上條 茉莉子(かみじょう まりこ)
NPO法人コペルNPO代表理事、NPO法人JKSK 監事
NPO法人 情報セキュリティフォーラム理事
社)かながわ若ものサポートステーション理事長
公益財団法人俱進会評議員 ・社会福祉法人たすけあいゆい評議員
- 1962年 東京大学理学部数学科卒、米国ノースイースタン大学数学科大学院修士課程卒
- 1962~1993年 日本IBMにてSE(システムズエンジニア),SE管理者として勤務。
- 1994~2002年 有)ライフ・デザイン・コンサルタンツ 代表取締役
- 2002年~ NPO法人コペルNPO 代表理事
- 2008~2014年 かながわ女性会議代表、NPO法人化後理事長
- そのほか
- 女性技術者フォーラム設立委員&代表歴任
- 神奈川県男女共同参画審議会会長、神奈川県総合計画審議会副会長等歴任
- 産能短大講師、東京大学工学部講師(社会・経済構造の変化と基盤整備のあり方)歴任
- NHK関東甲信越番組審議委員会委員&委員長 歴任
- 神奈川県ボランタリー活動推進基金審査会 審査委員&会長代行歴任
- 新聞・雑誌に寄稿多数 また、自ら情報誌(LDIC NEWS)を発行も
- 著作:公人社 NPO 解体新書 編・著、機械学会:人間と機械の共生 共著
はじめに
この原稿を書き始めた今、私は81歳です。JKSKでは、「女性100名山」、それに関連してオフ会、オンライン・フォーラム、オンライン相談室等を立ち上げ、この1年あまりこれら事業を軌道に乗せることに夢中でした。そのほかいまでも数団体の理事、評議員等を務めています。
ほぼ60年弱、企業で働き、NPOで働きながら、日本の女性が、もてる能力を思い切り社会の中で発揮できるよう、人生も生活も楽しみながら、当たり前に働きつづけられ、正当に評価される世の中を作りたいと、活動してきました。
「仕事する」ことは、生きることの一部である、と思っています。仕事の楽しさ、打ち込めることのワクワクするような楽しさを、幸運なことに私は経験してきました。企業で、そしてNPO でほぼ半々になるその歩みを振り返ってみたいと思います。
大名家の跡取りとして育つ
生まれは東京杉並区高円寺で6歳までそこで過ごしました。下町生まれではないので純正とはいいがたいが、3代目の江戸っ子で、江戸っ子気質丸出しの性格です。
父母ではなく、祖父母と叔母に育てられました。父は、私が生まれるというのに、山スキーに出かけ、ひどい肺炎になって床に就き、私が生まれるのと、入れ違いにあっけなく世を去りました。母はあまりに若く、東北の旧家のお嬢だったので、実家が無理を言って引き取り、のちに再婚しました。というわけで、私は父母の記憶は全くありません。
祖母は独立心の強い人で、どういう事情があったか、10代で家を出て独学で勉強し、教員免許を取って、和裁の教師をしていたようです。これもどういうきっかけか、後継ぎの子のなかった大名の奥平家の奥方に見初められて養女になり、祖父は押しかけムコさんだったようです。家系図によれば、奥平の姓を名乗るのは、秋篠の合戦で武功を上げて、徳川家康の子の虎姫を娶って以来だそうです。
父のほかに男子はいなかったので、当然私は、奥平家の跡取りということで、子供ながら、当主として扱われました。元旦の、若水を汲んで神棚に備えるのは当主の役目。暗いうちから起こされて眠い目をこすりながら、厳寒の井戸から震えながら水をくみ上げ、神棚に備え、灯明をともして歩く・・・その感触を今でも思い出します。4、5歳のころでしょう。またちょっとしたことでも決めごとの際には、まず真っ先に意見を聞いてもらったように思います。
祖母がどんなに苦労をして私を育てたかは、自分も子育てして初めて分かったことですが、おそらく随分と大変だったことでしょう。余り大事にされすぎたせいで虚弱児童、すぐに高熱を出しては、お医者通い・・・いつも煎じた朝鮮ニンジンを飲まされていました。風邪やはやり病の感染を恐れて、近所の子供たちと遊ばせてもらえなかったことで、子供同士の悪知恵や駆け引きには全く疎かったこと、得た知識はもっぱら書物からで、なんともナイーブで、世間知らず、でもやたら正義感の強い子に育ったようです。
埼玉の田舎に疎開
戦争がだんだんと深みに入り、昭和20年の3月10日の東京大空襲の夜は、真っ赤に燃える夜空と、バラバラになって落ちてくる飛行機の機体の破片・・・子ども心にも、すごいことになっていると、今でも時折夢に見るほどです。
気丈な祖母もさすがに決心がゆらいだのでしょう、あわただしく自分の生家である、埼玉県の田舎の家に疎開することに決めのです。4月の中頃だったでしょうか、祖母と、叔母とに手を引かれ、埼玉の大宮駅から、てくてくと歩いて歩いてやっと人里離れた田舎家に到着しました。6歳の子どもにとっては、永遠に続くような道に思われました。
そこは、屋敷林を背負った藁ぶき屋根の典型的な農家で、家の周りに、たくさんの柿の木・柚子の木・桜の木が植えられ、ボタンやシャクヤクや水仙など春の花々が真っ盛りでした。
祖母の生家は代々学校の先生と農業を兼業している、そのあたりではちょっとしたインテリ系の家柄だったのです。
世の中は、大変な食糧難でしたから、祖母は、一反ほどの畑を借りて、そこで、サツマイモ、ジャガイモ、ゴマ、ネギ、小松菜などいろんな苗を植えて、叔母と2人で育てて食料としました。また親戚の畑や茶摘みを手伝い、コメを入手していたようです。私も見様見真似で、茶摘みなどを手伝ったけれど、おおむね一人で、野山を駆け回って遊んだり、本を読んだりして過ごしました。都会でならば、さしずめ鍵っ子というわけです。
10代で家を出たにしては、祖母は、周りの農家がびっくりするほど、野菜を立派に育て、一家が飢えないだけの収穫を得ました。根っからのグリーンハンズだったのでしょう。きびしい農作業の合間にも祖母は、「たれか知らん盤中の餐、粒々皆辛苦なるを」と漢詩の一節をつぶやいたり、歌舞伎の名場面のセリフを唱えて見たり、結構多芸な人でした。
一人で放っておかれたことで、野山をほっつき歩くほかは、本にのめりこんでいました。小学生向きに書かれた化学、天文学、物理学の本、吉川英治の宮本武蔵、太閤記、平家物語、岡本綺堂の半七捕り物帖など手当たり次第です。
吉川英治の本には、大名の子供は幼くて他家に人質に出されたり、幼いながら、侍として生き死にの瀬戸際を経験する物語が山ほどありました。なので自分が、落ちぶれたとはいえ大名家の「跡取り」であること、親から引き離されて暮らすことについて、侍の家とはそんなものか、と思っていました。したがって母がどういう人だったのか、ほとんど知らず、想像の中で母は、東北の深窓のお嬢さんで、無口で、静かで、粛然と運命を受け入れるだけの人、だとばかり思っていました。
ずっとのちに、母方の人たちと交わる機会を得たときに、「ああ見えても、あなたのお母さんは、女学校のバスケの選手で、全国優勝もしたことがあるのよ」と聞かされて、びっくり仰天した覚えがあります。さらに父親が亡くなった際には、「貴女を引き取って実家に帰ろうと、随分苦労したものだったのよ」と言われて、にわかに母の存在がリアルなものに感じられたのです。
時すでに遅く、母は最期の病床についていました。
戦争だけではなく、世の中には、人の思い通りにならないことが沢山あるものです。
理系に傾倒していく中高時代
こうして私は、田舎の小学校を終え、浦和にあった埼玉大学の付属中学校(国立)に、試験と抽選という2段階を経て合格し、列車通学となりました。
通学は、大宮のはずれの田舎の家から歩いて3、40分かけて、近道のために500mほどは単線の線路を歩いて、日進駅に到着し、朝7:22分発の列車に乗るのです。川越からくる列車はすでに満員なので、最後の車両のデッキにぶら下がるようにしてしがみつき(ドアはない)、1駅だけ乗って大宮駅に到着。そこから電車で3駅目の浦和駅まで行き、さらにまた徒歩で15分。そうやって、8:30の始業時間に間に合うようにして通いました。親が聞いたら、いや先生が聞いたら卒倒しそうな通学事情でしたが、身体は小さくてもすばしこかったおかげで苦にもならず、誰にも告げずに、最初の1年を通い通し、皆勤賞を貰うまでとなりました。
それは学校が大好きだったからで、最初の担任の蓮見敏子先生のおかげです。彼女はお茶大の物理学科を出たばかりの若いきれいな先生で、皆のあこがれの的でした。お茶大では湯浅年子先生(マリー・キューリー研究所で研究されていた)の弟子ということで、「だから君たちはマリー・キューリーの曽孫弟子よ!」と言われて、理科好きの私は舞い上がったものです。
物象班(今風にいえば理科クラブ)に入り、先輩たちといろんな実験や遊びに熱中。霧ヶ峰でのキャンプや、学校に泊まり込んでの天体観測、化石堀りなどなど、男の子ばかりの理科クラブでは唯一の女子である私を、いつも先生は誘ってくれました。校則はあったものの、現在よりははるかに自由で、のびのびと遊び、実験や実習ができたこと――遊びと勉強が一体化していたこと――が、人間形成において、きわめて貴重な時間だったのだということにしみじみ感謝しています。
その間祖母の念願である「東京へ戻る」が実現し、それでもこの中学校に通いました。
いろいろと身辺の変化はあったものの、きわめて幸福な中学時代を過ごし、お茶大付属高校に試験を突破し、入学することになりました。
女子高ですが、入ってみれば校風は、想像していたよりはるかに自由で先進的でした。ハイティーン時代という最も多感な時期に、学ぶことの面白さを、各々個性的な先生方から教えられたのは大きな収穫だったと思います。男子がいないだけ、リーダーだろうと下積みだろうと裏方の汚れ役であろうと、なんでも女子がこなす。また学友も、チャレンジすることをなんとも思わない人が多く、それなりにワクワクするような時間を共有しました。
実際、同期生には、世界で羽ばたいている照明デザイナーの石井幹子氏や映画ドラキュラの衣装デザインでアカデミー賞を受賞した石岡瑛子氏(残念ながら故人)がいるかと思えば、大ホテルのオーナー経営者になっている人もいるし、大学教授や、【士】業の人、社会活動/運動家など女性の中では飛びぬけて、行動力のある人が多いように思います。これは「女子高」の特徴でもある「なんでも男に頼らずやる、やってのける」精神が深く影響しているのではないかと思っています。
「社会」を意識し始めた大学時代
大学は教養学部のある東大理Iです。大学の入学式で、矢内原総長と思いますが、おめでとうの言葉のほかに、君たちを教育するのに、理科の学生には1人1年約60万円の税金が使われている(文科は50万円)・・・だから、しっかり勉強して、将来社会に役立つ人間になってほしい、といわれました。大卒初任給が月額1万円くらいの時代です。私はそれを聞いて、教育は社会からの投資なのだ、自分はずーっと国立校を渡り歩いて、みんなの税金で勉強させてもらってきた、つまり社会によって育てられていたのだと初めて気づいたのでした。
その言葉は強烈に心に残り、“では自分は、受けた教育を生かして、将来働いて沢山税金を払うようになろう、頑張らなくては”、と決意したのです。「社会」というものの存在と、それを作り上げてきた人間の知恵と努力を、初めて認識した一瞬でした。
この想いは、その時しっかりと胸に錨を下ろし、以後一瞬たりとも、仕事をやめようと思ったことはありません。
大学は、極めてローカルな中・高時代の交友と比べて、日本全国、アジアからも集まった才能あふれる若者たちであふれていました。数学界の権威 高木貞治氏のハイレベルな「数学概論」の勉強会に誘われ参加したことも、数学への傾斜を強めました。のちに結局、本科として数学を選び、始まったばかりのコンピュータの世界へと踏み出すことになったのです。
コンピュータ技術者として社会に
数学科で、コンピュータの歴史と理論を少しかじった私は、これからの社会には、さらに発達したコンピュータが不可欠になると、本能的に悟りました。まだ触ったこともないコンピュータの魅力に、どうしようもなく引き付けられてしまったのです。4年の夏休み、まだ名前も知られていない日本IBMという企業から実習生の募集が来ていて迷わず応募しました。
そこは見たこともないような活気に満ちた空間でした。みんな若くて、課員も課長も区別ないほど、対等に議論しているそこは、まるで市場のヤッチャ場のような雰囲気でした。実習で、プログラミングの基礎を教えてもらい、IBMが保有している当時世界最速のコンピュータを冷房完備の部屋に見学して、早くこれを使ってみたい!と心が躍りました。まだ東大でも、自作のコンピュータ1台があるだけで、学生が使えるまでには至っていなかったのです。
こうして日本IBMに入社し、迷わず配属先の希望を実習時と同じデータセンター科学計算科としました。日本の大企業でもまだコンピュータの導入はほとんどなく、IBMの最速コンピュータは、企業や研究所に、時間貸しだったり、技術的な解を求める委託計算などに使われていました。
1年の教育期間を過ぎて配属された部署では、男も女もなく、学生時代と比べて、また別種の“高揚感”のある仕事が来ました。お客様は主に国の研究所・機関や、企業の研究部門などで、建設・航空・原子力・土木分野の最先端を行く研究の一端をサポートするような立場で、数学の応用分野としては非常にやりがいを感じられる仕事でした。
しかし長時間コンピュータを占有使用するときは、夜間の仕事になるので、女性はやむを得ず、スタンバイを男性に代わってもらったり、自分で立ち会う場合は、夜間窓口を隠れるように通らねばならず、それまでまったく男女差なく来たものを、なぜに今???という思いは強く残ります。はじめて、社会の仕組みに、理不尽なものがあることに目覚めました。
こうしてリアルな社会で、少しづつ大人の常識を身に着けていくことになりました。一方、仕事そのものは面白くはあったけれど、研究者と1対1の仕事を重ねていっても、しょせんはいくら努力しても、頑張っても、研究者のサブという立場を超えることはできない。このままずーっとこういう仕事を続けていいのか?とふと心をよぎるものが芽生えてきたのです。入社3年目になろうとしていました。
米国ボストンで大学院へ
たまたまフィアンセが米国留学することになり、老齢で渋る祖母を、1年で帰るからと説得して、IBMを1年休職し、BostonのNU(Northeastern Univ. )の数学科大学院で修士取得を目指しました。
祖母との約束があったので、なんとか1年で修士を取ろうと、他の学生の2倍くらいの科目を受講し、猛烈に勉強しました。いずれはIBMを飛び出して、大学に職を求めなおそうと考えていたので、修士号はぜひとも必要だったのです。
米国の学科は過酷で、1科目週4時間のクラス授業であれば、ホームワークは3倍の12時間が想定されています。毎週課題が出され、それがすぐに採点されて戻ってくるのです。
ある教授のホームワークで、最初の2回ほどうっかり単純な間違いをして、気づいて3回目はきっちり解答を提出しました。その間に私ともう1人が教授に呼び出されましたが、3回目の解答を出した後だったので、“You understand everything”と無罪放免になり、学期の最後には、結局評価Aを貰いましたが、一緒に呼び出された彼女は次の週には教室に姿はありませんでした。
渡米して間もなくMIT のチャペルで結婚式を上げました。外貨の持ち出しが厳しく制限されている時代だったから、2人ともビンボーで、披露パーティは私の手作りの手巻きずしで歓迎し、ささやかな出発でした。
「奥平家」を継ぐという考えは、戦後教育で「家」の桎梏から逃げ出したいと思っていた私と、世の中の戦後の価値観の転換にさらされた祖母のあきらめから意外にも簡単に放棄が実現したのです。
このように、生活環境の激変・・・他人と暮らすのは初めてだし、英語はおぼつかないし、数学は超難しいクラスに入ってしまって、猛勉強せねばならないし・・・は体に負荷がかかるのは当たり前です。
1年たって、無事に修士号は取れたものの、帰国前に新婚旅行兼ねてヨーロッパをちょっと巡ろうと旅に出た先で、病に倒れてしまいました。米国に戻って、いくつかの病院で、精密検査をしてもらったのですが、原因がよくわからない。腎結石か、胆嚢炎ではないか?くらいの診断で、わからないままその後何回か発作を起こし、つど救急病院へ運ばれたりして、原因不明のまま帰国しました。
仕事の新たな展開
休職してから1年3か月後たっていましたが、日本IBMのもとの部署に戻りました。誓約書を書いた以上、戻って一定期間働かねば、約束を果たせない。教育休職制度というプログラムをちゃんと有効なものとしなければ、あとに禍根をのこすからです。
コンピュータ業界はめまぐるしく変わっていました。たった1年ちょっとの留守の間に、仕事は、1対1での研究的な仕事から、企業業務の効率化や事業管理のシステムつくり――当然、大掛かりなチーム作業となるーーへとウエイトが移っていたのです。
部門内には、数人から10名くらいのプロジェクトと称するチームがいくつか動いていました。よく見ると、徹夜々々の作業でくたびれ切っていたり、うまくいかない!と頭を抱えていたり、と色々問題があることが見えてきたのです。「Project means trouble」という声まで聞えてきました。ふとこれはプロジェクトの動かし方の問題ではないかな?もう少しうまく各メンバーの力を引き出す方法があるのではないか?との考えが芽生えてきました。
ある公団から、工事積算システム開発が委託されました。およそ10名のSE で1年がかりのプロジェクトです。私は勇気を振り絞って課長に、私にリーダーをやらせてほしい、と告げました。課長は、“えっ”と絶句しましたが、数日後に形式的なリーダーに年上の男性をアサインし、実質リーダーを私にという、代案を作ってくれました。
プロジェクト・マネジメントの教科書などどこにもなく、研修コースなど皆無の時代です。すべてを自分で、考え出さねばならなりませんでした。
私はまず、チームの仕事だから、ゴールを皆が理解し、それに向かって自分のなすべき仕事をきっちりこなすこと、それにはシステムの構成やコンセプトを十分練って、チーム全員が理解することに時間をかけて徹底することにしました。ミーティングで、疑問やアイディアを出し合い、全員で議論しました。納期(スケジュール)・コスト・品質を守ることを徹底しました。いずれも今では当たり前にPMとしての常識と思われていることです。
納期・コスト・品質をキープするために、新たな試みをいくつも取り入れました。新しいプログラミング言語の採用とか、情報科学専攻の優秀な大学院学生を臨時雇用して一部を任せるなど、です。いずれも、組織では初めての試みです。当然ながら多方面から検討し、システム・デザインには充分時間をかけ、結論を出したものです。
1年ものプロジェクト期間、山あり谷あり、1か月まったく進まず停滞したこともあり、米国本社の技術的サポートも得たり、難しい客先との交渉事をまとめたりしながら、きっちりプロジェクトを成功させることができました。
この成功が私の進む道を決定しました。とにかく大きなプロジェクトを動かし、いろんな壁を乗り越えて成功させることが、面白くて面白くてたまらなかったのです。私はPM(プロジェクト・マネジャー)として、社内でも業界でも知られる存在となりました。以後大きなプロジェクトをいくつもこなし、また客先からは“ぜひ上條をリーダーに“と言われるようにもなりました。
仕事が面白い、ということは、純粋なものづくりの面白さと同時に、成果物をクライアントに喜んでもらえ、その後も引き続き役立つ使われ方をすること―――つまり、自分の生み出したものが、社会の役に立っていることが実感できること、だということが身に染みて理解できたのです。
一方、私生活の面では、この間、第1子が生まれ、4年後に第2子、その2年後に第3子が生まれました。この間いくつもの PMを担当しながらです。その間仕事の苦労とは別種の様々な壁を実感し、それでも、家政婦や、ママ友、田舎の義母の助けを借り、お金で解決できそうなことはすべて試しました。妊娠出産に伴う身体の変調も経験しながらです。この期間を一言で言うなら、「毎日がサスペンス劇場」でしょうか。
もちろん、夫や夫の家族、また周りの女性たちから、そんなにまでして仕事を続けるなんて・・・と非難ごうごうでしたが、私は大学入学時の「働いて多額納税者になる」、という決心を寸時も忘れたことはなかったし、議論する時間も惜しいという心境で、ともかくやれるとこまでやってみる、で続けていきました。おかげで、切り替えと時間管理はめっぽううまくなっています。
またふと気が付いたら、子供のころの虚弱体質や、留学以来の原因不明の発作もきれいに治っていました。
思うに、仕事があったからこそ、子育てにも意欲をもつことができたし、子供がいたからこそ、仕事意欲をハイレベルに保ちながら続けることができたのでしょう。
IBMでは幹部候補生を養成する制度HMP(High Management Potential)という制度があり、それに名を連ねるのは非常に名誉なことなのですが、私はいつの間にかそのメンバーに推挙されていました。
数名の新規メンバーと、社長と会食するプログラムが組まれていました。「君はこれから何がやりたいの?」という社長の問いに私は、「早く会社を辞めて、社会をよくする仕事をしたいです」とためらわずに答えていました。あとから、あー自らトップへのはしごを、この手で外したのだなぁ・・・と思ったものの、あらためて、早く力をつけて飛び出したい気持ちが強まったのでした。私をHMPに推挙してくれた上司には申し訳ないことをしたと思っています。
ちなみにその時、同じ問いに対し、「富士通に負けたので、もう一度日本IBMが業界トップのワッパ(月桂樹の冠のことだろう)をかぶってほしい、それに貢献したい」と答えていたのが北城恪太郎氏です。なるほどそういう表現があったのか!と感心したものですが、彼はのちに日本IBMの社長になりました。
ライン管理者に、そしてジェンダー問題に目覚める
話しは前後しますが、末っ子が3歳になったころ、私は、ライン・マネジャーになりました。ライン・マネジャーは、自分のもつ組織全体のJob Mgtのほかに、部下の業績評価や育成・キャリアマネジメント,異動など)に責任を持ちます。
配布された人事管理マニュアルを眺めて私はビックリ仰天しました。産休取得で、3か月休むと評価はいやおうなく“C”になってしまうのです。そして2年以上“A”または“B”を継続しないと昇進の推挙ができません。私は3人の子供を産んだために、この10年近く、周囲よりはるかに成果は上げているのに、何のアワードも昇進もしなかった、ということの意味を悟りました。
そうか、大変な思いをしても報われないから、働き続ける女性は少ないのだ!これって企業にとっても大変な損失ではないか!
それまで男女という意識なく仕事を続けてきました。客先や社内から、多少のセクハラや嫌がらせは受けてはきたものの、すぐに忘れていました。ここで初めて、これは何とかしなければ・・・ 働く女性にとっても、何よりも企業にとっても、優秀な女性のパワーを生かしきれなければ損失ははかりしれないだろう!と思うに至ったのです。
これは、経済合理性としての女性活用の原点だと思います。女が目立つとすぐに「ウイメンズリブ」と言われた時代ですが、権利を主張するだけではなく、経済合理性を説くしか、男社会を説得するすべはないと思いました。以後その考えは変わりません。40年たった今頃、労働力不足を身に染みて、女性活躍を本気で!など言っている現在、遅すぎ!と思うのは私だけでしょうか。
女性の能力を生かすには、結婚や出産で退社せず働き続けられるようにするには、どうすればいいか? 子どもに手のかかる出産後1年を、十分子育てに専念し、復帰できるような「育児休業制度」が必要だ・・・雑誌のインタビューなどにも積極的に発言しましたが、反応はいまいち。 「進歩の激しいコンピュータ の世界で、SEが1年も休んだら使い物にならなくなるから、ダメ・・・」など、なんとIBMの人事部長のコメントです。
そうこうするうちに、日本IBMのマーケティング部門のトップに初めてカナダ人が就任して、まず「なぜ日本IBMには女性の管理者が少ないの? ほとんど見当たらないではないか?」と疑問を投げたのです。数少ない女性のライン管理者数名が集められ、女性が働きつづけられ、キャリアを追求できる方法を何でもいいから提案するように、というミッションが与えられ、タスクが組まれました。
私は日頃考えていた施策――(1)子が1歳になるまでの育児休業制度の創設(2)休業中、技術が下がらないように、会社のデータベースにアクセスできる、またメールで会話できる仕組みの導入(3)子どもが病気や問題があった際に気軽に相談できる電話相談システムの実現――を提言しました。
会社は、これらを実現すべく、人事部の中に、「EO(Equal Opportunity)」という組織を新設し、実現に努めました。ある部門の統括マネジャーが、(2)の社員宅から会社とメールで会話できるシステムの実現をサポートしてくれました。
テストに積極的に参加し、残業の代わりに在宅勤務するメリットは大きい、とレポートを書きまくり、結果、このシステムの実現を見、管理者に導入されました。しかし当初目指した一般社員に普及し、在宅勤務が可能になるのは15年以上後のことだったのです。
が、兎にも角にも(1)、(2)、(3)とも、次々に実現し、さらに会社は、女性管理者を増やすための臨時の人事施策として;上位職種(特にライン管理者)への推挙で、男性、女性があがったら、まず女性を先に昇進させる、という施策を実施しました。2000名以上のライン管理者のうち、たった9名だった女性ライン管理者は、次年度には40名を超え、翌年には100名を超えました。いわゆるポジティブ・アクションです。育児休業制度の実現は、国の制度――雇用機会均等法改正よりも、2、3年ほど前でした。
コンピュータ業界の激変
一方、コンピュータ業界は、引き続き急激な進歩・成長を遂げ、性能・機能の躍進、PCが生まれ普及し始めました。これらを背景に、コンピュータの使われ方も大変革を遂げようとしていました。自社にコンピュータを導入する企業が増え、私の所属する情報通信事業本部(データセンターから名称変更)も大変革を遂げようとしていました。最速のコンピュータを持ち、それを使って、問題解決や、業務効率化というソリューションを客先に提供するという仕事から、リモートコンピューティングというIBMの通信回線を通じて、端末機を客先に導入し、日常の利用を可能にする方式に代わり、やがてはそっくりアプリケーションを含めて、客先にコンピュータごと売り渡す、というような形態に代わっていくのです。
売上高は小さいものの、とくに科学技術分野で“問題解決のアプリケーション開発とその運用”を主として行う我が情報通信事業部門は、存続の危機に立たされたのです。
それまで、社内では、研究部門以外では最もスキルの高い「科学技術集団」と自他ともに考えていたこの部門を私は統括していました。
しばらくして、この“科学技術集団”は、今でいう社内リストラということで、解散せねばならなくなりました。私は1人1人、行く先を考え、高く評価してくれそうな部署を探し、マネジャーと話し、ポジションを要求したり、1人で孤立しないよう、2人まとめて移籍を交渉したり、全員をほぼ満足できる部署へと異動を果たすことができました。後に、バブル崩壊とか、リーマンショックとか大きな経済変動期に、倒産・リストラなどが頻発する社会の動きに先駆けて、管理者の苦悩や、ささやかな「よかったなー」をいくつも経験することになったものです。
これら一連の仕事や事件を通じて、人材をどう生かすか、とりわけ女性の能力を伸ばし、活躍の機会を開拓することは社会問題だという考えが募ってきた私は、IBMでのジェンダー改革や人材育成の經驗が役に立つのではないかと考え、50歳を過ぎたら、社会に直接役立つ仕事をしたいな、と次第に考えるようになっていました。
新たな道へ踏み出す
そして、日本経済のバブル崩壊が始まり、日本IBMでも、早期退職を募る事態になりました。おまけに、定年を50歳に引き下げるという施策がついていました。早くから、定年を50歳に引き下げてほしいと人事部長に言ったりもしていた私は、これに飛びついたのは言うまでもありません。
いずれにしても、「退職願い」の書面を提出した日は、私は訳もなく嬉しくて、高揚感一杯でした。これからは、思ったように仕事ができる!私でなくてもできる仕事に時間を割くのはやめよう!
でも仕事のスキルはすべて、IBMでの仕事を通じて、手に入れたもので、そういう機会を与えてくれた会社には、感謝の気持ち一杯で、それを元手に新たな仕事に臨もう!というわけです。
仕事を通じて出会ったすべての方々に感謝を込めて、以下にIBMでの仕事から得たスキルやノウハウのいくつかを列挙しておきます。
チームの仕事は、まずは目的・目標の理解と遂行意識の醸成、疑問や、助けて!を言い出しやすいような雰囲気を作る、どんなに忙しくても、部下が話に来たときは先ずそれに耳を傾けること、です。のちに「上條マジック」と言われるチーム作りはここでのチームオペレーションに追うところが大です。
また、仕事は最高の品質で臨む(これはIBMの3つの信条の1つ)、そしてまずお客様の要望をしっかり聞き、最大の満足を得られるようシステム・デザイン等で組みこむのです。バックには、IBM自体が持っている、品質保証、IBMとしての基本をはずさないためのチェックの仕組み、が存在します。社内の検証を通らなければ、客先に提案書を提出することはできないのです。
この計画段階での多方面からの検討、検証を非常に重く見る習慣は、貴重なものでした。時にはキュウクツに感じたように、決して値下げはしないし、未発表新製品をにおわせて、競争を有利にするなどは厳重に禁止されていました。こういった仕組みは、その後の人生でもあらゆる面で、非常に参考になるものでした。
また人事管理に関しては、「Job Description—職務記述書」がきちんと整備されていて、Job Assignの基準をなしていましたし、評価の基準・基本として大いに機能しているのを、当時は当たり前のように受け取めていましたが、日本の多くの会社にそれが整備されていないこと、女性がそのために成果を上げる仕事に就けないこと、きちんとした評価を受けにくいことなどが見えてきていたのです。
こうして得たスキルやノウハウはきっと社会の多くの企業や団体に役に立つに違いない!
大きな転機の時が来たのです・・・社会という大海に1人で出ていこうとしていました。
(続く)