吉田 眞佐子(よしだ まさこ)
主婦
1977年、1989年、と夫の赴任に伴い2度のアメリカ生活を経験。出産や子どもたちの学校で文化の違いを実感する。
アメリカで子育てをした私が感じたことを、思いつくままに綴ったこの文章。現代のように指先一つで情報が手に入る時代には、あまり魅力がないかもしれません。しかし、どうかアナログでセピア色の写真を見るような気持ちでご覧ください。
アメリカでの初めての子育て
夫の海外赴任に伴い、私は通算17年間アメリカに滞在しました。最初の訪問は1977年の夏、2歳の長女を連れてニューヨークに移り住んだ時でした。その頃は子どもの教育に関する悩みは一切なく、ただ新しい環境に慣れることに専念していました。長女は耳から入る英語をすぐに覚え、ネイティブのような発音で近所の方々にも可愛がられ、見るもの聞くものに興味を持ち、すぐに英語でコミュニケーションを取る力を身につけ、コミュニティーに溶け込んでいきました。その適応力には本当に驚かされました。子どもがすぐに慣れてくれたおかげで私の不安も消え、とても幸せな日々を過ごしました。
しかし、私自身の英語力には苦労しました。私は自分を外交的で近所づきあいも得意だと思っていましたが、英語での会話力はなかなか上がらず、長女の速やかな英語習得を羨ましく思ったことを覚えています。幼い子どもの言語取得能力の高さを実感しました。
ニューヨーク滞在中には長男を出産する経験もしました。1974年に東京で長女を出産していたので、アメリカでの出産との違いを強く感じました。第二次ベビーブーマーの時期に日本での出産は医者主体で、産婦は「生ませていただく」という状況でしたが、アメリカでは40年前も今も産婦主体の出産が主流です。医師と看護師の説明は懇切丁寧で、妊娠の診断から出産までの全過程を把握できる安心感がありました。現在の日本も少子化の影響で産院の対応が変わり、出産時には至れり尽くせりと聞いています。
長男を出産する際には、医者選びに少々苦労しました。当時のニューヨークでは産婦人科、小児科、内科が連携しており、産科の医師を決めると小児科と内科の医師も自動的に決まる、いわば一本の木のような連携組織のシステムでした。したがって、産科の医師を選ぶことは小児科の医師を選ぶことにもなり、慎重にならざるを得ませんでした。日本語が話せる産科医師もいましたが、小児科の医師の選択肢が狭くなるため、小児科の医師の評判を徹底的に調べて決めました。
選んだ産科の医師はとてもフレンドリーで、日本の医師との違いに最初は戸惑いましたが、次第に慣れ、辞書を片手に私の会話をゆったりと聞いてくださり、出産までの日々を穏やかに過ごせたことに今でも感謝しています。
子育ての文化の違い
アメリカ人には新生児黄疸が少ないため、生まれたばかりの長男に現れた肝臓の働きの数値でもあるビリルビン値の高さに小児科医が驚き、血液交換の話まで出ました。しかし、私は必死で「長女も経験したし、日本人特有の一時的なものです」と説明し、その処置を止めてもらいました。その代わり、長男は1週間以上の入院を余儀なくされ、光線療法を受けることになりました。この間、母乳を与えることができず、搾乳して捨てるだけの日々はとても悲しいものでした。
また、我が家のことではありませんが、子どもが風邪をひいて病院に連れて行った際、臀部の蒙古斑を見た医師が虐待と勘違いし、警察に通報されたという話もありました。日本人とアメリカ人の体質の違いから医療に関するトラブルが起こることが多いため、ある程度病気についても勉強し、医師にしっかり説明することが必要だと感じました。
さらに、アメリカの産科で一般的に行われる男児の割礼(サーカムシッション)についても注意が必要です。医師が施術を勧めてきますが、日本人にはその慣習がないため、はっきりと断るべきです。曖昧な返事をして割礼を受けてしまい、日本に帰国後にいじめにあった子どもの例も報告されています。私たちは事前に調べていたので、しっかりと断ることができました。ここでも日米の文化・慣習の違いを学ぶことができました。
アメリカでは一般的に出産後2泊3日で退院しますが、1泊2日で退院する方もいます。日米の産婦の体力の差を感じ、日本での一週間の入院が懐かしく思われました。私の場合、長男が入院加療となり、一緒に家に帰れませんでした。退院まで毎日病院に通いましたが、本来は母乳を与え、抱いて一緒に寝るべき長男を病院に残して帰る辛さは格別でした。1週間が過ぎ、ビリルビン値が下がり、ようやく退院許可が出て長男を家に連れて帰ることができた時の嬉しさは、この上ないものでした。
出産後の初期トラブルに見舞われたものの、長男は退院後順調に育ちました。長男をベビーカーに乗せ、長女を連れて歩いていると、多くのアメリカ人が「ソウ・キュート!エンジョイ・ユア・ベイビー!」と声をかけてくれました。最初は「大変な思いで育てているのに、エンジョイとは?」と思いましたが、子育てを終え、孫がいる今では、あの頃は確かに楽しいことを幼い子どもたちに与えてもらったと感じます。一時帰国して二人の子どもを連れていると、「大変ね」と言われました。これも文化の違いなのでしょうか。
アメリカの教育システム
アメリカの教育制度は、6歳から18歳までの義務教育期間があり、各州の教育行政がスクールディストリクトによって運営されています。カリキュラム、教科書、休暇などは各ディストリクトが決定します。ほとんどの公立小学校には、就学前クラスであるキンダーガーテン(日本の幼稚園の年長クラスに相当)が併設されています。公立学校への入学は住所によって決まります。
1981年4月、我が家の長女は現地の一年生をほぼ終了して帰国しましたが、日本でも一年生、長男はまだ2歳と、子どもたちが小さかったため、教育の悩みも少なく帰国することができました。帰国子女を受け入れる体制のある公立小学校に長女を入学させる選択もありましたが、最終的には地元の公立小学校に通わせることに決めました。
初めての登校日、帰宅するまで心配して待っていると、帰宅早々に長女が発した言葉がアメリカと日本の教育の違いを如実に表していました。肩を怒らせ両手を広げて、いわゆる怒りのポーズで「ママ、アメリカでは人と同じことをしてはいけないと言われ、日本では人と同じことをしなさいと言われたけれど、本当はどちらが正しいの?」と英語でまくし立てたのです。返答に困った私は、日本に慣れさせるため「日本の先生のおっしゃる通りに」と答えましたが、内心では自分の答えに納得していませんでした。この時の自分の日和見的な態度に嫌気がさしたのを今でも覚えています。
その後、我が家では日本語の重要性を考え、長女には英語を保持させず、日本語に専念させました。その結果、長女は日本の中学受験を終え、すっかり日本の学校生活に溶け込みました。一方、アメリカ生まれの長男は日本の小学校で思いっきり遊び、中学受験に向けて受験塾で学ぶ楽しさを覚え始めたところでした。
2度目の海外赴任
1989年、私たちは2度目の海外赴任が決まりました。行き先はカリフォルニア州ロサンゼルス。夫の強い意志で家族全員での赴任が決まり、翌日から親子で苦行の日々が始まりました。赴任前の準備期間に英語塾に通わせたものの、短期間で現地校に対応できる英語力が身につくわけもなく、この時ほど子どもたちの英語力を維持しておけばよかったと後悔したことはありませんでした。
子どもたちは学校と地域社会でしっかりとした友人関係を築いており、海外赴任でその関係を断ち切ることになるため、不安は一層深まりました。1回目の海外駐在から帰国後8年が経過し、長女は中学2年生、長男は小学5年生でした。泣きながらの赴任となりました。
赴任後、長女は現地校の7thグレード、長男は4thグレードでのスタートとなりました。アメリカでは学年をグレードと呼びます。特に長女の7thグレードは宿題も多く、分厚い本を消化しなければならず、日本では中2で英語を始めたばかりの長女にとっては辛い日々でした。しかし、8年のブランクがあっても英語の能力は体のどこかに残っていたようで、急速に英語の環境に慣れていきました。
一方、長男は最初から現地校を楽しんでいました。アメリカ生まれだからと妙に納得しましたが、実際にはクラスのお荷物で、厳しい先生は一番後ろの席を与え、好きな本を読んでいいと言われ、学ぶ姿勢ではなく遊びの日々でした。
ある日、長男が暗い顔をして帰宅し、先生が怒っていると紙を見せてきました。ほとんど英語を理解しない長男でも、人の怒りは理解できたようです。すぐに学校に行くと、先生はかなりご立腹で、テスト用紙を見せながら「彼はチートした(カンニングした)」と言いました。長男は訳が分からずうなずいたそうです。
テスト用紙を見ると、計算の跡もなく答えだけが書いてありました。長男は幼いころからそろばんが得意で、当時は初段で暗算でもかなりの桁数の積算ができました。辞書で「アバカス(Abacus)」を調べ、懸命に説明しましたが納得されず、先生に10段の積算をいくつか書いてもらい、長男に暗算で答えを書かせました。先生が計算機で答え合わせをすると、全問正解でした。先生は驚き、長男を抱き寄せて謝りながら「あなたは天才!」と言い、翌日から日本語が分かる子をつけてくれることになりました。
楽しく通学していた長男にとって、この日から地獄の特訓が始まりました。英語の日記を書かせるようになり、私も手助けしましたが、真っ赤に直されて返される日記は私の英語力のなさを痛感させました。長男の暗算のおかげで先生の力が入り、席も前の方に移され、毎日が英語漬けの日々に変わっていきました。
ボランティア活動の重要性
日本の学校はすべてが整っており、卒業するまで変わらない環境が提供されます。しかし、アメリカの学校は教育費が地域の基金に依存しており、その資金を集めるのも保護者の努力によるところが大きいです。図書館係や守衛係、さまざまな学校備品など、予算がなければそれらがカットされてしまいます。ピアノ、プール、給食が完備されている日本との違いは大きいです。
カリフォルニア州ロサンゼルス郡の公立学校も保護者のボランティアに依るところが大でした。私は子どもたちの学校の様子を知りたい一心でボランティアを引き受けました。英語力が十分ではなかったため、言葉があまり必要でない図書館員を担当しました。この場で初めて「自分たちの学校は自分たちで守る」という考え方を学びました。
年に数回、先生方のためにランチを用意して差し入れるのもボランティア活動の一環です。日本人が作るランチは好評で、母親たちの気合も高まります。中国、韓国、インドといった国際色豊かな料理が並ぶ光景は壮観です。多くの場合、日本人以外の保護者は前に出て先生に自分の子どものことをアピールします。たとえ英語力が乏しい母親であっても、主張すべきことはしっかりと伝えます。
しかし、日本の母親はいつも遠慮がちです。先生と話す良い機会だと促しても、前に出てアピールすることはほとんどありません。これは本当に残念なことです。日本人が作るランチの内容は一番手が込んでいてアピール度も高いのですが、こうした消極性は国民性、つまり「恥の文化」に由来するのかもしれません。
日系の方々(1-3世)の敬老ホームでもボランティアをしました。当時、入居されていた皆さんの生き様をまとめたいと聞き取りを始めましたが、心を開いてくださっても、本当に辛かったことは言えないことにハッと気づかされて辞めました。今、日本人が渡米できるのは、この世代の方々がつくられた道があるおかげだと思っています。
ボランティア活動の広がり
インターナショナル ティーチャーズランチを皮切りに、ボランティアによる様々な学校行事が行われます。私も次第に慣れていき、PTSA(Parents, Teachers, and Students Association)のセカンド バイスプレジデントを任されるようになりました。いつの間にか、ボランティアを頼まれる側から頼む側へと変わっていたのです。
アメリカ人にボランティアをお願いすると、必ずと言って良いほど「Thank you for asking me.」の言葉とともに快く引き受けてくれます。もし仕事で忙しくてできない場合は、お金を寄付して支援してくれます。一方、日本人にボランティアをお願いすると、多くの方々が初めは躊躇されますが、一旦引き受けてくれるとプロ顔負けの仕事をしてくださいます。日本人の手仕事の器用さは、世界に誇れるものだと改めて認識させられます。
教育資金集めのイベント
子どもたちが通ったパロスバーデス ハイスクールでは、年に二回のメインイベントがあり、親たちが協力して教育資金を集めるためにチャリティーディナーやオークション、サイレントオークションを開催します。日本人の母親たちは毎年、20名分のディナーセットを出展し、サイレントオークションにかけます。このディナーセットは非常に人気があり、2,000~3,000ドルで落札されることもあります。
落札した家庭では、指定された日に20名のゲストのために迎え花、料理、デザート、日本人のおもてなしの品々をすべて私たちが用意します。お料理だけでなく、折り紙のデモンストレーションや書道体験なども取り入れ、ゲストを飽きさせない工夫を凝らしています。このイベントは毎年大好評で、ボランティアの母親たちの料理の腕も年々上達し、日本人の層の厚さと質の高さを誇りに思います。
学校での事件・事故への対応
学校には常駐の心理カウンセラーがいて、子どもたちの心のケアに当たっていますが、事件や事故が起きるとすぐにボランティアも呼び出されます。子どもたちが登校する前に、多くのボランティアが集まり、事件や事故を初めて知る子どもたちを心理カウンセラーに連れて行く役割を担います。また、マスコミとの接触を避ける工夫もされています。「子どもを守る」ことに関しては、対応が迅速でいつも感心させられます。
日本でもこうなれば良いと、テレビで発言している学生を見るたびに思います。アメリカの住民は、自分たちの力で子どもを守り、学校を守り、コミュニティーを守る姿勢が強いです。一方、日本では学校行政を国や地方行政などの行政機関に頼る傾向があります。自分で守る必要がないかもしれませんが、時には周りの国々の動向を注視することも大切だと思います。
ボランティア活動を通じて得たもの
ボランティア活動を通じて、アメリカでの生活やアメリカ人について少しずつ理解を深めることができました。そして、同じ目的(ゴール)を持てば、人の心は簡単に通じ合えることも学びました。「子どもを守る」という目的は、いつも親の心に根付いています。国が違っても、このゴールを掲げれば、皆が同じ方向を向き、理解し合うことができます。世界中の子どもたちの幸せを心から祈りたいと思います。