すなわち読譜力の形成へと移っていきました。より高度な技術の教授はさらに続き、無駄なく最適な指使いを発見する作業の重要性、ペダルの細かな踏みかえや踏むタイミング、そしてペダルをフルで踏み込まず、1/2や1/3だけ踏むことの意味も教わりました。弾きづらい箇所は見方を変えてフレーズを捉えるという教えは、練習の効率化にもつながりました。音楽にとって重要な、様々な音色を作り出すタッチに関しては、楽器の機械的特性を前提とした教えでした。ピアノは、鍵盤の動きがハンマーに伝わり、ハンマーが弦をたたくことで音が鳴ります。鍵盤の動きがどう加速するかでハンマーのシャンク部分のしなり方がわずかに変わり、弦とハンマーが違った当たり方をすることで倍音(音色を決めるもの)が変わるのです。

キャプラン先生のもと、私は目の前の課題にただひたすらに向き合い、必死に練習を重ねました。大舞台を前には最悪のパターンを想定し、それに備えることも必要でした。演奏開場の湿度や温度はピアノの状態を大きく左右しますし、状況は刻々と変わります。設置された楽器にもそれぞれの個性があり、いつも最高のものであるとは限りません。これら全てに対応し最適な判断を瞬時に下すには、観察と経験に基づいた知恵が不可欠なのです。
先生はまた、「これほどまでに完成された美しい音楽を、我々がああしようこうしようと弄んではいけない。楽譜に書かれたままに弾かなくてはいけない。」と語りました。作曲家の意図を聴衆に伝えること、それが、プロフェッショナルな演奏家の使命なのです。

5年半に伸びたロンドン留学、そして結婚もした

学ぶことがありすぎたため、1年と決めていた留学は2年となり、両親に頼み込みさらに延長するうちに、私は日本企業の駐在員であった夫と結婚しました。そして夫の駐在が終わる98年まで、5年半のロンドン生活を送ることになったのです。

3、4歳から弾きはじめたピアニストは、20歳までに一万時間を超える練習を積み重ねているといわれています。それほどの時間とお金を費やして、私がピアノを弾く意味はあるのか。私はピアニストになれるのだろうか。この自問自答は大変苦しく、数日間、病のように落ち込むこともありました。
「それは誰にもわからない」。これが、「私はピアニストになれるのだろうか。」という問いへの、キャプラン先生の答えでした。「どんな天才少女(といって、当時、先生の秘蔵っ子だった高校生の名前を上げました)でも、将来、ピアニストになれるかなれないかなんて誰にもわからないのだよ。」と、先生は言葉を続けました。
音楽を通して、どんなに努力しても強く願っても報われないことがあるという事実を知ったことは、私の大きな糧となっています。

今でも半ば冗談ですが、ピアノがなければ辛いことのほとんどがなくなるのではと思うことがありますが、それでもなぜに私は50年近くもピアノを弾き続けてきたのか。それは、ピアノを通して、作曲家や師の信念、すなわち、命を超えてなお生き続けるものの存在を感じられるからだと思います。

帰国、そしてピアニストデビュー

日本へ帰国した私は、2001年、リスト作曲 超絶技巧練習曲1837年版の日本初演でデビューしました。これは、史上最高のピアニストと謳われる作曲者リスト以外には演奏不可能といわれた、非常な難曲です。
超絶技巧練習曲というタイトルの原語(フランス語)には、肉体、精神、魂、これらの全てを超越するという宗教的な意味があります。これは晩年を僧衣に身を包み過ごしたリストが、人生をかけて音楽に追求した、彼の信念を表す言葉でありましょう。
リストやショパンが活躍したころのヨーロッパの音楽は、自由を求めるロマン主義の影響を受け、それまで主流であった「形式美を追求した古典派音楽」が、「人間の感情や個性を重視するロマン派音楽」へと発展していった時代でした。ロマン派の作曲家は、音楽を詩に見立てたり物語の構成に似せたりし、音楽外の霊感を音楽の世界へ持ち込みました。そして、音楽外の霊感を聴き手に喚起させることを意図して、情景やイメージ、気分や雰囲気といったものを描写した標題音楽という概念が花開き、作曲家自ら、曲に題名をつけるようになりました。リストはまさに、この時代の寵児でした。
そしてまたショパンの資質も、明らかにロマン派そのものでした。私ならば自分の時代が来たと謳歌したことでしょう。しかしショパンは、古典の作曲家への敬意が強く、ベートーヴェン的な構築性を理想とし、自身がロマン派に属するという考えを否定しました。その証拠に、ショパンのピアノ曲には、作曲者自身が標題をつけたものは一曲もありません。「革命」「木枯らし」「別れの曲」などの標題は、のちの人々が勝手に命名したものです。
時代の流れに反し、音楽は音楽以外の何をも表現しないものだという立場を取ったショパンの信念は、私には大変まぶしく映ります。

作曲家伊福部昭氏との出会い

日本を代表する作曲家、伊福部昭という天才に出会えたことは、私の人生において重要な意味を成しています。
ゴジラのテーマ曲を筆頭に、映画音楽でもその名を馳せた伊福部先生ですが、その真髄は純音楽の世界にあります。先生は、私の伊福部楽曲の演奏を大変気に入って下さり、「あなたは私の思ったままの音楽を、恥ずかしげもなくやってくれる。」とおっしゃいました。これは、作曲家の意図を伝えることに身を尽くす私にとってはこの上ない、演奏家冥 利に尽きる言葉でした。
2006年に先生が91歳でこの世を去るまでの3年間、私は幾度となくご自宅を訪ね、音楽思想のみならず人としての生きざまをも教わりました。
先生に、思わず悩みを吐露してしまったこともあります。先生は、孫ほども年の離れた私の話にじっと耳を傾け、最後に、「今は急いで動かずに。必ず、時間が解決してくれますよ。」と静かにおっしゃいました。私は、先生の座右の銘である「無為」という言葉の意味が、少しわかったような気がしました。
伊福部先生が北海道大学の学生であった21歳の時に作曲した「日本狂詩曲」は、パリで行われた「チェレプニン管弦楽作曲コンクール第一位」の栄誉に輝き、伊福部昭の存在を世界に知らしめました。この受賞は、日本の音楽界を震撼させました。なぜなら、当時の日本の音楽界は西洋的な音楽を目指しており、伊福部昭の民族的、土俗的な音楽は国辱だとまで言われていたからです。
先生は、「大地を通じて身体に入ってきた音楽だけが、この世に残る真の音楽である。」とし、生涯この姿勢を貫き、後世に伝えました。「芸術はその民族の特殊性を通過して、共通の人間性に到達しなくてはならない。」という先生の信念は、私が音楽を表現する上での信条の一つとなったことは言うまでもありません。

私にとって、師や作曲家の才能に日々触れ、何百年前も何百年後も変わらぬものと対峙してきた数多の時間は、彼らの信念を知るための刺激的かつ深淵なる旅でありました。
信念とは、無数の判断の蓄積であり、貫くことによって喜びを感じるようなことではない。身体を多少痛めてでも、命を縮めてでも、それを貫かねば身が裂かれる思いがするものであろうと、私は考えます。そして信念とは便利なもので、貫き通せば、目標など持たずとも自ら行く道筋を自然と決めてくれるのです。

父の会社を継ぎ、ピアニストと2足の草鞋

2002年、私は夫と共に東京を離れ、北海道へ戻りました。父が病を患ったことで、夫がサラリーマン生活に終止符を打ち、私の家業を承継する決心をしてくれたのです。東京生まれ東京育ちの夫にとっては大きな決断でした。当初、私は会社の仕事には全く携わらずにいたのですが、夫が別会社の経営を任されるようになったこともあり、徐々に母の業務を引き継ぐようになりました。
2011年、再び大病が発覚した父は、会社から身を引く準備を始めました。夫は別会社の社長であるため、リスク回避を念頭に、私が道東基礎工業株式会社の社長に就任することとなりました。
それまでの人生を振り返ると、私の時間の多くは、先人の意志を引き継ぐことに費やされていました。また、ピアノは楽器の中でもとりわけ長い練習時間を必要とするため、幼い時から自然と取捨選択を重ね、やりたくないこと、やってはいけないと感じることを避けてきました。やりたいこと、やるべきことは、その積み重ねの後に見えてきました。
悩んだときは、過去を振り返れば答えが見えます。ですから、男社会の土建業に身を投じることへの不安や迷いは一切ありませんでしたし、私の性格を熟知する両親と夫の気持ちも同様に見えました。
叩き上げでもない私を父の娘だというだけで受け入れ、頼りなさを埋めてくれる役員及び社員には、感謝の気持ちしかありません。三年前に父が他界するまでは、父が私に授けてくれた一番の財産はピアノを弾くに有利な長い指だと思っていましたが、今では、この会社と社員であると確信しています。

建設業における女性の就業比率は年々増加しており、2018年には16.3%、人数にして82万人です。しかしこの多くは事務系職員であり、技術者や技能工の割合は5%に達していません。また、管理者や事務職の多いゼネコンと違い、弊社のような専門業社では職員の大多数を現場で働く技能工が占めるため、女性の就業比率は平均より低いのが現実です。現に弊社では、役員社員合わせて40名中、女性は5名。12.5%にすぎません。それでも2年前には初の女性現場職員が入社し、彼女は現在、クレーンオペレーターとして活躍しています。また、土木施工管理技士1級の資格を取得した女性社員もいます。
彼女たちは、例えば現場でのトイレなど、女性のための環境整備の面では発展途上の建設業界において、実にたくましく、自然体で働いています。男女差別と男女区別の違いを明確に理解する彼女たちの知性には、脱帽するばかりです。男女の体力の差が見えやすい業界にいるからこそ、肌で理解しているのでしょう。こうした考えを持つ女性たちは、男性職員にも良い影響を与えていますし、私にとりましても、男性職員たちとの見事な橋渡しをしてくれる心強い存在です。
女性の活躍という意味ではまだまだこれからの建設業界において、彼女たちは、その発展の歴史の一地点にいます。何年か先に、この発展の過程を全職員と振り返り、喜びを分かち合うことが、私の望みです。

クラシック音楽の解釈には、唯一無二の正解はありません。しかし、不正解はあります。
会社経営も全く同じと心得て、これからも、私に与えられた二つの道を生きていきたく思います。