菱 千尋(ひし ちひろ)

暮らし宿 お古(くらしじゅく おふる) 店主

菱千尋氏

1984年生まれ。広島市内で生まれ育ち、東京で就職後、庄原市に移住。
母の生家である築110年の古民家を修理し、かまどで調理、五右衛門風呂、薪ストーブ・掘りごたつ、という火を中心とした暮らしを始める。
田舎のない人にとっての田舎となるような場所にしたいという想いから、2011年、週末に一組限定の民宿「暮らし宿 お古(くらしじゅく おふる)」を開業。
結婚、出産を経て、夫・3人の子ども・犬・猫・鶏・ニホンミツバチと共に暮らす。現在、4人目を妊娠中。


目標達成型ではなく、環境適応型

幼い頃は、将来の自分を具体的にイメージすることができませんでした。
先生になりたい、獣医になりたい、結婚はしたい…という漠然とした希望はありましたが、どれも具体性はなく、目の前の興味のあることに熱中する、子ども時代でした。
広島市内で育ち、徳島大学に進学し、遺伝子工学を学びました。獣医という道は、センター試験で失敗した私には険しく、ヒトの体の基となる遺伝子を学ぼうと考え、この道を選びました。
大学に在学中、遺伝子創薬という言葉に出会い、製薬の道へ。新薬の開発に携わる「治験コーディネーターになりたい」と思い、東京で就職。
新しい環境に四苦八苦しながらも、やりたい仕事ができる喜びと共に、楽しく過ごしていました。

東京で得た充実感と疑問

年齢も育った環境も違う人とお話しすることで得る学び、自分には無いセンスを磨いてくれるお店、初めて知る料理…どれも刺激的で、仕事が終わると、毎日のように出かけていました。
その一方で、ふと疑問に思うことが、少しずつ増えていきました。
ヒールを鳴らして歩いている自分に酔いしれつつも「最後に土に触れたのは、いつだろう。」という思い。
ギュウギュウに混雑した通勤電車の中、苛立つ大人たちに潰されそうになりながら立っている小学生の姿に、胸が苦しくなる。
華やかな催しの後に片付けられていく、大量の残飯の行方が気になって仕方がない。
分刻みに運転する地下鉄に乗りながら「今、電気が止まったらどうなるのだろう。」という漠然とした不安。
空調の効いた建物の中で「やっぱり有機野菜が美味しい!」とはしゃぐ、農業を全く知らない自分。
ちょうど、LOHASという言葉をよく耳にするようになり「自然派」「環境にやさしい」ものに価値が高まりつつある頃でした。
「仕事もプライベートも充実したOL生活」を満喫する自分と、その生活を支えている根源を全く知らない自分への疑問が、交差するようになりました。

「田舎があっていいな」

ある時、友人から「田舎があっていいな」と言われました。
広島の県北に祖父母の家があった私は、幼い頃に家族や親戚とよく帰省していました。そんな話をしていた最中であったように記憶しています。
その友人は東京の街中育ちで、親戚も街中のマンション暮らしで、帰る田舎がないとのこと。
長期休みには田舎の家に帰り、春には山菜採り、夏には祖父母が育てた野菜を収穫、とんぼを追いかけ、五右衛門風呂に入るという経験が当たり前にあった私には、衝撃的な一言でした。
帰る田舎がない人が、これからもっと増えていく。
そんな世の中の流れを目の当たりにした私は、大きな恐怖感に襲われました。

帰る田舎のない人にとっての、田舎づくり

都市部で暮らす人にとって田舎という場所が、レジャースポットの一つや「トトロ」の世界に限定され、自身の暮らしとの繋がりが見えないままになる。
にわか東京人であった私が、実際そうなっていたように思います。

画像:帰る田舎のない人にとっての、田舎づくり

その恐怖感はいつの間にか使命感に変わり、「母の生家で暮らそう!田舎暮らしを自分自身が学ぼう!帰る田舎のない人の田舎になるような場所にしよう!」という思いが、急激に爆発しました。
そして、26歳独身女子は、何を勘違いしたのか、田舎暮らしと民宿の開業を心に決め、2010年4月、広島県庄原市に移住したのでした。

小娘一人で大丈夫なのか会議

広島県の北部に位置する庄原市に、母の生家がありました。私が生まれる前には、祖父母は庄原の市街地に家を建てて出ていたため、30年以上空き家になっていました。ここで小学生の頃に経験した一泊二日程度の田舎暮らしが私の原点になっていたので、この家に住むこと・民宿にすることに、迷いはありませんでした。
が、土地勘も実際の田舎暮らし経験もお金も何もない小娘が、携帯も繋がらない山奥の古民家で暮らし始めるということは、周囲にも大きな衝撃を与えていました。
心配してくださった地元の方々が「やめるなら今だ」と優しく諭してくださる、小娘一人で大丈夫なのか会議が設けられたほどでした。

小娘一人だから、できた

日々の生活費を賄うため、平日は市役所の嘱託職員として働き、空いた時間や休日に、家の周りの草刈から始めました。見よう見まねで畑を耕し、田舎暮らしに必要不可欠な車を購入。庄原市のコミュニティ事業支援金を申請し、それを基に、民宿の開業まで一年という期限で、慌ただしく準備を進めていきました。
右も左もわからない私は、常に頭の上に「降参」の白旗が立っていたのだと思います。そんな私を見かねて、たくさんの方が手を差し伸べてくださいました。草刈り機の使い方や火の焚き方を習い、薪を持ってきてくださったり、ご近所の集まりに声をかけていただきました。
もし私が、お金も人生経験も持ち合わせた老夫婦として、現役引退後に移住していたら、状況は違っていたのではないかと思います。
できないことも不足していたことも数多くありましたが、「やめる」という選択肢はなく、目の前の状況でできること、進むことができる道を選び続けました。
後になって、広島市内に短期間でカフェを開業した友人が、「最中は、ちょっと宙に浮いたような感じ。何かに背中を押されているような感覚。」と言っていましたが、まさしくその感覚で走り続けた一年でした。

「暮らし宿 お古」、開業!

2011年5月、週末に一組限定の民宿「暮らし宿 お古(くらしじゅく おふる)」を開業しました。携帯は圏外、かまどで共同調理、五右衛門風呂、という環境で、お客さん自身に田舎暮らしを味わっていただく、ちょっと変わったお宿。
全て、できる限り昔のままの姿を残し、お金や法律の枠内に収めようとした結果であり、構想として練っていたものではありません。
お手本通りではなく、自分が暮らすことを軸に作り上げた、民宿。
やっぱり、環境適応型なんだな、と思います。

画像:「暮らし宿 お古(くらしじゅく おふる)」
画像:「暮らし宿 お古(くらしじゅく おふる)」

家族と共に歩んだ、10年

27歳独身女子が、犬一匹猫二匹と共に田舎暮らしを始め、細々と民宿を開業し、慣れないながらも、なんとか一年間を乗り切りました。
その後、有難いことに、縁あって2012年に結婚し、すぐに子どもを授かりました。
地元の工務店に勤務していた夫は、日々の燃料として欠かせない木を切り出し、薪割りをし、田んぼなどの力仕事を担ってくれるようになりました。森林組合で経験を積み、現在は、林業で独立しています。
同じベクトルを持つパートナーに出会えたことで、家族が増え、ここでの暮らしに深みと広がりを持たせることができるようになりました。
開業して10年目を迎えますが、自分たちの暮らしを軸にしているので、農作業や家族行事を最優先し、わがまま営業を続けさせてもらっています。

画像:家族と共に歩んだ10年

「便利」よりも、「自由」に生きたい。

私の価値観の軸は、自由かどうか、にあるのだと思います。
テレビも電子レンジも給湯器もないわが家では、毎日羽釜でご飯を炊き、かまどや七輪を使って料理をし、夕方になると五右衛門風呂を焚かなくてはいけません。
多くの方に「不便じゃないですか?」と聞かれます。
一般的な暮らしの価値観から見ると、不便です。
ここには、楽であるか、時間が節約できるか、という価値観を基にした便利さはありません。けれど、現代の便利さは、電気・電波・機械などが正常に作動するという前提の上に成り立っているので、何か一つでも欠けた時の脆さがあります。
私は、できる限り、自分の力で、自由に生きたいのです。
食べ物、燃料、住む環境、全てを作り出せているわけではありませんが、流通網も情報網も発達している現代において、ここでは、自分の力で作り出すことも、一般的な便利さも選ぶことができる、自由があります。
そんな私独自の価値観からすると、実は、便利なのかもしれません。

画像:「便利」よりも、「自由」に生きたい。

年を重ねる楽しみ

田舎暮らしは、決して楽ではありません。移り行く季節と共に暮らしが成り立っているので、やらなければいけない作業は尽きることがなく、少しでもタイミングを逃すと、次にチャレンジできるのは、一年後…ということも。
なので、10年暮らしていても、まだ畑も田んぼも10回しか試行錯誤することができていません。
20年後、子どもが成人しても、道半ば。
40年後、老夫婦となって、ようやく板についているでしょうか。
年を重ねることで、知識と経験と感覚が増え、お客さまにお伝えできることが増える楽しみを、これからも味わっていきたいと思います。

画像:年を重ねる楽しみ