速水 望 (はやみ ながめ)
スウェーデン語講師/翻訳家
プロフィール
香川県生まれ。ヨテボリ大学文学部北欧言語学科修士課程修了。
帰国後、東海大学北欧学科非常勤講師、都内の語学学校でスウェーデン語講師を経て、現在東京スウェーデン語学校講師。SWEDEXスウェーデン語能力検定試験担当官。2005年よりスウェーデン大使館勤務。
著書に『ニューエクスプレスプラス スウェーデン語』『ニューエクスプレス スウェーデン語』『ニューエクスプレス スウェーデン語単語集』訳書に『私はカーリ、64歳で生まれた』がある。
2024年4月公開スウェーデン映画『リトル・エッラ』字幕監修。
自由を謳歌したスウェーデンでの子ども時代
2023年11月、私は暫くぶりにスウェーデンのアーランダ空港に降り立ちました。私を待っていたのは“スウェーデンの匂い”。子どもの頃や大学時代に一気に私を連れ戻しました。懐かしい記憶の数々。
私は純和風な母と外国に憧れていた父のもとに生まれ、「望(ながめ)」と命名されました。母は出かける時は必ず着物、趣味は生け花やお茶、三味線、そしてお琴の先生といったまさに昭和のお母さんでした。母の好きな箏曲に「四季の眺め」があったこと、また『春望』という漢詩があり、このタイトルは「春の眺め」と解されるそうですが、これにヒントを得て生まれてくる子は女の子で「眺」と名付けようと決めていたそうです。しかしながら、当時は人名漢字としては「眺」は認められていなかったので、代わりに「望」と書いて「ながめ」と読ませることにしました。視野の広い子になって欲しい気持ちを託して。
今でこそ珍しい名前が珍しくなくなりましたが、当時はまだ「子」や「美」で終わる名前が多い時代で、名前を言っても必ず聞き返されるので、私は自分の名前を聞かれるのが本当に嫌でした。なんでこんな変な名前をつけたのかと母を恨んだこともありましたが、母は「いつかその名前でよかったと思う日がくるよ」と自分のつけた名前に満足そうでした。
私が生まれた頃は専業主婦全盛期でした。職業婦人であった祖母は私の母が「よいお母さん」になることを望み、父は家にいて家事や育児に専念する「よい妻」になることを望みました。その結果、専業主婦の模範となるような母ができました。学校から帰ってきても母がいない日は1日とありませんでした。私の帰りを、必ずおやつを用意して待ってくれていました。子どもの頃の私は、母にべったりでひっこみじあんで「お母さんが死んだら私も死のう」と決めていたほどです。
男は外で働き、女は家を守る―私の家庭もそういった当時のごく一般的な家庭ではあったと思うのですが、私は両親の力関係を目の当たりにし、子どもながら母みたいに純和風になると母と同じ人生になってしまうと危惧していたので、伝統的なものからなるべく遠ざかろうとしました。そして母も私に、自立できる女性になることをずっと望んでいました。
父は家の中のことに力を注ぐ母とは対照的で、外国に行く夢を持っていました。私が生まれてすぐカナダ移住を企てていたそうです。しかしその後スウェーデンの会社サンドビックの日本支社で働くようになり、本社への転勤が決まり私たち家族はスウェーデンに住むことになりました。
スウェーデンでは自由を謳歌していました。夏は太陽がなかなか沈まないので遅くまで森に行ってベリーを摘んだり、冬はスキーやスケートをしたりしました。アルファベットも知らなかった私ですが、半年後にはスウェーデン語をマスターし、母の通訳となっていました。
楽しいスウェーデンでしたが、あっという間に日本に帰国する日がきました。その頃の私の考え方や習慣はほぼスウェーデンになじんでいました。父母の本来の居住地である鎌倉と離れますが勉強の遅れを考え、海外帰国子女を受け入れていた神戸大学附属住吉小学校に編入することになりました。短い間でしたが、スウェーデンの延長のような自由な校風で、先生方にとても大切にしてもらい、私の人生の学校の中で一番楽しいものとなりました。
小学校を卒業すると、鎌倉に戻りました。中学校、高校とどんどん私は日本の社会にどっぷり浸かっていき、スウェーデンとの繋がりは細々と続いていた友人との文通だけでした。しかし私の心の中にはいつもスウェーデンがありました。それで大学受験する時は、迷わず東海大学の北欧文学科を選びました。そんな私に転機が訪れたのは大学2年生の北欧への研修旅行でした。約8年ぶりのスウェーデンで、改めてこの国に関わるためにもっと勉強して留学したいという気持ちがとても強くなり、東海大学を卒業すると約半年後にベクシェー大学(現在はリンネ大学)で北欧言語学を学ぶことにしました。
スウェーデンに関わる仕事をしたい
ベクシェー大学に留学してまもなく、私の中で漠然とした目標ができました。日本人として初めてスウェーデンの大学でゼロから単位を取得し北欧言語学で修士号を修めようと。その思いは私を突き動かしました。子どもの頃からどちらかというと勉強が嫌いだった私でしたが、覚醒したようでした。毎日、人生でこんなに勉強したことがないと言い切れるほどひたすら勉強しました。私が入学した北欧言語学科は、日本の国文科のようなところでした。今でも覚えているのですが、なかなか合格できない難しい試験なのに、合格したことを前提にあと何単位とったら卒業できるといつも架空の単位をいつも数えていました。
そして追試試験を繰り返しながらも学士論文を書くところまでたどり着いたのですが、「バイリンガル」について研究することにしました。一番の興味は、人生のある時期において私は完全なバイリンガルで、そういった自分自身への探求でもありました。
修士課程はヨテボリ大学に進むことにしました。後で知ったのですが、私が入ることができたクラスは30人枠に900人近くの応募があったそうです。外国人枠2%があり、私のようにスウェーデン語を極めたいという外国人はあまりいなかったのでなんとか入れたのですが、これが学科の先生やクラスメイトから大ブーイングでした。優秀なスウェーデン人学生でも入ることができず、私が入れたこと自体が間違っていると直接言われたことも、何度もありました。
先生たちの猜疑心は日本人がくる所ではない、といった態度に表れることもありました。しかし、私には限られた時間しかなかったので、降りかかってくる難題を払いのけながら進むしかありませんでした。ちょうどこの頃、私には将来、日本でスウェーデン語の先生になるという具体的な夢がありました。そのために、スウェーデン語以外の科目の単位も取得しました。当時は修士の卒業単位は160単位でしたが、結果的に私が5年間で習得したのは225単位でした。先生やクラスメイトたちも、ようやく私のことを認めてくれました。
留学して5年、卒業が見えてきました。日本では私が夢に描いていた、大学での先生の仕事が始まろうとしていました。しかしスウェーデンを離れるのは本当に辛いことでもあり、なんとかもう少しいられる道はないのかとも考えていました。
1997年9月に帰国するとすぐに授業が始まりました。長く住んだスウェーデンから帰ってきて目の当たりにした日本の現実に、正直、これが自分が夢に見ていたことなのだろうかと愕然としたのを覚えています。帰国後、長期休みなどの機会をとらえてはスウェーデンの大学で再び授業を履修しながら、スウェーデンでの就活のほか博士課程にも志願しました。しかし全ての努力は虚しく終わりました。私の居場所はどこにもありませんでした。1998年3月、私は完全燃焼しました。もうスウェーデンに戻ってくることはないと思い、スウェーデンを発ちました。
帰国した私は、ただがむしゃらに仕事をしました。余計な事を考える時間を作らないように。スウェーデン語を教える学校の数は増えていき、NHKの番組の翻訳や技術翻訳、通訳など新しいことにどんどんチャレンジしていきました。今でも忘れることができないのは、日本赤軍によるクアラルンプール事件の裁判が行われ、事件当時のスウェーデン人の証人が来日し、その人の通訳をしたことです。2日間の通訳で、私自身、これまで感じたことのない緊張感でしたが、無事終わり、判事の先生から突然のお願いを引き受けたことにとても感謝してもらい「あなたを東京地方裁判所の最初のスウェーデン語の通訳者として登録させていただきます」と言ってもらえた時は本当に嬉しかったです。私の母は「なんでもいいから一番になりなさい」とよく言っていたからです。
イタリアでの生活と母の死
仕事ではスウェーデンに携わっていたものの、完全燃焼してしまった私の心は空っぽで次の目標を探していました。そんな時、留学中はいつもイタリア人の友人がいて、イタリアが大好きだったことを思い出したのです。
まずイタリアの地図を広げ、中心辺りに何かないかと探してみました。というのも私の友人は南と北に多くいて、そのどちらかに行くと依存すると思ったので、誰も知り合いのいない所でゼロから始めてみたかったのです。結果的に私が最初に選んだのは、サンマリノの近くにあるリミニという観光地として有名な海沿いの小さな街でした。イタリアは想像以上に楽しく、季節労働者のように日本にいる間は必死に働き、お金をためて、大学の休みがくるとイタリアへ行くというのを数年繰り返していました。私の新しい目標はイタリアに移住することでした。
イタリアではいろいろな都市を巡り、将来の居場所を探しました。仕事を見つけるためにイタリア語も本格的に勉強しました。しかし、勉強して言葉が分かるようになればなるほどイタリアの社会が見えてきて、果たして私が生きていける場所があるのか疑問も感じ始めていました。
そんなある日、母の体調が思わしくないというのがわかりました。病名は慢性リンパ性白血病。なぜ? 母は誰よりも健康に気をつけていました。私はいきなり暗闇に突き落とされたような感じがしました。
イタリアの友人に母のことを話すとローマに白血病の名医がいる、と教えてもらいました。その先生のことなどを調べたり、連絡したりするのに皮肉にも勉強したイタリア語が役立ちました。もう病院を出ることすら考えられなかった母でしたが、思いがけずローマで治療を受けることができました。帰国した時の母の幸せそうな顔が忘れられません。しかしその後、母の体調はものすごい速さで悪化し、二ヶ月後にあっけなく亡くなりました。亡くなった当日、偶然にも兄が自分の勉強机の奥から私と兄に宛てた母の手紙を見つけました。今でもあのタイミングで見つかったのが不思議です。
母の死は私にとって経験したことのない悲しみでした。子どもの頃、「お母さんが死んだら自分も死のう」と思っていた私。物理的には死ぬことはありませんでしたが、心はまさに母と共に死んでしまいました。こんなに辛い思いをすることは今後の人生にはないと確信していましたが、別の形で後の人生において経験することになるとは、知る由もありませんでした。
母の葬儀を終え、2004年9月、スウェーデン大使館で広報部の代理職員として働くようになりました。縁があり、翌年の2005年に正式にスウェーデン大使館広報部に就職することが決まりました。
当時、広報部のスタッフとして求められていたのはスウェーデン語とスウェーデンに関する知識だったのですが、私にとって天職でした。私の上司はヨアキム・ベルイストロムさんと言って、仕事にはとても厳しい人ではありましたが、本当に温かい人でした。私が2007年に白水社から『ニューエクスプレス スウェーデン語』を出版させていただいた時には、自らお料理をつくりお祝いの会を開いてくれました。この元上司は在北朝鮮スウェーデン大使を経て、今は在マレーシアのスウェーデン大使ですが、私たちの友情は変わることがなく、今でも大切な家族のようです。
ある時、日本の外務省のイベントで、スウェーデンにある日本大使館で元上司と共に文化・広報を担当するローゲル・クラインさんに会いました。ローゲルさんとはこの出会いをきっかけに仲良くなっていったのですが、ある時、自分のお母さんが本を出版したと教えてくれました。お母さんはナチスの優生主義によってつくられた「レーベンスボルンの子ども」として生まれ、時代に翻弄された自らの悲しい過去について記したものでした。
私も大事な友人ローゲルのお母さんの著書を拝読し、他人事ではないと思いました。そして勝手な使命感からどうしても自分が翻訳したいと思い働きかけた結果、初めての訳書を出版することができました。それが『私はカーリ、64歳で生まれた』(海象社)です。著者でもあり主人公のカーリさんは2024年4月に来日し、東京はじめ各地で講演をされました。私は通訳として同行することができましたが、私が訳した本を多くの方が手にし、共感している姿を見るのは本当に感動的な光景でした。またたくさんの方に翻訳したことについて労いの言葉やお礼の言葉をいただき、私に与えられた使命の一つを達成できたように思いました。そしてまた頂いたご縁で、同年4月に公開されたスウェーデン映画『リトル・エッラ』の字幕を監修させていただきました。書籍の翻訳や映画の字幕監修は人生でやりたかったことの一つだったので、とても嬉しかったです。
今の人生を導いてくれたもの
人生とは光と影の繰り返しなのだと思います。どんなに光があたっていても影はあり、影の中にも一縷の光があると。そして進むべき未来への道はたとえ遠回りしたとしても開かれている、と自分の人生を振り返るとそう思います。
人生には、良いことも悪いことも予期せずに訪れます。ある日を境に自分という人間が否定され、それまであった私の生活は音を立てて崩れて行き、見たことのない景色が広がっていました。絶望的な日々でした。虐待された子どもや、精神的に追い詰められて自殺した人のニュースを聞く度に、その人たちは自分と同じ気持ちでいたのだろうかと、彼らの心に寄り添いました。人間が人間を壊す。世界で起きている戦争の主導者に強い怒りを持ち、犠牲者に哀悼の意を示す一方で、無意識に一人の人を精神的に追い詰めていく。
今でも心の傷が疼くことがありますが、辛い中にも光を見出すことができるのは、今までに乗り越えてきた逆境や悲しみの数々、そして私のことを信じて応援してくれる友人の存在です。今こちらをお読みいただいている方で、同じような気持ちでいる人もいらっしゃるかもしれません。そういう方に「まずは一番近しい人に助けを求めてください。あなたの味方は必ずいます」と言いたいです。
母から私への最後の手紙は、私への感謝の言葉はありましたが、留学から帰ったものの、地に足がついていない私の生活を憂うものでした。だからこそ、母にしっかりした姿を見せたいと思い、一歩ずつ前に進むことができたのかもしれません。今思うと、帰国するまでが人生のスタートをつくる土台作りで、帰国してからが本当の人生の始まりだったのかもしれません。そのスタート時点しか母に見せることができませんでしたが、20年経った今の私をどこかで見ていてくれて、そして安心していてくれたら、と思います。
私が幼少期をスウェーデンで過ごすことがなければ、私の人生は全く別のものになっていたと思います。またスウェーデンを通じて、私の世界は大きく広がりました。スウェーデンの社会制度のおかげで私は素晴らしい教育を受けることができ、自立した人間となることができました。また学問だけではなく、掛け替えのない友人たちとの出会いがありました。もしかすると「望」という名前がこの人生になるように導いてくれたのかもしれません。
2023年11月のスウェーデン旅行では、私がずっと探していた心の居場所が見つかったような、そして長い長い旅の終着点を見たような気がしました。しかし、これからも私の人生は続きます。今後どんな未来が待っているのかも本当に楽しみです。一人でも多くの方にスウェーデンという素晴らしい国があるということを伝え、その国の言語を広めて行くのが私の使命と感じております。スウェーデンには言葉で言い表せないほど感謝しています。そして私の大切な母にも。