村沢 裕子(むらさわ ゆうこ)
ピアニスト アルモニア・ムジカ代表
音楽プロデューサー
音楽鑑賞振興財団理事

- 三重県伊勢市生まれ、武蔵野音楽大学卒業。
室内楽奏者としてこれまでに250回以上のコンサートを重ね、その活動の様子は、新聞等でも大きく取り上げられる。NHK交響楽団弦の名手や、グラミー受賞のクラリネット奏者で指揮者のカールマン・ベルケシュを始め、日本、世界を代表する多くの演奏家との室内楽コンサートを開き、カンボジア井戸建設、戦災被災者、災害被災者、障がい者支援などを継続中。これまでに障がい者施設での収益金全額寄付コンサートは全44回、コンサートでカンボジアに造った井戸は17基。アジアの子どもの生活支援は16年。視覚障がい者支援コンサートも長年に亘り継続中。
48歳から室内楽ピアニストとして出発
私なんか・・とあきらめてはだめ
何歳からでも輝ける!
子供のころ ピアノを始めたきっかけ
私がピアノを習い始めたきっかけは、どうやらテレビだったようです。そのころ、テレビで「ポパイ」が放映され、テレビさえ見せておけばご機嫌だった私は、テレビから流れる歌をおもちゃのピアノで弾いて遊んでいたとのこと。
その様子を見た父が、ヤマハのアップライト・ピアノを買ってくれたのが、私が4歳の時。祖父は地元の小学校の校長で、伯母も公立幼稚園の園長だったこともあり、伯母の娘たち(4人)はピアノを習っていて、かわるがわるソナチネなどを練習しに来ていました(当時、伯母の家にはオルガンしかなかったので)。その従姉たちの練習を聴いて、私がスラスラと弾くので、私も4歳で隣町までピアノを習いに行くことになりました。
練習大嫌い
とにかく、練習が嫌いだった私は、父が会社を立ち会上げ、母もその会社で働き留守が多いのをいいことに、全く練習しない小学生時代を過ごし、それでも週一回のレッスンでは、いつも花丸をもらって帰ってきていました。
ところが、中学、高校になると、だんだん課題が難しくなってきて、母は近所のおばちゃんたちに、「裕子が練習してる時間を計って教えてほしい」と頼んで歩き、そんな母の努力の末、音大のピアノ科に通うことに。でも、東京の大学までは母の監視は行き届かず、今の夫と遊び歩き、試験の前だけ適当に練習して、それでもピアノの成績はいつもSでした。まぁ、ある意味、向いてると言えば向いていたのかもしれません。
なんと48歳で室内楽の面白さに開眼 伴奏者としてボランティアに取り組む
大学卒業後に結婚、二人の娘に恵まれ、学校のPTA役員をしたり、近所の子供にピアノを教えたりしながら、日々を重ね、娘たちが大学生、高校生に成長したある日、仲良くしていた友人から、「長女が元気ないので、会いに行きたい」と連絡があり、お嬢さんが心の病気になったと聞かされました。
「もう、あの子は学校にも行けないと思う……」
という友人にかける言葉も見つからず、自宅に戻り、何かできること…・・・と考えたとき、思い出したものがありました。たまたま、少し前に、別の友人から「ドイツから帰ってきたチェリストの伴奏をしてほしい」と頼まれて、演奏した会場・喫茶「ゆめ色」のことです。ここは、心の病気で社会に戻れなくなった青少年を社会に戻す窓口として、メンタル・クリニックの先生が自費で造った通所授産施設の一画にありました。
『あの場所、地域住民の反対で施工から完成まで5年かかったとおっしゃっていたから、あそこで地域住民の方が喜ばれるようなことをしてみたらどうかな。グランドピアノが真ん中で素敵だったし…・・・』と思い、そこで収益金を全額施設に寄付する室内楽コンサートを企画、出演することにしました。
一人でのピアノ練習は嫌いだったのですが、伴奏は、合唱、声楽、弦楽器と学生時代から全然苦にならなかったので、既に48歳になっていましたが、2005年1月にアルモニア・ムジカを設立、室内楽の新しい扉を開けたのです。

NHK交響楽団
(杉並公会堂小ホールにて。2015年)
クラシック界の厚い壁が立ちはだかる、でも下がってはダメ。
まず、第1回目を開催、その後も知人、友人の音楽家の皆様と6回ほど公演をさせていただき、順調な滑り出しと思ったのも束の間、次のコンサート出演を約束していた方から、 「ちょっとお金になる仕事が入ったので、そちらに行かせてもらいます」
と連絡がありました。無理もありません。演奏家にとってとても大事な土曜日の午後に、春日部で。施設からの謝礼は図書券1枚というコンサートです。
『行ってあげよう』と思ってくださるだけで、それがどんなにありがたいことかは、よくわかっていたので、すぐ施設に連絡して、中止をお願いしました。
ところが、施設の方では1,900円の入場料を取って集客して、開催まで3週間、という時だったので、開催中止は難しいとのこと。
それから大急ぎで、50人くらいにお伺いしたかと思います。でも、春日部まで図書券1枚で急に来てくれる方など見つかるわけもなく、断られ続け、すっかり落ち込み、途方に暮れてしまいました。
『もうお聞きする方も底をついて、どうせ断られるなら、一番偉い人にどなたかご紹介をしてくださらないかと頼んでみたらどうかな? 最初から無理だと思っていれば、断られた時の痛手も少ないし……』と、日本で最も有名なオーケストラ・NHK交響楽団の首席チェロ奏者・藤森亮一さんの連絡先を調べて、メールでどなたかご紹介してほしい、とお尋ねしてみました。
そのお返事が、「ちょうど高崎で似たような施設コンサートをするので、そのままのプログラムで私が演奏しましょう」と言っていただいたのです。
更に驚いたことに、そのプログラムには、以前ドイツから帰ってきたチェリストと演奏した曲が何曲も入っていました。
大きなサポート 志あるところに道は拓く
いよいよ当日。藤森さんとの演奏会が無事終わると、一人の車椅子に座った女性が藤森さんに手を差し延べて、「私、こんな体でどんどんマヒが進みますから、遠くまで行くことも出来ず、何の喜びもなく過ごしています。でも、今日、チェロを聴いてほんとうに生きていてよかったと思いました。また来てくれますか? その日までなんとか命をつなぎますから」と涙ながらにお話しになられます。
藤森さんは、「はい、必ず来ますから」とお返事されて、それから一年に1~2度しかない土曜日のお休みに、春日部まで来てくださいました。それだけでなく、藤森さんが行かれるなら、とNHK交響楽団首席コントラバス奏者の吉田秀さんはじめ、多くのクラシック界のトップスターたちが足を運んでくださり、計44回、開催することができました。
11年続けたゆめ色コンサートは、施設の事情で2016年に終わりましたが、その後も室内楽活動で2025年の現在に至るまで、多くの演奏家の方々に支えていただきながら、様々な支援を続けています。

弦の名手
(としま区民センター小ホールにて。2023年)
様々な支援の一部をご紹介
小さくても今できることを! をモットーに、アルモニア・ムジカでは、演奏会の収益金でカンボジア井戸支援、視覚障がい者支援、生活支援、戦争災害支援、震災支援などを継続中です。
その中の1つが、アジアの子どもの生活支援で、モンゴルの男の子(バルハスくん)を3歳から15歳まで支援させていただきました。一家の年収が30万に満たないとお聞きして、行きたい道に進めるようにと支援を続け、毎年近況の連絡をいただきました。
彼は「数学が大好きで将来は日本の大学に行きたい」という希望を持っていたので、会える日を楽しみにしていましたが、(規則により)15歳で支援終了。その後は、親戚に引き取られ引っ越したそうで、連絡がつかなくなりました。でも、毎年、お誕生日にプレゼントを贈らせていただいたり、お礼に直筆のお手紙をもらったりで、手紙の絵や字がだんだん上手になっていくのを見るのが、とても嬉しい時間でした。
その支援と並行して、2010年には、カンボジアの井戸支援を始めました。
私は、夫のアメリカ赴任に伴い30代にバージニア州のアーリントンに住んでいて、そこで様々な国の方と知り合いになり、その時、それぞれの国の内情など聞く事が出来ました。とても懐かしい思い出です。
帰国してしばらくしてからアルモニア・ムジカをスタートしたのですが、2008年のある日、テレビで黒柳徹子さんのカンボジア報告を拝見しました。その時、アメリカで聞いたポルポト政権の話などが思い出されたのです。
農業国であるカンボジアでは、人口の約8割が農民とのこと。長期にわたるポルポト内戦の混乱のなかで荒廃が進み、電気も水道も多くの地域で未だに整備されておらず、農村で暮らす人々の多くは、大きな瓶に貯めた水を利用しています。しかし、薪がない、手間が面倒といったことからカンボジアには水を沸かして飲む習慣がなく、そのため、農村では眼病疾患や皮膚疾患の子どもたちが多く見受けるとのこと。加えて、各家庭の水瓶などはマラリアを媒介する蚊の発生源ともなり、子どもの高い罹患率の大きな原因となっています。
さらに、家族のために子どもたちは川に水汲みに行かねばならず、ろくに学校にも行けないとのこと。
大きなことはできませんが、1年に井戸1基か2基くらいの建設なら継続できるのでは……、『人にしかできない音楽で、人の命に欠かすことのできないお水を贈らせていただけたらどんなに音楽も喜ぶだろう』と支援を始めました。そして、昨年までに17基を造らせていただきました。この数年は、水を汲みがてら学校に行けるのではないかと考え、お願いして、小学校のそばに井戸を造っていただいてます。
小さな支援ばかりですが、神様が人間に与えてくれた、人間にだけ出来る事の1つである音楽で、人が生きること、学ぶこと、をサポートできることは本当にありがたいことだと思っております。

為せば成る 自分の明日は自分で作る
年齢が上がってくると、『もうこんな年だし、私なんて……』という気持ちに何度もなります。それにクラシックの世界は封建的で、20代までの努力で全ては決まる、といっても過言ではありません。若いうちの努力がその後の人生を彩ってくれますし、その切符がないと、叩きのめされるだけで、相手にもされないということは茶飯事です。
でも、だからと言って、自分の可能性をあきらめる必要は全くないのでは?
私たち女性は、結婚、出産、家事、育児、ジェンダー問題など様々な事に折り合いをつけながら日々を重ねています。気が付いたら自分のことはいつも後回し、という事も多いと思います。
そんな中、一度きりしかない人生を充実させるため、いくつになっても輝やく光を胸に進んでいくには、自分の中に常に光を灯し続ければよいのだと思います。私にとっての光は、室内楽であり、またその音楽で拡げる支援活動です。
「自分なんかに何かできるわけがない、身の程知らずの生意気者だと思われるのでは……」と引っ込んでしまっては、勿体ないと思います。小さな積み重ねでも、やがてその努力が、周りを明るく照らしていくと信じ、前に前に、と明るい気持ちで向かっていきたいものです。
輝く60代、70代、80代に向け、私の拙い文章と経験が、皆様の何かのお役に立てることがあれば幸いです。
今回、このような機会をいただきましたことに、心より感謝しております。
お読みいただきありがとうございました。