小林幸恵 (こばやし さちえ)
(株)シナリオ・センター 代表取締役社長

1950年、東京生まれ 成城大学卒。大学卒業後、コピーライターとして、㈱PAT、㈱アドエンジニアーズで働き、1973年より、フリーとなり、父・新井一のやっている㈱シナリオ・センターの広報として手伝い始める。
1990年、代表取締役社長就任。
1997年、所長の新井一逝去後、引き継いで社長及び代表として勤務。
2025年、代表取締役会長に就任、現在に至る。
経営だけでなく、シナリオ授業、子供シナリオ、企業研修、キャリアアップ教育なども教えている。
著書に『今日からシナリオを書くという生き方』(彩流社)、『シナリオ力をつける本』(ブックビヨンド)などがある。
㈱シナリオ・センター
シナリオライターの養成所としてプロ育成を図るとともに、現在は、子供のためのシナリオ教室の出前授業をはじめ、シナリオを使った企業研修なども行い、好評を博している。
ジェームス三木、内館牧子など700名以上のライターを輩出。現在,通信通学、大阪校合わせて全国で3500人強の受講生が学んでいる。
今年、後期高齢者になりました。あっという間でした。
1日中テニスに明け暮れても疲れません。どこまでもよく歩きました。やることは手早く、美味しい料理をふるまい、仕事もてきぱきとこなしてきました。
ですが……。
ボールは追えなくなり、股関節は痛くなり、ペットボトルは開けにくくなり、人の名前を思い出せない、やるべきことを忘れるし、目もよく見えない……。どんどんとできることが減ってきました。
これまで、いつも元気でいつまでも一緒だと思っていた身近な友人たちが、この数年、急に、ひとり、ふたりと逝ってしまうようになりました。
これが歳をとるということなのですね。
後期高齢者のレッテルを張られた途端、がっくり歳を取りました(笑)。
この度、『女性100名山』にて、自分の来し方を語れとの仰せでした。
とはいえ、私の記憶の引き出しはほぼ空っぽなので、思い出すことも難しく、ただただ戸惑うばかりです。私は過去を語ることが好きではありません。過去を語るって、なんとなく自分を美化してしまいそうで、嘘になる気がして。
なので、ここで語ることはきっと美化しまくりの自慢たらたらのお話しになるかと思います。お許しください。
ま、それが私の来し方だと言えばいえる人生なのでしょうから。
大勢の仲間ができた子どもの頃
私は、10代から20代の多感な時期を戦後の高度成長時代のまっただ中で過ごしてきました。団塊世代のオシリの方ですが、幼稚園から小学校、中学校、高校、大学と同級生の多いこと、多いこと。小学校のクラスは62人でしたし、中学校は11クラスあり550名くらいいました。
その頃は、ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、東京では番町(小学校)・麹町(中学校)・日比谷(高等学校)・東大というのが公立のエリートコースと呼ばれていました。で、友人の3割くらいはたぶん、日比谷・東大コースに行きました。
地元でしたから、私も番町・麹町まではいきました。ですが、そこでお終い。
私は、行きたいところに行けず挫折の末、二流の都立高校へ滑り込み、大学へもなんとか。
エリートには程遠い人生ですが、負け惜しみと思われるかもしれませんが、ここから私の楽しい人生が始まったと言っても過言ではありません。
高校時代の仲間男女合わせて10人のグループは、60年経った今も毎月の様に会ってはおしゃべり、グループLINEはうるさいほど。お互いに仕事の上でも助け合ったりしています。
大学のクラブ仲間は、まだ30代の頃、冗談でつけた「お達者倶楽部」がその名の通りになった今も20名ほどの集まりを毎年定期的に。同学年の男女5人とは(ひとりは今年亡くなりましたが)毎年あちらこちらに、ちょっと贅沢旅行をしています。

大学時代のアルバイト仲間とはもはや50年以上のつきあい、故郷に帰った奴も必ず毎年上京して。14名ほどのテニス仲間は毎年我が家で誕生会をし、ひんぱんに飲み会、旅行。子どもの保育園仲間とは、子どもはもはや50歳近くなったにもかかわらず、飲み会や食事会を開いています。
遊び友達には事欠きません。
何をぐちゃぐちゃ友達自慢をしているのかと思われるでしょうけれど、これが私の唯一の財産であり、誇りなのです。
コピーライターとして
私は大学を出て、コピーライターとして広告制作プロダクションで働きました。
その時代は、高度成長期でしたから、自由な発想でコピーを書かせていただくことができ、楽しくお仕事ができた半面、特に女性に風当たりの強い時代でした。
クライアントのお偉いさんに「え~、女の子?(女の子ではありません、立派な女性です)。 大丈夫? 泣いても通用しない世界だよ」と言われたりして悔しい想いをしたものでした。「泣かねぇよ、バカ!」と心の中で毒づいて。
そんな時も、同僚や先輩が助けてくれたり、励ましてくれたり、小さな会社だけに濃密な信頼感でつながっていました。
東京コピーライターズクラブのTCC賞で企業部門の賞をいただくこともできました。
シナリオ・センターを継いで
1973年に広告代理店のコピーライターをしていた夫と結婚し、1976年に第一子を産みましたが、実家に転がり込み、母の応援を得て、仕事を続けてきました。
独立して個人事務所を立ち上げようと思った矢先、父がやっていたシナリオライターの養成所「シナリオ・センター」の広告・宣伝を頼まれました。代わりに事務所として使わせてもらえたのは良かったのですが、まあ人使いが荒いというか、娘に甘えるというか、広告・宣伝だけでなく、講座の運営から財務チェックなどあれやこれやどんどん押し付け、私のコピーライターとしての仕事を侵食してきたのです。
その頃(1970年代)は、シナリオライターなど知られていない世の中でしたから、生徒など集まらない。その上、父は「日本中の人にシナリオを書いてもらいたい」という理念の上にシナリオ・センターを立ち上げたので、ともかく誰でもが受講できるようにメチャ安い授業料を設定していたので赤字続き、家賃を9カ月滞納して、父に代わってオーナーに土下座したこともあります。
それでも続けられてきたのは、事務局員も講師も安いギャラが遅配しても文句も言わず働いてくれたからです。
新井一に心酔してくれていたとはいえ、やはりシナリオが好きということだったと思います。
心筋梗塞で倒れた父に代わって私が社長になったのは、1990年。私が社長になったことで、急激に受講生が増え、赤字が解消され「小林さんの経営手腕はすごい!」と周りは褒めそやしてくれました。1994年、一棟のビルを借りました。「さすが、一戸建てのビルになった!」と。
父が1996年に逝去し、名実ともに私が二代目に。
「私、すごいんです!!」と言いたいところですが、実情はまったく違います。
社長になった時は、ちょうど世間はラブストーリーブーム、「私の恋愛の方が面白い!」とばかりご自分のラブストーリーを書きたい人が押し寄せ、どーっと受講生が増えたからなのです。
そして、一棟のビルに移れたのはバブルが崩壊して、家賃が急激に下がったから。

新たなる挑戦
多くの幸運が重なり、順風満帆に見えたシナリオ・センターも、さすがに5年前のコロナ禍には、誰一人来ない教室で「終わった」と思いました。
ちょうどコロナの一番ひどい2020年は、創立50周年でした。
半世紀やってこれたし、コロナでつぶれても仕方ないと諦め、覚悟を決めるところまで行きました。
ところが、生徒さんが来られないならと、息子を中心にスタッフ・講師があっと言う間にネットを介したオンラインの受講体制を創りました。
私は、「カメラ何台いるよ、モニターも、マイクも」と言われるままにお金を工面しただけ。
私に変って、生徒さんも講師の方々も初めてのことでしたが、大変努力してくれました。
オンライン講義の操作についてなにもわからない講師や生徒のために、電話で何時間でも根気よくひとつひとつ使い方を説明するスタッフもさることながら、必死になって覚える講師、生徒さんたちの姿。ちょっと感動モノでした。
おかげさまで、かえって全国津々浦、海外からも受講生が集まり、受講生3500人、出身ライター700名を有するシナリオライター養成所シナリオ・センターとして、今に至っています。

シナリオ・センターとは
シナリオ・センターは今年で創立55周年を迎えます。
大河ドラマ「べらぼう」(NHK)の森下佳子さんはじめ、現在放映中のテレビドラマの6割から7割は、シナリオ・センター出身の脚本家です(2025年8月現在)。
シナリオ・センターは、創設者 新井一が体系づけた「シナリオの基礎技術」を基に、他に類を見ない実績を築いてきました。
プロのシナリオライターを養成するコースをメインに、「自分の想いを、日常やビジネスで伝えたい」方向けの「法人コース」のほか、お子さんや学生さんを対象にした「キッズシナリオ」「カレッジシナリオ」、ビジネスパーソンを対象にした「ビジネスシナリオ」、プロデューサーやディレクターを対象にした「エンタメシナリオ」を2010年に発足。これまで7万人以上の方に伝える力を身につけてもらっています。
シナリオを書くことで、人を、社会を、ものごとを俯瞰することができるようになります。
自分とは異なる人物の気持ちを考える「想像力」と、相手に伝える「創造力」は、シナリオによって磨かれます。
誰もが、自分を活かしながら、相手のことも活かすことができる「みんな主人公」、そんな世界だって実現できます。
夢を目指せる場所。それがシナリオ・センターです。
周りの人に恵まれて
私は、いやいやながらシナリオ・センターを継いだのですが、おかげ様で人に恵まれて今日に至りました。ここまで人生を楽しく送れたのは、友人、仕事仲間、家族のおかげです。感謝以外のなにものもありません。
頭も力もない私が、偉そうに社長面していられるのは、すべて他人様の力、心なのです。
人とのつながりはとても大事です。
ひとりの力でできることは限られています。
様々な場面で共に手を携さえる友人や仲間をこれからも大切にしていきたいと思っています。